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老錺師、霊薬を呑みて黒船に挑む

第2話 第2話

第2話

第2話

男の吐く息に、血と墨の匂いが混じっていた。

夜半を過ぎ、油皿の火がさらに細くなった頃、弥助はまだ作業台の端に腰を据えていた。男の胸が上下するたびに、濡れた咳が喉の奥で鳴る。詰襟の洋装の合わせ目から覗く肌は蝋色に沈み、こめかみに貼りついた髪が汗で光っていた。井戸端から運んだ湯を布に含ませ、弥助は男の口元の血痕を拭い取る。拭っても、また糸を引いた黒い血が唇の端に滲んだ。血には鉄の匂いだけでなく、焦げた薬草に似た甘苦い香りが混じっている。五十年、銀と銅と炭と鑢の匂いの中で生きてきた弥助の鼻が、初めて嗅ぐ類いの匂いであった。

行灯の油が尽きかけている。弥助は立ち上がり、棚から油瓶を取って注ぎ足した。火が戻ると、枕元に散らばった書物の背表紙に、見慣れぬ横文字の金箔が浮かび上がる。表紙のひとつには人体の胸郭を開いた精緻な版画が刷られ、骨と臓腑が赤と青の線で色分けされていた。蘭方医——という三文字が、弥助の胸に冷たく落ちる。

この手の書物を懐に差して夜道を行く者に、まともな筋の者はおらぬ。寛政の頃より幕府の蘭学取り締まりはいささか緩んだとはいえ、この国には今もって、横文字を罪と呼ぶ層がある。追っ手がかかっているならば、この長屋まで踏み込まれるのも時の問題であった。弥助は腰の煙草入れに手を伸ばしかけ、やめた。煙は匂いを残す。今夜は、何も残してはならぬ。

それでも、男を路地に戻す手は動かなかった。

男の右手が布団の外に投げ出されている。墨と薬品に染まった指先、爪の際まで黒ずんだ皮膚、細い切り傷の筋。その手が、微かに動いた。何か見えぬものを掴もうとする仕草——完成を目前にして止まった、職人の手の仕草であった。

「……どこだ、ここは」

掠れた声が落ちた。男が薄く目を開け、瞳を左右に動かして天井を探っている。瞳は青みがかった灰色で、白目が充血していた。阿片の類いを吸った目とは違う。三日三晩眠らずに何かを詰めた者の目であった。弥助自身が若き日、御前用の彫金に取り組んだ夜々に、井戸端の水鏡で見た己の目と、それは似ていた。

「神田の裏長屋だ。井戸端で倒れておったところを、運び込んだ」

湯呑みに水を注ぎ、男の首筋を片手で支えて口元に運ぶ。男は咽せながら二口ほど含み、長く息を吐いた。

「……恩にきる。名を、問うてよいか」

「弥助」

「それがしは、相良玄庵と申す」

名乗った途端、玄庵はまた咳き込んだ。弥助は背中に手を当てて摩る。背骨の浮き具合が、久しく飯を食うておらぬ者のそれであった。

「相良、と申せば——二年前、神田明神下にて『紅毛妖術』の廉で手入れが入った塾の、あの相良か」

「塾は焼かれても、頭の中までは焼けぬ」

玄庵は薄く笑んだ。唇の端がわずかに歪み、また血が滲む。そのまま彼の瞳が、ふと弥助の右手に止まった。湯呑みを差し出す指先が、己の意思と関わりなく細かく震えている。仕事の疲れではない。老いそのものの震えであった。

数拍、玄庵はその震えを凝視した。咳が止み、青灰色の瞳に先ほどとは違う光が宿る。

「……その右手、親指と人差し指の付け根が、固まっておるな」

「職人の手だ。気にするな」

「気にするな、という手ではござらぬ」

玄庵は肘を突いて身を起こした。背を壁に預けて胡座を組み、懐を探って角の擦れた真鍮の薬匙を取り出す。

「手を、貸せ」

弥助が差し出した右手を、玄庵は己の節くれた指で包み、親指の付け根を静かに押した。鈍い痛みが走り、弥助は無意識に顎を引く。玄庵は同じ要領で手首の内側、肘の裏、肩の際までを順に触れ、そのたびに蘭方の術語であろう音の連なりを呟いた。

「気の滞りではない。筋と筋の間の、細い筋腱が幾筋も縒れておる。職人が同じ姿勢で年月を重ねたとき、最後に壊れるのはここだ」

「治るのか」

即座に問うた己の声に、弥助は内心で苦笑した。治らぬことは、この三年で嫌というほど思い知っている。江戸で名医と噂される者を幾人も訪ね、どの者も同じ三文字を返した——「年相応」。たかだか三文字に、己の残された歳月を折り畳まれた。

