第2話
第2話
私の喉は、薄い氷を一枚はめ込まれたように、息を通すことを忘れていた。 吐いた、その先がない。吸えない、ということが、こんなにも自分の意思とは無関係に始まってしまうのだと、半年経ってから初めて知った。
背後の靴音が、動いた。
一歩、二歩、三歩。最後の一歩で、敷石の上に伸びていた朝陽の縁に、もうひとつ別の影が重なる。 長い影だった。揺れない影だった。誰にも仕えていない人の歩幅で、ゆっくりと、私の左肩を越えて、土に膝をついた私の指先の、すぐ手前で、その影は止まった。
「……起きていたのか」
低い声だった。問いの形をしていながら、答えを求めていない、独り言に近い声。私の背中の小さな上下が、いつからご自分の視界に入っていたのか、ご自分で確かめるような声だった。
——どうして、ここに。
口に出すべきだった。「殿下」と呼ぶことくらい、半年前の私なら、造作もなかったはずだった。けれどいまの私の喉は、再祈祷三日目の朝のように乾き、舌の先が上顎に砂粒のように貼りついて、剥がれてくれなかった。
代わりに、私の指先が、白い花弁からほんのわずかに離れた。
その動きが、悪かった。
爪の根元の薄い皮膚に、土が黒い線を引いている。指の腹には、昨日抜いた雑草の汁の薄い緑が、まだ落ちきらずに残っていた。きれいな手では、なかった。聖女が祭壇に伸ばすべき手とは、何もかもが違っていた。私はとっさにその指を握り込もうとした。握って、袖の影に隠してしまえば、もう、見られずに済む。
そのとき、敷石を擦る音がした。 布が、骨に当たる音だった。
殿下が、私の左斜め後ろで、片膝をついた。
外套の裾が敷石にぱさりと落ち、土埃をひとすじ舞い上げる。その埃の粒が、朝の光のなかで、ゆっくりと、私の睫毛の高さを横切っていく——その間、私はまだ、振り返れないでいた。振り返り方が、わからなかった。半年前に教わったはずの王族への礼儀のすべてが、いま、私の膝のあたりで、ほどけてしまっていた。
「手を、見せろ」
それは、命令の形をした声ではなかった。
「手を」と、彼はもう一度、ずっと低く繰り返した。「……見せてくれ」
そちらのほうが、命令よりも、ずっと、抗いがたかった。
私は、握りかけていた指を、ほどいた。 ほどいて、その手をどこに置いたらよいのか分からないまま、ただ、自分の膝の上に、伏せた葉のように落とした。
殿下の手が、伸びてきた。
革の手袋ではなかった。鍛練の朝に拳を巻いていた、あの硬い革の感触ではなく——薄手の、肌の温度をそのまま伝える、外套の下に潜ませていたであろう素手だった。指の節が、見たことのない近さで、私の視界に入った。剣の柄を握る人の指だった。指の側面に、薄く硬くなった皮の盛り上がりがあった。それが、私の汚れた指先を、下からそっと、掬い上げた。
掬う、という言葉がこんなにも正確な動きを指す言葉だったのだと、私はそのとき、生まれて初めて、知った。
爪に入った黒い線も、指の腹の薄い緑も、彼の掌の上では、隠れることを許されなかった。
「……冷たい」
殿下の声が、私の指の温度に触れてから、初めて、わずかに動いた。
「冷たい、ぞ」
責めるような声ではなかった。むしろ、ご自分の手の温度を、いま初めて自覚した人の声だった。彼の親指が、ためらいの間ひとつ分、私の指の関節の上で迷い、それから、その関節をひと撫で、土を払うように、優しく擦った。
それは、誰かに名前を呼ばれるよりも、ずっと深いところを呼ばれた感覚だった。半年前に「偽物」と呼ばれて凍りついて以来、名前のつけ忘れられたまま、誰にも触れさせずに来た、私のいちばん奥の、薄い氷の張った場所だった。
——いけない。
私は、指を引こうとした。 引こうとした、その瞬間、私の指の腹の下、敷石と土の境目で、何かが、淡く、点った。
最初は、朝陽の照り返しだと思った。
けれど違った。光は、土の下から、じわりと滲み上がってきていた。金、と呼ぶには優しすぎる、淡く、温い、白に近い金の光。指の腹の皮膚を、内側から温めるように、その光は、私の体の輪郭を一度なぞってから、ゆっくりと外へと滲み出した。それは私の指先を中心にして、薄絹を一枚ずつ重ねるように広がり、半月のあいだ首を垂れていた白い小花の根元を、輪のかたちに、ぐるりと囲んでいた。
「あ……」
声を上げたのは、私だったのか、殿下だったのか、もう分からなかった。
光は、声よりも先に、走った。
