第3話
第3話
踵の音が、半歩、止まった。
立ち去ったはずだった。 立ち去る、と決めたはずの足音が、敷石の二歩先で、どうしてか、つかえた。
私は、まだ膝をついたままだった。膝の下の薄い当て布は土の湿りを吸い切って、ふくらはぎの裏の皮膚に、ひんやりと張りついていた。両手は、伏せた葉のかたちに、自分の太腿の上に置かれていた。指の腹に、いま離れたばかりの、二枚の掌の体温が、まだ薄い金の輪のように残っていた。
肩を、上げてはいけない。 顎を、上げてはいけない。 半年で覚えた、息の止め方を、私はもう一度、自分に言い聞かせた。
けれど、敷石の上で、踵の主は、もう一度、私のほうへ向き直っていた。
外套の裾が、敷石を擦った。一度、二度、三度。今度は、来るときよりも、ずっと、ためらいの混じった足音だった。彼自身、ご自分が引き返している理由を、まだ言葉にできずにいるような——そんな、半端な、けれど確かな、戻り方だった。
私の左肩の上に、もう一度、長い影が落ちた。
来たときよりも、もう半歩近く、その影は、私の身体の輪郭に重なった。
外套の襟が擦れる音がして、視界の隅、敷石の上に、片方の膝が、ふたたび、降りた。今度は、手袋を外す手間も惜しまれていた。素手の指の節が、一度、外套の裾を払い、それから、行き場のないままに、宙で、軽く、握り直された。
「……なぜ」
声は、私のうなじの少し下、襟元のリボンの結び目あたりに、低く、落ちた。
「なぜ、誰にも、言わなかった」
答えなど、初めから、私には用意されていなかった。
なぜ、誰にも、言わなかったのか。 半年のあいだ、私は、自分の指の中に何かが眠っていることなど、一度も、信じたことがなかった。再祈祷の石室で、私が知っていたのは、舌の根を噛み切れば朝までは詠唱を免れるかもしれない、という、ただそれだけの算段だった。光は降りない、と最初に告げたのは私の胸の奥のもう一人の私で、その私の声を、私は、半年かけて、自分の本当の声と取り違えていた。
「……言うことが、ありませんでした」
口の中で、ぽろりと、ひとつだけ、私の声が、剥がれた。
それは、答えになっていなかった。けれど、答えにならない、ということだけが、いまの私が、たったひとつ、本当のことだった。
膝の上に伏せていた私の指の上に、ふたたび、彼の手が、置かれた。
今度は、掬わなかった。 覆いもしなかった。 ただ、私の右手の甲の上に、彼の右手の掌が、薄く、重ねられた。重ねられた掌の重さは、剣を扱う人のそれにしては、信じられないほど、軽かった。私の指の節を、彼の指の節が、ひとつずつ、たしかめるように、なぞった。爪の根の黒い線も、指の腹の薄い緑も、隠されはしなかった。けれど、責められもしなかった。
——繋がれている。
繋ぐ、という言葉を、私は半年ぶりに思い出した。再祈祷の三日目、書記が罫線の左端に書いた私の名前は、一度も、誰の名前ともつながっていなかった。客間の銀盆ではない素焼きの皿は、給仕の手と私の手のあいだで、いつも宙に浮いて受け渡された。そうしてここ、裏庭の花壇では、私の指は、土と、雑草と、首を垂れた花とだけ、繋がっていた。人の指の節と、私の指の節とが、こうしてふたつの点で重なるということが、半年の私の指は、たぶん、もう、覚えていなかった。
「……寒く、ありませんか」
ようやく、私は、声を、私の声らしく、口の外へ送り出すことができた。
殿下のうつむいた肩が、わずかに、揺れた。それは、笑みに似た揺れだった。けれど、笑い声には、ならなかった。
「私のほうが、君に、それを訊くべきだ」
外套の裾が、私の膝の横の、敷石の上に、ふわりと広げられた。広げられた裾は、私の冷えたふくらはぎの輪郭にまでは届かなかった。それでも、自分の身体の右半分が、外套の影の中に置かれているということだけは、皮膚の、ずっと奥のほうで、わかった。
「半年だ」
低い声が、敷石の継ぎ目に、ひとつずつ、置かれていった。
