第3話
第3話
瞼の裏で、銀の鎖が、まだ手首に食い込んでいた。
夢の底だった。掌に何かが灯ろうとして、灯る前に、雪まじりの風で散らされる。司祭の白い手は天に上がったまま、降りもせず、解かれもせず——ただ、いつまでも、そこに在った。広場の千の眼が、私の指のさきだけを凝視している。指のあわいに、何かが滲み出そうになる。けれど指は、最後まで何も結ばないままで——
そこで、目を覚ました。
朝陽が、絹の上敷きの縁を、白く焼いていた。
体を起こすのに、思いがけず時間がかかった。腰の節がひとつずつ抜けていくような、奇妙にゆっくりとした目覚めだった。寝台の脇には、新しい肌着と、毛布がもう一枚、畳んで置かれていた。誰かが、私が眠っているあいだに、足音も立てずに置いていったのだ。鍵のかからぬ扉に背を晒したまま、私は確かに眠っていた。十二日ぶりの、まことの眠りだった。
手首の銀の鎖は、まだ嵌っていた。 襟元の紐の結び目には、彼の指が結び直した形が、僅かに残っていた。
(明朝、彼のもとへ)
そう決めた、自分の声を、覚えていた。
侍女が湯を運んできた。眼は、やはり伏せられていた。けれど昨夜より、伏せ方の角度がほんの少し、浅い。湯桶の縁に置かれる指が、宙で止まらなかった。それだけで、私はなぜか、息ができた。湯気が、肌着の襟のあわいから昇って、頬の高さで、ほどけた。
肌着を換え、布で頬を拭うあいだ、夢の余韻が、まだ指のさきに残っていた。掌に灯ろうとして散らされた、あの何か。あれは夢だったのだろうか。それとも、覚えていない記憶だったのだろうか。
執事が、扉の外から声をかけた。「殿が、書庫にてお待ちでございます」と。書庫、と聞いた。地下牢でも、執務室でもなかった。
書庫までの回廊は、雪の白で満たされていた。
縦長の硝子窓に降る雪が、外側から内側へと光を分け、大理石の床を、冷たい乳色に染めている。執事の長靴の音が、半歩前を行く。私の足音は、まだ体重の置き方を覚えていなかった。鎖を解かれた足首に、絨毯の柔らかさが、奇妙に物足りなかった。
二度、回廊が折れた。
三度目の角を曲がろうとして、世界が、ふっと、傾いた。
夢の余韻が、視界の端で蘇ったのだと、思う。司祭の白い手と、樫の柄の重みと、千の眼の凝視。それらが、雪の白に重なって、私の足元から地面を抜き取った。膝の力が、抜けた。立て直す前に、絨毯の縁の段差に、爪先が触れた。
倒れる、と思った。
倒れる前に、何かが、私の肘の内側を、支えた。
(腕一本分)
倒れ込まなかった。けれど、抱き寄せられもしなかった。彼の手は、私の肘の関節を、真下から包んだまま、それ以上、距離を詰めなかった。彼の胸と、私の額のあいだには、外套が二重に折り畳まれるくらいの空間が、確かに残っていた。指のあわいから伝わる体温は、布越しでも、はっきりと熱かった。十二日のあいだ、私の肌に触れた人の手は、すべて鎖か縄か、棒の先端だった。だから、人の掌のあたたかさが、こんなにも生々しく、私の皮膚に染みるのだと——そのことに、遅れて気づいた。
「アルベリク様」
執事の声が、半歩先で、固まっていた。
私は、彼の腕の中ではなく、彼の腕の上に、置かれていた。落ちる軌跡だけを、寸分の狂いなく、止められていた。指のさきが、まだ僅かに震えている。震えているのは、私の指だったのか、彼の指だったのか、最初は、判じかねた。
「立てるか」
低い問いだった。
私は頷こうとして、頷くより先に、膝に力を入れた。彼の指が、ゆっくりと肘から離れた。離れる速度は、触れたときよりも、ずっと慎重だった。掌の熱が、布越しに残っていた場所だけ、皮膚がじんわりと、熱を覚えた。
「失礼を」
短く、彼は詫びた。
——失礼? と、私は、内側で、繰り返した。倒れかけた私を支えてくれた腕に、なぜ、彼は詫びるのだろう。詫びる先は、私であって、私ではないのかもしれぬ、と——そんな考えが、頭の隅を、霧のように掠めた。
書庫の扉まで、彼は私の歩幅に合わせて歩いた。半歩前、けれど決して背を向けず、私の影の角度を、自分の歩幅で計っているのが分かった。執事は、いつのまにか、扉の前で頭を下げて退いていた。
書庫の扉が、開いた。