玄庵はすぐには答えなかった。その代わり、懐の内側から油紙に包まれた小瓶を取り出す。瓶の中で、飴色の液体が揺れていた。

「治す、という言葉には、ふた通りござる」

瓶を行灯の火にかざす。液体の中に、黒い微粒子と銀色の粉が霞のように漂っている。

「ひとつは、壊れた箇所を繕う術。これはもう、おぬしの手には効かぬ」

「もうひとつは」

「肉体の時を、巻き戻す術だ」

弥助は言葉を返せなかった。老いた顎の筋が、一瞬ひくりと動く。

玄庵は匙で瓶の口を叩いた。微かな金属音が、油皿の火を揺らす。

「南蛮の医書に『再生』の術ありと書かれた箇所がござる。和蘭陀より流れ来た本草を、清国の丹道と掛け合わせ、それがしが三年かけて仕立て直した。基となるは、阿片を精錬して得た飴と、丹砂より取り出した水銀の粉——この二つを、一定の比で」

「阿片と、水銀」

弥助の声が低くなった。水銀が体に悪しきものであることくらい、彫金屋でも知っている。鍍金の仕事で水銀を扱った者は、三年もせぬうちに歯が抜け、舌が痺れ、声が出ぬようになる。

「左様。常の者が常の量を飲めば、三日で骨まで腐る」

玄庵は淡々と続けた。

「されど、この瓶の中身は違う。阿片が水銀を包み、水銀が筋腱を解し、阿片がまた流れを戻す——毒同士が嚙み合うて、一方が他方の毒を消しながら、肉体の内に『巻き戻し』を起こす。十五年、いや、うまくすれば二十年、若き日の肉体に戻れよう」

「……副作用は」

玄庵は初めてわずかに視線を逸らした。

「ある。むろん、ある」

「申せ」

「巻き戻した時は、いずれ再び早回しに進む。戻した年月の半ば、あるいはそれ以下——五年、早ければ三年で、老いが雪崩れ込む。加えて、頭の芯に響く痛み、鼻腔よりの出血、視野の一部が暗転する瞬間が、折々に訪れよう。終いには、戻した年月の果てに、死ぬ」

弥助は己の右手を開いて見た。皺の寄った掌、節くれだった指、爪の間に残る銀粉。この手で、あと幾本の簪が削れる。あと幾度、佐兵衛の眉間の皺を見せられる。あと何年、裏長屋の六畳間で加賀への恨みを噛み潰すのか。

作業台の隅に、油紙に包まれたままの試作短刀が置かれている。未完の龍の鱗が、行灯の火に鈍く光っていた。

弥助は、その短刀に目を据えたまま、口を開いた。

「副作用は、死ぬより悪いか」

玄庵が、ぴくりと肩を動かす。

「……それは」

「答えよ、蘭学者」

「死ぬよりは、ましで、ござろう」

弥助は短刀から目を離し、玄庵の手にある小瓶に視線を戻した。飴色の液体が、行灯の火を内側に閉じ込めて揺れている。その液体の奥に、己の捨てた十五年が沈んでいるような、奇妙な錯覚があった。

「寄越せ」

「よろしいのか。それがしはまだ、名も——」

「名なら先に聞いた。相良玄庵とな」

弥助は手を伸ばす。玄庵は一瞬、瓶を握る指に力を込めた。自らが三年かけて仕立てた毒を、見ず知らずの老職人の喉に流し込む——そのことの重みが、蘭学者の瞳の奥でわずかに揺らいだ。だがそれも一瞬であった。玄庵は小さく息を吐き、瓶を弥助の掌に置く。

「一気に呷られよ。舌に乗せて味わうのは、毒を効かせぬ最悪の飲み方だ」

声は、医師として何度もこの場面を迎えてきた者の声ではなかった。三年の研鑽の末に、初めて我が子のごとき毒を他人の喉に通す——そういう者の、喉の奥でわずかに震える声であった。

弥助は頷き、油紙の封を解いた。鼻を突く苦い香りと、鉄を舐めたときの味に似た匂いが、一度に鼻腔を刺す。顎を上向け、瓶を口に当てた。舌の上を、苦みでも甘みでもない、鉄と花の中間のような味が走る。

飴色の液体が、喉を滑り落ちた。

一瞬、何も起こらなかった。

ひとつ息を吐く間を置いて、弥助の腹の底から熱が湧き上がった。鍛冶場の炉の底を胸に抱え込んだような、赤黒い熱である。熱はたちまち背骨を伝い、後頭部を突き抜けた。視界が白く飛ぶ。弥助は喉の奥で獣のような呻きを漏らし、畳の上に崩れ落ちた。

指の骨という骨が、内側から砕かれる音を立てる。いや、砕かれるのではない。組み直されている。手首の筋腱が幾筋もほどけ、別の位置で結び直される感覚——六十年分の老いが、肉体の中で逆巻いていた。鼻の奥を焼く鉄の臭い。歯の根を噛み合わせても止まらぬ震え。

「耐えよ、弥助どの。三日三晩、耐えよ。途中で正気を手放せば、そのまま戻らぬ」

遠くで玄庵の声が聞こえる。弥助は畳を爪で掻き、掌の銀粉を引き裂くように握り込んだ。爪が肉に食い込む痛みさえ、内側の嵐に比べればぬるかった。

朦朧とする視界の隅で、作業台の未完の龍が、揺らめく行灯の火に照らされている。

——仕上げるのだ。あの鱗を。この手で。

それだけを胸の底に沈め、弥助は意識の深みへ落ちていった。

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