「半年、私は、君を、ここに、置いた。神殿の石室にも、客間にも、私は、一度も、君に会いに行かなかった。会いに行けばよかった、と、毎朝、思っていた。それでも、私は、行かなかった」
責めているのは、私ではなかった。 責めているのは、ご自身のほうだった。
その声の置きどころが、私の指の関節と、彼の指の関節の、ちょうど触れ合った一点であるということに、私は、少し遅れて、気づいた。
裏庭の風が、もう一度、巻いた。
今度は、花弁の渦は、起きなかった。 代わりに、東側の薔薇の、たったいま殻を割ったばかりの紅い花弁から、はじめての香りが、ひとすじだけ、私たちの間に、立ち昇った。
それは、半月前まで、誰の鼻にも届かなかった香りだった。
香りは、敷石を伝わなかった。私の襟元のリボンの解れにも、絡まなかった。ただ、私と、私の指を覆う彼の手の、ちょうど真上だけを、薄い帯のように、ゆっくりと横切っていった。香りの帯のなかで、私はうつむいたまま、瞼の裏で、半年ぶんの「偽物」という三文字を、一文字ずつ、ほどいていった。
ほどかれた三文字は、香りの帯に乗って、いつのまにか、輪郭を失った。
舌の奥の鉄の味も、再祈祷の経本の黴の匂いも、客間の素焼きの皿の冷たさも、銀の扇の骨の軋みも——あれだけ私の半年を縫いつけていたいくつもの音と匂いが、紅い薔薇の、ひとすじの香りの中で、ひとつずつ、溶けていった。
溶け終わるまで、彼は、私の指を覆ったまま、何も言わなかった。
「……殿下」
私は、初めて、その三文字を、呼んだ。
呼んでから、自分でも驚いて、私はようやく、顔を上げた。
睫毛のすぐ先に、彼の青い瞳があった。 半年のあいだ盗み見てきた、回廊の格子越しの青でも、書類の束に伏せられた額の影の青でもなかった。私の指の節を覆ったまま、私の声の三文字を、まるで、初めて聞く言葉のように、丁寧に、聞き取っている青だった。
「……明日も、と」
私は、声が震えるのを、止められなかった。
「明日も、ここに、と。仰ってくださいましたから」
彼の瞳が、ほんのわずか、揺れた。 それから、私の指の上に置かれた掌が、もう一度、深く、私の手の甲を覆った。
「……ああ」
たった、ひと言だった。
けれどそのひと言は、半年のあいだ、誰の口からも、私に向けて、言われたことのない種類の音だった。
「ああ。明日も、明後日も。——その先も」
その先も、と彼は言った。
その先、という言葉の輪郭を、私はまだ、自分の身体のどこに置いたらよいのか、分からなかった。半年前まで、私の「その先」は、聖女の白衣のままで終わっていたはずだった。半年のあいだ、私の「その先」は、明日の朝の、雑草の根の太さでしか、測れなかった。
それを、彼は、私の指の上で、もう一度、半年より長い言葉に、結び直そうとしていた。
殿下の指が、ゆっくりと、私の指から、離れた。
離れる動きの最後に、彼の親指が、もう一度、私の指の関節をほんの少しだけ、撫でた。それは、約束の代わりの、合図のような、ごく小さな、けれど確かな、動きだった。
立ち上がる気配があった。
外套の裾が、敷石の上で、ゆっくりと、巻き上げられていった。踵の鳴り方が、来たときの、どこか急いだ歩調とは違っていた。今度の踵は、ご自分の歩幅の、ひとつひとつの長さを、確かめながら、敷石を、選んで、踏んでいた。
私は、ようやく、顔を上げて、その背中を、見送った。
外套の左肩の縫い目が、半年前より、わずかに、解れていた。書類の束を、毎晩、左肩で支え直す癖が、たぶん、その一筋を、毎晩、ほんの少しずつ、ほどいてきた。誰も繕わなかったその一筋を、私は、初めて、見送る側の高さから、見つめた。
裏庭の生垣を抜けるとき、彼の歩調は、ほんの一拍、つかえた。
つかえた一拍の先で、北塔の影の向こう、王宮の中庭のほうから、馬蹄の音が、ひとつ、低く、こだまして、消えた。
それは、私には、まだ意味の分からない音だった。
けれど、彼の背中の、その一拍のつかえだけは、なぜか、私の指の関節の、彼の親指が最後に置いた一点の上で、もう一度、ほんの小さく、震えた。