第2話
第2話
馬の背に揺られていた半日が、いまも腿の内側に残っている。
雪の幕を抜けて、城門の鉄柵が頭上を通り過ぎた瞬間のことだ。蹄の音が石から木へ変わり、外套の裾が私の足首に絡まって、ようやく旅の終わりが来たのだと知った。鎖は、まだ手首に在った。皮の下で骨が脈打つ場所に、銀の輪が冷たく嵌まり、止血帯のように肉を絞っていた。
馬から下ろされるとき、大公の腕は私をまた抱え上げた。重さに撓むことなく、けれど、抱え方は朝と少しだけ違っていた。朝は、罪人を運ぶ腕だった。今は——なんと言えばいいのだろう、壊れ物を運ぶ腕にも似ていて、けれど壊れ物にしては、私の背に当たる掌の幅が、確かすぎた。
回廊の白い大理石が、外套の裾の下を流れていく。人の気配は、奇妙なほど少なかった。先導する執事の長靴の音と、私を抱える大公の靴音と、二つの呼吸だけが、縦長の窓と窓のあいだを渡っていく。窓の外では雪が、まだ降っていた。
(地下牢に運ばれるのだろうか)
そう、思っていた。皇都の独房の天井の染みを、私は十二日間、毎晩数えていた。北方大公領の地下は、それより冷たいだろうか。藁の代わりに、何が敷かれているのだろうか。鎖の重みに慣れた手首が、地下の鉄環に繋がれることを、いっそ予期して、覚悟も済ませていた。
回廊が三度、折れた。
階段は、下りなかった。
執事が立ち止まったのは、二階の北翼、雪見の窓に面した一室の前だった。樫の扉に手をかけ、押し開ける。蝶番がきしまない。手入れの行き届いた、客人のための扉だった。
大公が、私を寝台の縁に降ろした。
寝台。
藁ではなく、乾いた羽毛と、絹の上敷きの寝台。
私は、自分の指が外套を握ったまま動かないことに気づいた。理解が、追いつかない。視線だけを部屋のなかへ、ゆっくりと泳がせた。暖炉には、もう薪が組まれていた。私が運ばれてくることを、誰かが先に知って、火を準備していたのだ。窓には厚手の織りの帳が落ちて、その内側に、雪を見るためだけの硝子の小窓がもう一つ嵌っていた。卓には水差しと、陶器の杯。それから、湯気のまだ立つ深皿が一つ。深皿の縁から立ちのぼる湯気には、香草と根菜の、ほのかに甘い匂いが混じっていた。皇都の独房で配られた、塩気だけの薄い粥とは、まるで違う匂いだった。
罪人に与えるものではない。
「ご無礼を」
執事の老いた声が、寝台の脇から落ちてきた。深く、けれど私の名は呼ばずに、彼は腰を折った。
「お足の鎖を、解かせていただきまする」
足の鎖。手首ではなく、足の鎖。私は、自分の足首にも鎖が嵌ったままだったことを、ようやく思い出した。床の絨毯に滴った蝋燭の熱の上で、銀の輪が微かな湯気を立てていた。
執事の指は、丁寧だった。皮膚を傷つけぬように、輪の継ぎ目を確かめ、専用の鍵で錠を外す。鍵が回るとき、かすかな金属の擦れる音が、二度、続いた。皇都を発つ際、司祭は鎖の鍵を渡そうとしなかった。けれどここに、開く鍵がある——大公は、城門を出る前に、何か手を打っていたのだろう。
足首が軽くなった瞬間、立ちくらみが来た。
倒れる前に、寝台の縁に手を置いた。指のさきが、絹の上敷きの冷たさに触れて、頬の血が引いていくのが分かった。鎖がない、という事実を、皮膚がまだ受け止め切れていなかった。足首には、鎖の輪のかたちが、皮膚の色を変えて残っているのが分かった。押されていた場所だけ、白く、その縁だけが赤い。血の流れが戻ってくると、その境目が、針で刺すように痺れた。
「手首は、明朝に」
大公が、暖炉のほうから、こちらを見ずに言った。
「鍛冶を呼ぶ。皇都の鍵では、開かぬ仕様だ」
声に、苛立ちのような、けれど苛立ちではない、別の種類の硬さが混ざっていた。彼が、皇都の司祭たちのやり方を、許してはいないのだということが、その響きから伝わってきた。
執事が退き、侍女が一人、湯と布、それから乾いた肌着の包みを運び入れた。私は、自分の体が二重三重に汚れていることを、今になってようやく自覚した。けれど侍女は私の眼を見ずに、寝台の脇に支度を整え、無言で頭を下げて去っていった。眼を、伏せられた。
(罪人だから、ではない)
