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ノエシス第七番街のデバッグログ

第2話 第2話

第2話

第2話

雨の三十二フレーム周期から外れて走った先は、隣区との境界に立つ、半ば廃れた立体駐車場の二階だった。 昇降機の電源は落ちている。階段の踏面は錆水で滲み、コンクリートの梁から剥き出した鉄筋が、湿気を吸って黒ずんだ縞を引いていた。フロアの中央に、朽ちた自動販売機が一基。電源コードは根元から切断されているのに、缶飲料のサンプル写真だけが、薄ぼんやりと自前で発光していた。光源のないはずの板が光っているのは、レンダリングがレイヤー単位の参照で残ったままだからだ。電力ノードの除外ミス。ノエシスの、また一つの不手際だった。 俺は息を整えながら、鉄柱の影に少女を座らせた。彼女のフードからこぼれた前髪の一房は、空き地で灰色に褪せたまま、まだ黒へ戻る気配がない。退色した毛先が、湿気を孕んで、所在なさげに頬の輪郭を撫でていた。 「……息、苦しくないか」 頷きが、四フレーム遅れて返ってきた。 肺の動きは正常に近い。だが彼女の体温は、俺の手のひらの判定では二度ほど低かった。あれだけ吸い上げられて、戻りかけているのか、戻らないのか。掌に残った冷たさは、湿った布越しに金属を握ったときの、骨に沁みる種類の冷たさだった。 俺は彼女から二歩離れて、自分の頸椎の右下に指を当てた。ニューラルポートのソケットが、皮膚の下で脈打っている。微熱は、体表温で三十八度九分。指先で押すと、樹脂と肌の継ぎ目に沿って、微弱な振動が伝わってきた。クロックが、まだ生きている。誰のクロックなのか、俺には判定が下せなかった。 左腕の内側、空き地で点灯した白い文字列が、いまも薄く滲んだままだ。 [GRANTED] administrator privilege: lv.??? — identity: UNKNOWN 俺は、自分の名すら、舌の上で形にできない。 だがこの権限フラグは、俺がかつて、誰だったかの輪郭を、苛立つほど明白に示していた。

「ねえ」 少女がフードの陰から、声を発した。 「あなた、なんで……あいつのこと、知ってるの」 俺は答えに詰まった。知っている、わけではなかった。あの空き地で、男のスーツが崩れた瞬間に噴き出した緑のテキスト、その一行が読めたというだけだ。けれど読めたという事実そのものが、俺の知識の地下に、本人の与り知らぬ層が積まれていることを意味していた。 「……わからない」 正直に、答えた。 「わからないが、あの形は、人じゃなかった」 「……うん。あいつ、地面に靴の音、立ててなかった」 彼女の口調には、抑揚が薄かった。恐怖を表現する語彙を、半分ほど吸い上げられたあとの輪郭だった。語尾が、湿った段ボールの端みたいに、力なく落ちる。 「名前は」 俺の声が、自分でも乾いていた。喉の粘膜が、まだ雨と全力疾走の名残でひりついている。 「ミオ」彼女は短く返した。「ミオ・サキ。第七番街。住人ID、たぶん、0xafc1」 住人IDを「たぶん」で語る世界は、もうそれだけで、設計の前提が一段ずれている。俺はそれを呑み込んだ。喉仏が動いた感触が、自分のものではないように遠かった。 「あなたは」 ミオが、俺の左腕に灯る文字を見ながら問うた。フードの内側から覗くように見上げる目には、空き地で四粒だった涙の名残が、別の三粒に変化していた。 「名前が、ない」 俺は左腕を持ち上げ、白い文字を彼女にも見せる位置に置いた。 [GRANTED] administrator privilege: lv.??? — identity: UNKNOWN 「IDも、ない。記憶もない。今朝、路地で目を覚ました」 ミオは、その文字列を初めて見たという顔をした。だが、瞬きが二段階で切り替わっていた。三段階ではない。屋台の親父より、瞳孔の解像度が一段高い。 偶然か、意図か。 俺は試しに、頸椎の右下のソケットに、左の指先を当てた。同時に、左腕の文字列を意識の底で、軽く撫でる。視界の右下に、新しい行が滲んだ。

