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偽聖女と呼ばれた私の指先に、王太子殿下の唇が触れた日

第1話 第1話

第1話

第1話

土の匂いが、いつもより冷たかった。

指先で掬った腐葉土はまだ朝の露を含んでいて、爪の隙間に黒い線を引きながら、私の白い指を汚していく。膝の下に敷いた薄い当て布越しに、敷石の角が骨に食い込む。それでも私は立ち上がらず、半月前から首を垂れている小さな白い花のほうへ、もう一度そっと指を伸ばした。

——召喚から、ちょうど半年。

王宮の北裏、北塔の影に隠れたこの裏庭が、私に与えられた最後の場所だった。神殿の祭壇でもなく、王太子の隣でもなく、きらびやかな会議の末席ですらない。雑草と花壇の境目さえあやふやな、誰も来ない、そして誰もが忘れている、ここ。

花壇は東側の薔薇から先に枯れて、いまは白い小花の一群だけが、首を垂れながらかろうじて咲き残っている。私の役目は、毎朝ここに来て、雑草を抜き、水をやり、もう咲かないと分かっている茎の根元を整えること。誰もこの花を見に来ない。誰もこの花の名前を知らない。けれど私は、毎朝ここで彼らに名前をつけ直すことだけは、自分に許していた。

「偽聖女」と、最初に呼ばれた日のことは、もう正確には思い出せない。

ただ、覚えているのは舌の奥に残った鉄の味だ。召喚の儀の真ん中で、私は祈った。胸の前で組んだ指が震えるほど、強く、長く、祈った。けれど祭壇の上に光は降りなかった。代わりに私の口の中で何かが切れて、唇の端から細い血が垂れた——あの夜、初めて口にした聖句が、最初で最後の祈りだった。

光を生まぬ祈りは、聖女のものではない。

そう告げたのは、王の右手に立っていた公爵令嬢ジゼル。手にした扇の骨が一度だけ軋んで、それから彼女は微笑った。半月前のあの微笑が、いまだに私の背筋を、霜のように撫で上げる。

それから、私の半年は、ひどく短かった。

最初の一月は神殿の地下、小さな石室で「再祈祷」と呼ばれる検査を受けた。三日に一度、聖句を唱えさせられ、光が降りないことが羽根ペンの音で記録される。白く塗られた壁には、失敗の数を刻む木札が掛けられていて、書記がその札を一枚増やすたびに、私は、その音だけは絶対に聞かないように、奥歯を強く噛み締めていた。石室は昼も夜も同じ温度で、ろうそくの脂の匂いと、誰かが持ち込んだ古い経本の黴の匂いが、布の繊維にまで染み込んだ。経文を唱える私の声は、二日目には掠れ、四日目には自分の声と思えなくなった。それでも書記は顔を上げない。彼にとって私は、結果を書き入れる罫線の、左端の名前でしかなかった。

次の二月は王宮の客間に移された。客間と呼ばれてはいたが、扉の外には常に近衛が立ち、食事は一日に二度、銀盆ではなく素焼きの皿で運ばれた。夜中に窓を開けようとしただけで、見張りの剣の柄が壁を一度叩いた。あれは、開けるなという合図だった。

そうして三月目に、誰の決定でもないような顔で、私はこの裏庭に放された。剣も鎧戸もない、ただ広いだけの場所で、私の声を聞きとがめる人は、もう一人もいなくなった。

裏庭の花番。

侍女頭は私を呼ぶときに名を呼ばず、「あなた」と一語で済ませる。掃除係の少年は私と目が合うと小走りに角を曲がる。それは悪意というよりも、私という存在の扱い方を、宮の誰もまだ決めかねているからなのだと、最近になって分かった。決めかねている人たちは、決めずに済む距離を選ぶ。私はその距離の総和の、ちょうど中心にいる。

枯れかけの花は、私の指に応えなかった。

それでも私は毎朝ここに来る。来ないと、私を呼ぶ声が、どこにもなくなる気がしてしまうから。誰かに必要とされない一日は、骨の内側から少しずつ私を欠けさせていく——その実感だけが、半年のあいだに私が新しく学んだ唯一のことだった。

「……枯れる前に、ごめんなさいね」

声に出して、私は花弁にそっと触れる。指先の熱が伝わるはずもないのに、わずかに花首が動いた気がして、私はすぐに手を引いた。引きすぎた、と思った。半年前の私なら、もっと迷いなく触れていた。

土に膝をついた裾が湿って、薄い絹がふくらはぎに張りつく。風が一度、生垣の向こうから入ってきて、私の襟元の解れたリボンを揺らす。聖女の白衣のはずだった衣装は、今ではもう「裏庭の花番」の作業着で、袖口は土で黒ずみ、肘の内側には小さな擦り切れができていた。

