Novelis
← 目次

ノエシス第七番街のデバッグログ

第1話 第1話

第1話

第1話

舌の奥に、鉄の味があった。 雨に濡れたコンクリートの冷気が背中から這い上がり、俺は路地裏の汚水溜まりに頬をつけたまま目を開けた。頸椎の右下、ニューラルポートのソケットが、皮膚の下で微熱を持っている。指先で触れると、樹脂と肌の継ぎ目に小さな水ぶくれができていて、潰れた汁がぬるりと滑った。 記憶が、ない。 名前すら、舌の上で形を結ばない。 視界の右下に、半透明の文字列が滲んだ。

[ERROR] noesis.weather.rain.tick : assertion failed at frame 32 [WARN] particle_count locked: 4096

俺はそれが、自分にしか見えない種類の文字だと、なぜか直感した。 肘をつき、半身を起こす。膝が震え、靴の中で湿った爪先が縮こまる。雨粒が瞼に落ちた。一粒、二粒——三粒目で気づいた。三粒目は、二粒目とまったく同じ角度で頬に当たり、同じ速度で顎を伝った。同じ、ではない。完全に同じだ。三十二フレームごとに、軌道が巻き戻されている。 頭を上げる。 路地の出口、ネオンの看板。「ノエシス区第七番街」。 看板の下に、湯気を立てるコーヒーカップが置き去られていた。誰かが置いたのか、誰かが消えたのか。湯気の粒子は、四千九十六個。数えなくてもわかった。視界の隅で、ログがそう告げているからだ。 ——この世界は、設計されている。 それが、記憶のない俺が最初に拾い上げた、たった一つの確信だった。

俺はカップを蹴り倒さないよう、慎重に跨いだ。 湯気は俺の脛にまとわりつき、布地に染み込まなかった。流体力学を装った、嘘の流体だ。本物の湯気なら、布の繊維にぶつかった瞬間に粒子が散り、温度も粒径も乱れる。けれどノエシスの湯気は、四千九十六個のまま俺の脛を撫でて、定数のまま路地の闇に溶けた。 通りに出る。 朝の通勤帯らしかった。スーツ姿の男たちが擦れ違いざまに俺を見て、見ない振りをする。一人の女が肩をぶつけ、「すみません」と頭を下げて、何事もなかったように歩み去った。 彼女の影が、一拍だけ歩幅より遅れて、路面に貼り付いた。 影の同期エラー。 [INFO] shadow_sync_delay: 1f at /citizen/0x7c33

俺は息を呑む。指先が震えた。鉄の味が、また舌の奥に滲んだ——口の中のどこかが切れているのかもしれない。だが、その鉄の味すらシミュレートされた塩の混合だとしたら、それを判定する俺の味覚は、いったいどのレイヤーで走っているのか。 「兄ちゃん、見ない顔だな」 背後から、低い声がかかった。振り返ると、屋台の親父が油の浮いた鉄板の前で俺を見ていた。鉄板の上で、目玉焼きが永遠に半熟のまま揺れている。火加減も、時間も、止まっている。 鉄板の縁から立ち上る煙は、コーヒーカップの湯気と同じ密度で、同じ角度に首を曲げていた。匂いはした。焦げた獣脂と、安い醤油の焦げ。けれど鼻腔の奥に届いた瞬間、その匂いは「焦げた獣脂と安い醤油」というラベルだけを残して、輪郭を欠いた。記憶の引き出しが、ラベルの下で空っぽに鳴った。 「客じゃない。通りすがりだ」 「そうかい。ノエシスは初めてかい」 「……らしい」 「らしい、ねぇ」親父は片頬で笑った。「珍しいな、あんたみたいな客は。普通、誰も自分が初めてだなんて言わない。みんな、ずっとここに居たって顔をしてる」 湯気の粒子数は、鉄板の上でも一定だった。 俺は親父の指先に目を落とした。爪の間の油汚れも、手の甲の毛も、人間のそれだった。けれど右手の親指の腹に、ほんの一ミリ角の格子が透けて見えた。テクスチャの継ぎ目。住人の身体の、縫い目。それは親父自身が一生気づかないだろう種類の、神様の不手際だった。 俺は静かに後退り、財布を持っていないことを思い出して諦め、頭を下げた。 「悪いな」 「気にすんな。雨に当たるなよ。今日のは——」親父が空を見上げた。「妙に、同じ顔だ」 俺は思わず親父の顔を覗き込んだ。瞳孔の直径が、瞬きのたびに三段階で切り替わっていた。三段階。アナログではない。離散値の瞳。 それでも彼は、雨が「同じ顔」だと言った。 住人にも、滲み出している。 何かが、設計の隙間から、こちら側へ染み出している。