[FRAGMENT] admin_console: 12% available [FRAGMENT] command_set: read_only(partial) [FRAGMENT] scope: district_07 / hidden_observer_layer

十二パーセント。 管理者権限の、十二パーセントの断片。残りの八十八パーセントが、どこに保管され、誰が握っているのかは見えない。けれどこの断片だけでも、ノエシスの——少なくとも第七番街の——観測者用レイヤーが、薄く透けはじめた。 俺の視野に、二つの世界が重なった。表のノエシス、湿気と錆と缶の写真がある世界。それに重なる、もう一枚。デバッグオーバーレイ。鉄柱には個体識別タグが付き、自動販売機にはレンダリング最適化のラベルが貼られ、フロア全体に均等なグリッドが浮かび上がる。格子の線は淡い青で、息を吸うたびに視界の縁で僅かに揺れた。 ミオに、視線を戻したとき。 俺の喉の奥が、止まった。

ミオの本体は、グリッド上に確かに存在していた。座標も、ヒットボックスも、生体ログも、住人として正規に登録されている。 だが、彼女の影だけが、グリッドの外にいた。 鉄柱が落とす影は、グリッドに沿って整然と斜めへ伸びている。自動販売機の影も、缶の写真の輪郭ごと、定義された角度で伸びていた。彼女の影だけが、グリッドの線の上を歩幅二フレーム分ずれて滑り、靴先の角度より、わずかに大きく開いている。指先の輪郭は、本体より一回り痩せて、関節が一つ多く折れているようにも見えた。 俺は試しに、彼女の右肩の前で、自分の手をひらりと振った。 彼女の影は、俺の手の動きを、四フレーム遅れて反復した。 ミオの影が、俺の動作を真似た。 それは「フレーム同期エラー」のような、ありふれた誤差ではない。彼女の影は、彼女自身の身体ではなく、俺の身体に対して、独立した参照を持っていた。 影だけが、別のセッションに繋がっている。 背筋を、薄い氷の刃が滑った。鉄の味が、また舌の奥に滲んだ。心拍が頸椎のソケットの鼓動とずれ、二つの拍が交互に頭蓋の内側を打った。 「ミオ」 俺は、できる限り平静を装って言った。声を出すために肺を膨らませる動作が、ひどく演技めいて感じられた。 「もう一度、君の名前を言ってみてくれ」 「……ミオ・サキ。0xafc1」 彼女が答えた瞬間、彼女の足元の影が、唇の動きより一拍早く、口の形を作った。 影の方が、本人より、先に喋った。 ほんの一拍の差だ。けれどその一拍は、俺の頭の中で雷鳴のように残響し、コンクリートの冷気と缶の偽の光が、一斉に遠のいた気がした。

俺は、自動販売機の側面に背を預けた。冷えた金属の板が、上着越しに肩甲骨を押し返してくる。 頭の中で、推論が二本に分岐した。一本は、彼女自身が観測者側の存在で、影の遅延は二重化されたセッションの帰結だという可能性。もう一本は——彼女自身は何も知らず、何者かが彼女の影に「別の繋ぎ先」を埋め込んでいる、という可能性。 あの男が彼女の感情を吸い上げていたのは、ミオ本人ではなく、おそらく、影に繋がっている向こう側だった。 俺の左腕の文字が、ふっと一行追加された。

[NOTICE] anomalous shadow link detected at /citizen/0xafc1 [QUERY] inspect target? (Y/N)

俺は息を吐いた。Yを押す方法を、まだ思い出せない。 ミオは、自分の影に二重の参照が走っていることに、気づいていない顔だった。フードの陰から俺を見上げ、わずかに首を傾げる。その動きにも、影は四フレーム遅れて従った。

階下、駐車場の入り口の方から、革靴の足音が聞こえた。 規則的な歩幅。靴底とアスファルトの間に、衝突判定のある音だった。さっきの男ではない。空き地で輪郭を欠いていた、あのスーツの足取りとは違う。 だが俺の左腕の文字列は、新しい行でそれを補足した。

[INFO] approaching entity: avatar_class = "operator" [INFO] integrity: verified [INFO] estimated arrival: 11s

オペレーター。 管理側の、足音だった。 俺はミオの腕を取り、立ち上がる動作の途中で、彼女の影が一拍早く立ち上がるのを、目の端で確かに見た。

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