それでも、私はこの服を脱げないでいる。

脱いだら、本当に、私が呼ばれてここに来た意味が——どこにも残らなくなってしまう。

そのとき、敷石の上で、靴音が止まった。

低く、硬質で、軋みのない歩み。一歩、二歩、三歩。歩幅は私の半身分よりやや広く、最後の一歩だけがほんの少し短い。それは、相手が立ち止まるとき特有の踏み込みの癖だった。

——私は、振り返らなかった。

振り返れなかった、というほうが、たぶん正しい。

なぜなら、その靴音の主を、私はもう半年以上、誰にも気づかれぬように見続けてきたからだ。

王太子アルフレッド殿下。

謁見の間の柱の影から。回廊の窓の格子越しに。剣術鍛練場の生垣の隙間から。私はその後ろ姿を、横顔を、ときには伏せた睫毛の影までを、数えるように盗み見てきた。聖女として迎えられるはずだった人。聖女と認められなかった私を、それでも一度も嘲笑したことのなかった、ただ一人の人。

一度だけ、回廊の柱の陰から見ていたとき、彼が誰にも見られていないと思って、書類の束に一瞬だけ額を押し当てたことがあった。ほんの一秒。それから何事もなかったように顔を上げ、彼は笑顔を整え直した。その一秒を見たのが私だけだったとは限らない。けれど、その一秒の重さを覚えてしまったのは、たぶん、私だけだった。

声を交わしたことは、五度しかない。挨拶を含めても、十度に届かない。

それなのに私は、彼の靴音だけは、目を瞑っていても聞き分けられるようになっていた。鍛練の朝は革靴の踵が乾いて鳴り、書類の多い夜更けは絨毯の上を擦る癖がある。今日のそれは、朝でも夜更けでもない、どこか急いで、けれど急いでいることを誰にも悟られぬように整えられた歩調——私だけが知っている、彼の、考えごとを抱えた靴音だった。

なのに、止まった。私の二歩半ほど後ろで。靴底と敷石の間に挟まれた小さな砂利がひとつ、軋む音を立てて、それきり、何も。

——どうして、ここに。

口の中で問いを転がしながら、私は花弁に伸ばした指をそのままの形で止めた。動かしたら、見えてしまう。動いた指先が、いま、震えていることが。

袖口の縫い目が、私の手首の脈に合わせて、かすかに上下する。半年で覚えたのは、こうしているとき、息の止め方だった。胸を膨らませない。肩を上げない。顎を引いて、瞼の裏で十まで数える。指先は花弁の上、踵は敷石の角、視線は土に落ちた一枚の朽ち葉の縁——置きどころを決めて、それから一切、動かさない。十まで数え終わるころには、たいていの視線は、私から離れていく。

けれど今日のそれは、十を数えても、二十を数えても、二十五を超えても、動かなかった。

代わりに、背後で布の擦れる音が一度だけした。外套の裾が、わずかに身じろぎしたのだと思う。それから、革手袋を握り直すような、ごく小さな摩擦音。私の耳は、半年のあいだに、こういう小さな音だけを拾うようにできあがってしまっていた。誰かが私を見ているか、見ていないか。立ち去ろうとしているか、近づこうとしているか。それを、目を上げずに測る術ばかりが、巧くなった。

——立ち去って、と、私は思った。 ——立ち去らないで、と、同じ胸の中で、別の声が言った。

ふたつの願いが鎖骨のあたりでぶつかって、ほどけないまま、私の喉のすぐ下で固まった。半年前なら、迷うこともなく後者だけを選べたはずだった。けれど今の私は、誰かが私の名を呼ぶ声よりも、誰かが私の前で踵を返す音のほうに、慣れすぎてしまっていた。期待を持つのは、もう、ひと刺しの覚悟が要る作業だった。

風が止まった。

裏庭の隅、誰も来ないはずの、忘れ去られた花壇の前で——ただ、白い小さな花弁が、ひとつ、私の指の腹の上で、ゆっくりと、確かに、震えていた。

それは、花が震えているのではなかった。

花弁を支える私の指先が、心臓の奥から押し上げられる動悸を、隠しきれずに伝えてしまっているだけだった。

背後の靴音は、それきり、動かない。

殿下も、何も、おっしゃらない。

ただ、生垣の向こうで風が一度だけ巻き戻り、私の襟足の後れ毛を、ふわりと、誰かの指のように撫でて——通り過ぎていった。

私は、ようやく、息を吐くことを思い出した。

けれど、それを吸い直す勇気だけは、まだ、私の胸のどこにも、見つからなかった。

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