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ノエシス第七番街のデバッグログ

第3話 第3話

第3話

第3話

革靴の音が、駐車場の二階まで上がってきた。 歩幅は規則的で、踏面の錆水を避ける微妙な迂回まで含めて、足取りに揺らぎがなかった。俺は左腕の文字列をひと撫でして、次の行が滲み出るのを待った。

[INFO] operator avatar identified: serial 0a-77 [INFO] dispatch route: hidden_observer_layer / district_07 [INFO] integrity: verified

整合性、検証済み。俺の管理者断片が認証した結果だった。だがこの十二パーセントの権限で照会できる「整合性」が、果たして上位レイヤーから見ても整合しているのかは、俺自身に判定が下せなかった。 ミオを鉄柱の影に押し戻し、俺は自動販売機の前へ一歩出る。缶飲料の写真の偽の発光が、上着の襟元にぼんやり影を落とした。 階段から、女が現れた。 黒に近い濃灰のタクティカルジャケット、膝上までの編み上げブーツ。靴底のゴム成分が、コンクリートと擦れる粒度で定義されていた。屋台の親父や通勤客のテクスチャとは、明らかに一段密度が違う。彼女の輪郭は、デバッグオーバーレイのグリッドに完全に整列していた。 「観測者層への侵入を確認した」 女の声は、空気を震わせる種類の音だった。耳の鼓膜に届く、本物の発話。 「IDを照会する。腕を出せ」 俺は黙って、左腕の内側を彼女に向けた。白い文字列は、まだ薄く滲んでいる。 彼女は俺の腕を見る前に、俺の背後の鉄柱の影に視線を一拍だけ流した。 その一拍が、俺の頸椎の右下のソケットを、急に冷たくした。

[QUERY] privilege match: lv.??? — administrator fragment 12% (UNKNOWN identity) [NOTICE] response from operator 0a-77: HOLD

女の喉のあたりで、応答パケットが小さく光るのが俺には見えた。彼女は本部に向けて何かを照会し、本部は「保留」と返した。 「お前の権限は、見覚えのある形をしている」 女が言った。 「だが、IDが空欄だ。これは登録上の事故か、意図的な剥離か」 「答えられない。記憶がない」 俺の短い返答に、彼女の右の目の奥で、別系統の光が走った。

[WARN] operator avatar 0a-77: micro-pattern divergence detected [WARN] subsystem injection: untrusted code in motor_controller

彼女の右手が、半フレーム速く動いた。 腰のホルスターから抜かれたのは武器ではなく、細い銀色の管——感情ログ抽出用のプローブだった。空き地でミオから糸を伸ばしていた、あの男と同じ系統の道具。 彼女は俺ではなく、鉄柱の影のミオに、それを向けた。 「待て」 俺は半身を割り込ませる。動作の途中で、彼女の靴底の摩擦音が、一瞬だけ抜け落ちた。コンクリートを踏み続けているはずなのに、ゴムとの摩擦判定が、視界のログの中で先に欠落した。

[CRITICAL] integrity violation at /operator/0a-77/sole_friction [CRITICAL] undefined function call: __ghost_overlay()

ノイズが連続して滲む。視界の右下、警告の色が、空き地で見たのと同じ、悲鳴に近い赤に染まった。 オペレーターの皮を被った、別の何か。 正規の整合性検証は、たった今、その表層だけを照合して通したのだ。中身の入れ替わりに、上位レイヤーは気づいていない。 プローブの先端が、鉄柱の影のミオへ伸びる。 俺は喉の奥で短い音を立てて、女の手首を掴んだ。 掴んだ瞬間、彼女のジャケットの袖口が、繊維のレベルで毛羽立った。指の腹が触れた手首の皮膚は、最初、人間の皮膚として温かかった。だが二フレーム後、その温度が定数に張り付いた。三フレーム後、皮膚の毛穴の配置が、数列の規則に置き換わった。四フレーム後——彼女の手首の皮膚が、紙が破れるように一気に失効した。