そう、思いたかった。北方の作法なのだと、客人への礼節として伏せられたのだと、思いたかった。けれど侍女の眉のあたりに、わずかな逡巡が走ったのを、私は見逃さなかった。湯桶を置く彼女の指が、ほんの一拍、宙で止まった。その一拍に、彼女が呑み込んだ言葉の重さが、はっきりと滲んでいた。偽聖女を匿うということが、この城でも当然のことではないのだ。その当然でなさは、私の罪状にではなく、私を匿った大公の判断にこそ向けられているのかもしれない、と思った。
執事も退いて、室には、大公と私だけが残った。
彼は、暖炉の前に立っていた。背を、こちらに向けたまま。長靴の踵が絨毯の毛を僅かに押し倒し、そこに彼の影が落ちていた。火はもう、完全に育っていた。樫の薪の香ばしい煙が、室の天井近くで層を作って漂っている。私は寝台の縁に座ったまま、外套を握る指を、ほどけずにいた。
しばらく、二人とも、何も言わなかった。
会話がない、というよりも——彼が、言葉を選んでいる気配がした。火の爆ぜる音が、二度、三度。彼の背中の、肩のあたりが、ほんの僅かに、上下していた。息を、整えているのだと思った。あるいは、整えようとして、整え切れていないのかもしれなかった。
外套の重みが、肩の上で揺れた。彼が、ゆっくりとこちらへ歩いてきていた。私は、咄嗟に背筋を伸ばそうとして、それができなかった。半日の馬上と、十二日の独房と、それより前の三月半の祭壇とが、いっぺんに腰のあたりに降りてきていた。
大公は、寝台の脇に立った。私の頭の高さよりも、ふた周りほど上。彼が腰を屈めるのが、外套の影でわかった。手が、伸びてきた。
長い指だった。剣だこの硬さが、関節の節に残っている指。爪はきれいに切られて、寒さで僅かに桃色を帯びている。
その指が、私の頬の——指一本ぶんの距離で、止まった。
朝、広場で外套を被せたときと、同じ距離だった。
止まった指は、宙で僅かに震えた。震えた、というより、迷ったというほうが正しいかもしれない。触れるか、触れないか——その二者択一の上で、彼の指の関節は、明確に「触れない」を選んだ。指は、私の頬を逸れて、外套の襟元に降りた。緩んでいた紐の結び目を、きゅっと、首の下で締め直す。指の背が、鎖骨のすぐ上の皮膚を、ほんの一瞬だけ掠めた。掠めた、と気づいたときには、もう離れていた。
それだけだった。
「寒かろう」
低い、四文字の声。
彼は身を起こし、振り返らずに、扉のほうへ歩いた。長靴の踵が、絨毯を押し倒す音。扉の取手に、彼の指がかかる。
「鍵は、かけぬ」
短く、それだけ言った。「廊下の終わりに、見張りもおらぬ。逃げたいなら、逃げよ」
息が、止まった。
「ただし——」
扉の取手を、彼は握ったまま、わずかに振り返った。氷青の瞳が、暖炉の火を一瞬だけ宿して、揺れた。
「逃げぬのなら、明朝、私のもとへ来てくれ。話したいことが、ある」
扉が、静かに閉まった。蝶番は、最後まで、きしまなかった。
私は、外套の襟の結び目に、手を当てた。彼の指が、ほんの一瞬、紐を締め直したその場所に。布の表面に、彼の体温の名残が、ほんの少しだけ残っていた。指のかたちでは、ない。指の影、とでも言うべき、薄い熱だった。
(なぜ、触れなかったのだろう)
頬まで、あと指一本。紐を結び直すために、彼の手は確かに私の襟元まで届いた。届いたのに、頬の手前で、彼の指は迷い、選んだ。
罪人だから、では、ない気がした。聖痕がないから、でも、ない気がした。もっと別の——彼自身が、彼自身に向けて結んだ、固い禁忌のようなものが、彼の指のあいだに在ったのだと思う。
暖炉の薪が、低く爆ぜた。
私はゆっくりと立ち上がり、扉まで歩いた。長靴の音はもう、廊下の彼方に消えていた。取手に手をかける。回した。確かに、鍵はかかっていなかった。鉄格子も、閂も、ない。私を罪人として閉じ込める仕掛けは、この部屋には、一つも備えられていなかった。
逃げよ、と彼は言った。
逃げなければ、明朝、来い、とも言った。
選べ、と——彼は、私に、選ばせた。
鎖をかけて運んできた人が、最後に手渡したのが、鍵のない扉と、選ぶ自由だった。私は、取手を握った手を、ゆっくりと外した。暖炉の火が、絨毯に長い影を引いていた。手首の銀の鎖は、まだ嵌ったままで、その輪の縁に、暖炉の橙が小さく宿っていた。
明朝、私は、彼のもとへ行く。
そう決めた瞬間、足の裏が、ようやく床の温度を覚えた。
廊下の遠く、どこかの扉が閉まる音がした。