天井までの樫の書架が、四方に立ち並んでいた。皮の背表紙の、古い革と、紙と、香木の混ざった匂い。窓の高い位置から差し込む雪の反射光が、書架の上段を、青白く染めている。中央には、低い卓と、二脚の椅子。卓の上には、温められた琥珀色の茶と、銀の細い匙が、用意されていた。
罪人を、ここに招くだろうか。 偽聖女を、書庫に通すだろうか。
その問いを呑み込んで、私は、彼が示した椅子に、腰を下ろした。
しばらく、彼は、何も言わなかった。
茶の湯気が、二人のあいだで、ゆっくりと上に伸びていく。彼は、自分の杯にも手をつけなかった。窓の外の雪を見るでもなく、卓の上の何かを見るでもなく——ただ、ご自身の指のさきを、見ていた。剣だこのある、長い指。昨夜、私の頬の手前で止まった、あの指。
「なぜ」
呟くつもりでは、なかった。
けれど一度こぼれたあとで、引き返せなかった。
「なぜ、私を、庇われたのですか」
声は、思っていたより細く、けれど震えてはいなかった。彼は、指のさきから、ようやく顔を上げた。氷青の瞳が、私を見た。瞳の奥には、責めるでも憐れむでもない、もっと静かな、けれど迷うことを許さぬ硬さが、あった。
「視たからだ」
短く、彼は言った。
「視た、とは」
「君の祈りだ」
茶の湯気が、揺れた。
「処刑台で——あの、斧が振り上げられる、すぐ前のことだ」
彼は、自分の掌を、ゆっくりと卓の上に開いた。掌のかたちで、私に何かを示そうとしているように、見えた。掌の中央に、見えない何かを、まだそこに留めようとしているふうにも、見えた。
「君は、瞼を伏せなかった。指を組まなかった。声を上げなかった。けれど、君の掌のなかに、淡く、光が灯っていた。銀でも、金でもない。雪の朝の、靄の奥に差す陽の色に、よく似た——あの光だ」
私は、自分の掌を、卓の下で、握った。爪が、掌のやわらかい皮を、ほんの僅かに、押した。
「私には、見えませんでした」
「だろうな」
低く、彼は応えた。
「あれを視たのは、広場で、私だけだった」
私だけ、と彼が言ったとき、その言葉に滲む孤独のようなものを、私は確かに、聞いた。視えてしまった、それ自体が、彼にとって何かしらの重荷であるかのような、そういう響きだった。視た、という動詞の語尾が、ほんの少し、低く沈んだ。沈んだ尾の奥に、長い年月のあいだ、誰にも明かせなかった重さが、確かに、籠っていた。
「北方の血筋には」
彼は、視線を、再び自分の掌へと、落とした。
「真の祈りを、視る目が、稀に現れる。それは——褒美ではない。咎だ」
咎、と私は、心のなかで、反芻した。
「視ても、視るしかできぬ。視た者を、必ずしも、救えるとは限らぬ」
そう言ったあとで、彼は唐突に、口を閉じた。閉じたまま、しばらく、卓の木目を見ていた。閉じた口の奥に、まだ言葉が幾重にも重なっているのが、分かった。けれど彼は、それ以上、語らなかった。
(救えなかった誰かが、いた)
そう、私は理解した。
問いを重ねる気は、なかった。重ねれば、この朝の薄い均衡が、崩れてしまう。代わりに私は、卓の下で握っていた掌を、そっと、開いた。
掌のなかには、何もなかった。光も、痕も。けれど、彼が「あの色」と呼んだ雪靄の陽の色を、私は不思議と、知っている気がした。指のあわいに、確かに、ほんの僅かに、温いものが宿っていた。それが祈りなのか、ただの体温なのか——判じかねたまま、私は掌を、卓の縁に、そっと置いた。
彼の視線が、その掌に、落ちた。 落ちた視線が、また指一本ぶんの距離で、止まった。
書庫の扉が、低く、叩かれた。
執事の声が、紙一枚ぶんの薄さで、扉の外から響いた。「殿。皇都より、早馬の急報が」
彼の指が、卓の縁で、僅かに硬くなった。瞳の奥に、雪靄ではない、別の色の翳が差した。私の掌から視線を外すのに、彼は、ほんの一拍だけ、間を置いた。
「すぐに」
短く応えてから、彼は立ち上がった。立ち上がりざま、私のほうへ、半歩、戻った。
「君は、ここにいてくれ」
声は、低く、けれど何かを縛る種類の硬さで、揺れていた。「書架の何を読んでもよい。ただし——北翼の三段目、革の黒い背表紙のものだけは」
そこで、彼は、言葉を、止めた。
言いかけて、呑み込んだ。咎、と先ほど呼んだ何かが、その黒い背表紙のなかに在るのだと——私は、彼の沈黙の角度から、知った。
扉が、閉まった。
雪は、いつのまにか、止んでいた。