通りの東、空き地の方からノイズが滲んだ。 [CRITICAL] integrity violation at /district/7/alley_03 [CRITICAL] undefined function call: __ghost_overwrite()

俺の視界の右下、ログが赤く膨れた。それは警告ではなく、もう少し人間的な——たとえば、悲鳴に近い色だった。 足が動いた。記憶のない俺の足が、勝手に。 路地を二本曲がって、空き地に走り込む。 そこに、少女が一人。 膝をついて、片手で頭を抱えていた。フード付きの灰色のパーカー。脚は震え、足元の影が、本人より三フレーム遅れて路面を撫でていた。 彼女の前に立っているのは、男。 正確には、男の形をした何か。 スーツに身を包んでいる。俺が朝、通りで見た通勤客と同じテクスチャ。同じ歩幅、同じ角度の襟。だが彼の輪郭線が、視界の中で、息のような微振動で揺らいでいた。 [WARN] avatar_skin: undefined branch detected [WARN] memory_drain: 0.4MB/s -> remote_ip:??.??.???.??

吸い上げている。 何を、と問う必要はなかった。少女のこめかみから、半透明の糸のような線が一本、男の手のひらへ伸びている。糸は、彼女の頬の朱色を、瞳の奥のわずかな光を、吐息の温度を——少しずつ、別の場所へ運んでいた。 糸が一筋たわむたび、少女の指先から血の気が引いた。爪が紙の白さに変わり、唇の端が震え、フードからこぼれた前髪の一房が、本来の黒から鈍い灰色へと褪せていく。彼女がしゃくり上げる呼吸の合間に、口の中で何か小さな単語が崩れていくのが、俺には音として聞こえた。母音だけが残り、子音が抜け落ちる音。名前を、誰かの名前を、忘れさせられている音だった。 「離せ」 口にしたのは、俺だった。記憶のない俺の声は、自分でも知らない音をしていた。 男が振り返る。表情はなかった。表情の領域に、四角い欠落があった。レンダリングが、まだ届いていない顔。 「観測者か」 男が言った。声の出所はわからない。空気が震えていない。耳の奥で直接、音声ファイルが再生されただけだった。 「お前は、誰だ」 「割り当てられていない」 男が俺に向かって一歩、踏み出した。靴底とアスファルトの間に、衝突判定が発生していなかった。彼は、地面を蹴っていない。地面を、貫通していた。 俺は少女の前に身体を割り込ませる。 背中で少女の浅い呼吸を感じた。冷えた額が、俺の腰のあたりにこつんと触れて、すぐに離れた。彼女の体温は、人間のそれとして温かかった。少なくとも、俺の皮膚はそう判定した。だがその温かさも、いま吸い上げられている途中の温度なのかもしれない、と思った瞬間、俺の腹の底で何かが熱く軋んだ。怒りに似ていた。怒りという感情のラベルだけが、記憶のない頭の中で、唯一鮮明に立ち上がった。 触れた瞬間、男のスーツの肘から先が、輪郭ごと崩れた。 コードが、噴き出した。 裸のソースだった。緑色のテキスト列が、宙に螺旋を描いた。読める。なぜか、俺には読めた。 `while(soul.warm) { drain(soul); }` その一行を読んだ瞬間、俺の左腕の内側に、白い文字列が浮かんだ。

[GRANTED] administrator privilege: lv.??? — identity: UNKNOWN [NEW] skill: code_read (basic) acquired

男の四角い顔が、初めて、揺れた。 退いていく。輪郭を立て直しながら、男はゆっくりと路地の影へ滑り、最後には立体音声のフェードアウトのように、空気から欠けて消えた。

少女が顔を上げた。 涙の粒は、四つだった。 四つ。多すぎず、少なすぎず、定数では決してない数。 「……あなた、なに」 俺は、答えられなかった。自分の腕に灯った権限フラグを、俺自身がまだ信じていなかったからだ。 路地の上空、雨が再び三十二フレーム目を迎えた。同じ軌道。同じ速度。同じ頬への、同じ角度。 だが今、その三十二フレームの奥で、何かが、俺をじっと見ている気がした。 記憶を消したのは、誰だ。 俺は少女の手を取り、雨の周期から外れる方向へ、駆け出した。

この話はいかがでしたか?

↓ スクロールで次の話へ

第1話 - ノエシス第七番街のデバッグログ | Novelis