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氷の大公は偽聖女に跪く

第1話 第1話

第1話

第1話

銀の鎖が、手首の骨に食い込んでいた。

凍えた石畳に膝をつかされて、もう四半刻になる。鎖の継ぎ目から滲んだ露が、薬指の付け根を伝って爪先へと落ちる。冷たいというより、もはや痛い、と思った。痺れの底に、血の鉄錆の味が舌の奥でじんわりと広がっている。さっき頬を打たれたとき、口の中を噛んだのだ。歯と歯の隙間に肉の繊維が挟まったままで、それがなぜか、自分が確かにここに居るのだという証のように感じられた。

「偽聖女! 詐欺師め!」 「灰になれ、化け物!」

罵声は、雪の朝のせいで余計に鋭く響いた。聖アルメンディア大聖堂の前広場には、千を超える人だかり。私の処刑を見にきた善良な民衆たちの白い息が、立ち昇っては凍る。革靴と濡れた毛織物と、揚げ油と、誰かの口臭。混じり合った匂いの中に、薪の焚き火の煙だけが、ふと懐かしい肌触りで紛れていた。

——確かに、ここに在ったのに。

召喚の祭壇で、銀色の文字が私の足元に浮かんだあの瞬間。指先が熱を持って、触れた病兵の咳が止まった、あの夕刻。記憶は、嘘ではない。少なくとも、私の内側では。

それなのに、十二日前、第三司祭ヴァルザールは祭壇の前で宣告した。「聖痕なき娘。お前の祈りは、神の似姿を騙る邪術である」と。掌を返すまでの三月半、私は確かに彼らの「聖女」だった。けれど聖痕——掌に咲くと伝えられる銀の薔薇の紋——が現れぬことを唯一の理由に、私の名は教会の記録から削られ、銀の鎖に置き換えられた。

思えば、最後に温かい飲み物を口にしたのはいつだろう。地下の独房に運ばれてからこの方、与えられたのは木の椀の濁った水と、塩のきつい黒パンだけだった。司祭たちは取り調べの間中、私に祈らせなかった。祈れば、それが本物の証拠となってしまうからだ、と司祭の一人が呟くのを、扉の隙間から聞いた。彼らは、私が偽物であることを必要としていた。誰のために、なぜ。考えても答えは出ず、考える時間だけが、独房の天井の染みのかたちを覚えさせた。

(視線だけは、伏せない)

そう決めていた。誰か一人でも、この眼を見て嘘か真かを測ろうとする者がいるなら、その一人のために伏せたくなかった。広場の最前列で、母親に抱かれた幼児がきょとんと私を見ている。目だけが合った。その子の睫毛にも雪が乗っているのを、私は認めた。それだけで、少しだけ、息ができた。

執行人の革靴が、二歩、近づく。

樫の柄に巻かれた斧が、私の襟首から指三本ぶんの位置で持ち上げられる気配がする。司祭の白い手が、合図のために天に上がった。広場のざわめきが、ふっと止んだ。

ああ、と思った。冷えた石を、頬に押し当てるような気持ちで。 死ぬのか、私は。 聖女として召喚され、偽物として殺されるために。

——その時だった。

蹄の音が、広場の奥から雪を蹴った。

凍えた石畳を打つ蹄鉄の響きが、罵声で麻痺していた耳の奥に、不思議な秩序として届いた。整えられた速駆けの拍子。乱れず、急がず、けれど一切の迷いがない。それは、この場の混沌のどこにも属さない音だった。私は伏せていなかった眼を、ほんの少しだけ広場の奥へと向けた。雪の幕の向こうから、黒い塊が近づいてくる。

一頭ではない。六、七頭ぶんの黒馬が、人垣を強引に割って入ってくる。先頭の騎乗者は鞍の上で身を起こし、漆黒の外套を翻して馬から降りた。長靴の踵が石畳を打つ音が、三度。それだけで、観衆の声が沈んだ。

雪のような白髪。氷青の瞳。襟元に北の星——七つの銀星——を縫い留めた紋章。

頬を伝う冷気の中で、その白髪だけが奇妙に温度を持って見えた。雪と見紛うほど淡く、けれど雪ではない、生きた人間の髪。瞳は、凍った湖の底をのぞき込んだときに見える、あの透き通る藍に近い。視線を据えるだけで、相対する者の骨を一度ぜんぶ数え終えるような、そういう眼だった。

北方を統べる大公アルベリク・ヴァン・ノルディン。

噂でしか知らなかった人だ。皇都から馬で十日、雪の彼方に在る大公領。皇帝の従弟であり、北方七郡の統帥者。先代の聖女を喪って以来、社交界に姿を見せぬ「氷の人」と陰口を叩かれる男。