掬い上げられた私の指の関節から、殿下の親指の腹を経由して、彼の手首まで、淡い金の筋がひとすじ、滑り上がっていく。私はそれを目で追えなかった。次の瞬間には、足元の花壇全体が、内側から照らされていたからだ。
ぱき、と。
枯れていた茎の根元で、何かが、ほどけた音がした。
ぱき、ぱき、ぱき、と。 半月のあいだ首を垂れていた小花の細い首が、ひとつ、またひとつ、内側から押し上げられるようにして、まっすぐに、空のほうへ持ち上げられていく。萎れた葉脈に、緑が走り戻る。土の下で、私には見えない根が、息を吸い直す気配がした。
東側の薔薇の朽ちた枝の先で、黒く焼けたようになっていた蕾が、ぱり、と音を立てて殻を割り、内側から濃い紅の花弁を押し出した。それは半月前まで誰一人世話を受けに来なかった薔薇で、私が昨日、根元に膝をついて「ごめんなさいね」と謝った薔薇だった。私が土に置き忘れた「ごめんなさいね」が、半月分の沈黙を経て、いま、根の側から私のほうへ返事を寄越したのだと、私は声に出さずに思った。
風が、初めて、巻いた。
裏庭の生垣の向こうから、白い、無数の、見覚えのある花弁が、ふわり、と一斉に持ち上がる。それは、私がこの半年、一枚ずつ拾い集めて、隅の籠にためてきた、落ちた花弁だった。風がそれをひとつにまとめて、私と、私の指を掬う殿下の周りで、緩やかに、緩やかに、渦を描いた。花弁の縁が、私のうなじをかすめては離れ、ひんやりとした絹のような感触をひとつずつ、首筋に置いていった。
白い渦の真ん中で、私はようやく、振り返ることを思い出した。
殿下は、片膝をついたまま、顔を上げていた。
その瞳の青を、私は、半年のあいだ、誰よりも遠くから盗み見てきた。回廊の格子越しの青。鍛練場の生垣越しの青。書類の束に伏せられた額の影に隠れた、あの一秒の青。
その青が、いま、私の指先ひとつ分の距離で——揺れていた。
驚き、ではなかった。 畏れ、でもなかった。
王族の青は、決して揺れないものとして育てられる。涙を見せず、感情を見せず、政の機微にだけ細かく動くようにと、たぶん幼少のころから繰り返し練習させられる青だ。それが、私の汚れた指の上で、初めて、何かに——たぶんご自身でも名前のつけられない何かに——見開かれていた。睫毛のひと揺れぶんだけ、その青は、定まる場所を見失っていた。
開かれた瞳孔が、白い渦の光をそのまま映し込んで、まるでその奥に、もう一つ別の朝が灯ったかのようだった。
「……君は」
声が、掠れた。
「君は、——」
その先を、殿下は、最後まで言わなかった。
言わずに、私の指を掬っていた手の角度を、ほんの少しだけ、深くした。 深くして、もう片方の手を、私の指の上に、覆い被せるように、そっと重ねた。
手袋ではない、二枚の素手の間に、私の汚れた指は、すっぽりと、隠された。
二枚の掌の体温は、外套の下の鼓動の温度をそのまま帯びていて、私の指の冷たさを、責めずに、ただ、内側から温め直した。半年ぶりに、私の指は、誰かの体温の容れ物になっていた。
光が、隠された。 渦が、緩んだ。 花弁が、ゆっくりと、敷石の上に降りた。
降りた花弁の白の上で、私は、自分の心臓の音だけが、まだ止め損ねた光のように、暴れているのを聞いた。耳の奥で、その鼓動は、半年ぶりに、自分が生きているという音として、聞こえていた。
「……誰にも」
殿下の声が、私の指を二枚の掌で包んだまま、敷石の上にごく低く、落ちた。
「誰にも、言うな。今日のこの花のことも——君のこの指のことも」
私は、頷くことすら、できなかった。 頷いた瞬間に、半年のあいだ「偽物」と呼ばれて凍えていた私の何かが、いっぺんに溶け出してしまいそうだったからだ。
殿下は、それでも、私が頷くのを待たなかった。 答えを待つことが、私の負担になることを、もう知っているような目をしていた。
包まれた指のなか、彼の親指の腹だけが、もう一度、ほんのわずか、私の指の関節を撫でた。 それから、ゆっくりと、二枚の手が、離れた。
立ち上がる気配があった。 外套の裾が敷石を擦り、踵が一度、低く鳴った。踵の音と踵の音のあいだに、彼が、息をひとつ呑み込む気配があった。
「——明日も、ここに来てくれるか」
問う声は、振り返らなかった。
頷いた私の襟足を、巻き戻った風が、もう一度だけ撫でていった。
裏庭の白い花弁の上に、残されたのは、私の汚れた指と——その指の関節に、まだ確かに残っている、人の体温の、たった一点の、痕跡だった。