[ERROR] avatar_skin texture: deallocated [ERROR] muscle_layer: deallocated [ERROR] skeletal_frame: deallocated

裸のソースが、噴き出した。 緑色のテキストの螺旋が、空気中に渦を巻いた。空き地で見た一行ではない。今度は、行が連なっていた。

`while(soul.warm) { drain(soul); }` `if (observer.fragment) { mask(self); attach(__ghost_overlay); }` `fork(__ghost_overwrite);` `spawn(__phantom_drain);` `call(__null_witness);`

未定義関数が、未定義関数を呼んでいた。連鎖。 ノエシスの整合性検証を擦り抜けるために、関数名だけが偽装され、内部は上位レイヤーの「定義の引き出し」を空のまま参照していた。引き出しを開けるたび、別の引き出しが開き、その奥には、また別の空が積まれている。底のない、関数の入れ子だった。 俺はそれを、なぜか読めた。 読めるどころか——どの関数の引数が「ミオの感情ログ」を要求しているのか、どの戻り値が「住人の影に別セッションを繋げる」処理なのか、文字を眼で追うより速く、頭蓋の奥で意味が組み上がった。 左腕の内側で、白い文字列が一段、明るく灯った。

[GRANTED] administrator privilege: lv.??? — identity: UNKNOWN [ACTIVATED] flag: code_combatant (provisional) [ACTIVATED] skill: undefined_function_resolver (basic)

腕の皮膚の下で、何かが熱を持った。微熱ではない。皮膚の内側を、細い針金がじりじりと焼いていく感触。痛覚に似た、しかし別系統の信号。設計の側から、俺の身体に直接書き込まれている。 女の——女の形をしていた何かの——胴体が、肩から下へ連鎖崩壊した。 胸郭のテクスチャが砂のように剥がれ、内部の骨格を装っていた銀色のフレームが、剥き出しの数式に書き換わり、その数式すらも定義されていなかった。骨は、骨のラベルだけがあった。中身は空洞だった。 プローブだけが、最後まで定義を保っていた。 銀色の管は、宙に浮いたまま、なお鉄柱の影のミオへ向かって慣性で伸びようとした。 俺は左腕の白い文字列を、はじめて意識的に「掴んだ」。指を握る動作と、視界の権限フラグを撫でる感覚が、一つの動作として連動した。

[COMMAND] terminate __phantom_drain at /operator/0a-77 [RESULT] queued [RESULT] resolved

宙のプローブが、糸の途中で消えた。消えた、というより、定義が剥がれて、レンダリングされる前のメッシュデータごと、上位レイヤーへ吸い戻された。空間に、銀色の管があった場所だけが、ほんの数ミリ、空気の屈折率を欠いた。 正面の、女の上半身が崩れ落ちる。 落ちる、という動作も最後まで定義されなかった。胴体は、床に到達する前にテクスチャの欠片に分解され、その欠片もまた未定義となり、最後にはコンクリートの上に、緑の文字列の薄い影だけを残して、何も残さなかった。

駐車場の二階に、湿った静けさが戻った。 ミオが、鉄柱の影から、ふらりと立ち上がった。彼女の影は、相変わらず本人より四フレーム遅れて、立ち上がる動作を反復した。だがその影の輪郭の中に、いま、薄い緑色の文字列が一行だけ、潜って消えるのが見えた。

[TRACE] ghost overlay residue copied to: /citizen/0xafc1/shadow_link

俺の左腕の文字列が、ふっと点滅した。

[NEW] log signature observed: "Ω-07" [UNKNOWN] not in administrator namespace

知らない署名。 知らないが、知っているような形だった。記憶のない頭の片隅で、どこかの引き出しが、ほんの一ミリだけ揺れた。 俺はミオの手を引いた。階段の方角に、別の足音は、まだ届かない。 ただ、駐車場の換気塔の影で、四千九十六個のはずの埃の粒子が、四千九十七個目を、いま、間違いなく一つ生成した。

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