その人が、なぜ。

司祭の白い手は、まだ天に在った。けれど、振り下ろされはしなかった。大公が、片手で抜剣したからだ。

長剣の切先は、私の鎖には触れなかった。 彼が断ったのは——司祭の合図を待っていた、執行人の腕の付け根。革鎧の合わせ目に、刃の腹がぴたりと吸い付いて止まった。血は出さない。出させない、という抜き方だった。剣の動きには無駄が一つもなく、鋼の重さがまるで彼の腕の延長のように見えた。

「やめさせろ、ヴァルザール卿」

低い声だった。叫ぶでもなく、語気を荒げるでもない。それなのに、私の背筋を冷たい糸が通り抜けた。

「な、何の権限で——」

司祭の喉が鳴った。声が裏返るのを、私は確かに聞いた。大公はそれには応えず、剣を執行人の腕に当てたまま、もう一方の膝を、私の前にゆっくりと折った。

氷青の瞳が、私の眼の高さに来る。

近い、と思った。鼻先から零れる白い息が、彼の外套の襟に絡まって溶ける。睫毛は思いがけず長く、雪の粒の重さで、ほんの少しだけ下へ撓んでいる。眉間の上には、馬を駆けてきた汗の名残らしい筋が、薄く光っていた。冷たい人だと聞かされていた頬に、確かに人の体温が通っている——その当たり前の事実が、なぜかひどく不意打ちのように私の胸を打った。彼の唇が動いた。私だけに聞こえる声で。

「ご無事ですか」

短い問いだった。その四文字に、なぜか胸の奥が痛んだ。罵声の中で、誰一人として尋ねなかった言葉だった。

頷くことも、応えることも、できなかった。ただ、唇を噛んで、視線だけを返した。鎖の重みで、肩がわずかに震える。それを、隠すことができなかった。

大公は、ゆっくりと立ち上がった。剣を執行人の腕から離し、鞘へと戻す音が、石畳に低く響いた。それから外套——夜と雪の混ざり合った重い漆黒——を肩から外し、私の頭から包み込むように被せた。

外套は、思っていたより重かった。羊毛と狐の毛を縫い合わせた、北方の冬装束。内側にはまだ彼の体温が残っていて、その温さが、頬にじわりと滲みた。重さは、束縛のそれとは違った。鎖が私を地に縛りつけるための重さなら、この外套は、私を地から守るための重さだ——縫い目の一つひとつにそう言われている気がして、私は不覚にも、瞼の裏が熱くなるのを感じた。雪に晒され続けた頬の皮膚が、外套の縁に触れて、ようやく自分が震えていたことを思い出した。

指先は、私の頬から指一本ぶんの距離で、止まった。 触れる寸前で、彼の指は止まった。

「この娘は、私が預かる」

広場の空気が、一瞬、凍った。

司祭が口を開きかけ、唾を呑み、結局、何も言えずに口を閉じた。観衆の千の眼が、私たちに釘付けになっている。罵声を投げていた口たちが、揃って閉じている。

「ヴァルザール卿。書面は追って届ける。罪状の再審を、皇帝陛下の名において求める」

大公は振り返らずにそう言い添えた。司祭の眼が泳ぐ。皇帝の名を呼ばれて、もはや異議を申し立てられぬと判じたのだろう。執行人の太い腕が、ゆっくりと斧を下ろした。樫の柄が石畳に当たる音が、こだまのように広場を渡った。

大公はそのまま身を屈め、私の鎖ごと、片腕で抱え上げた。重さに膝を撓ませず、外套の下で私の足が浮いた。

「失礼を」

私の耳元で、彼はもう一度短く詫びた。罪人を抱き上げることへの詫びではなく、まるで——もっと別の何かへの詫びのような、低い声だった。

雪が、また、降り始めた。

鎖は、まだ私の手首に巻きついたままだった。彼の腕の中で、銀の輪が彼の革帯と擦れて、微かな音を立てる。鍵を持っているのは大聖堂の司祭で、彼は今もそれを腰に下げているだろう。けれど大公は、鎖を解こうとも、解いてもらおうとも言わなかった。鎖ごと連れていく——その意志が、私を抱える腕の角度から伝わってきた。鎖を、罪人の証ではなく、私が経た時間の重さとして扱おうとしているように、思えた。

馬の元へと運ばれる間、私は彼の襟元の七つの銀星を、ただ見ていた。視ようとして、視ていたわけではない。瞳を逸らせなかった、と言うほうが正しい。彼の顎の線、首筋の脈の動き、剣帯の革の擦れる微かな音。視覚と聴覚と、外套に残る彼の体温と——どれを切り離せばよいのか、分からなかった。

——なぜ、あなたが。

口にすることはできなかった。問えば、この奇跡が解けてしまうような気がした。

鞍に乗せられる直前、彼が小さく呟いた。

「君の祈りを、視ました」

風に紛れて、ほとんど聞こえなかった。 聞き返す前に、馬は北へと駆け出した。蹄の音が雪を割って、皇都の城門を抜ける。背中越しに、観衆の沈黙が、まだ続いていた。

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