第3話
第3話
目覚めて最初に覚えたのは、己の指が軋まぬ、という不可解な静けさであった。
神田の裏長屋に、秋の陽が斜めに差し込んでいる。弥助は畳の上に仰向けに伸び、天井の節目を見上げたまま、幾度か瞬きを繰り返した。額には乾いた汗の塩が粒となって残り、口の中には鉄と焦げた薬草の残滓がわだかまっている。三日三晩——と蘭学者・相良玄庵の声が、遠い耳鳴りの底で反響していた。外では棒手振りの呼び声と下駄の音が流れている。陽の角度からして、朝四つ頃であろう。
弥助は、己の右手を顔の前に持ち上げた。
指が、震えておらぬ。
ただそれだけの事実を、弥助はしばし理解できなかった。皺の数が——減っている。いや、皺が失せたのではない。皺のあった皮膚そのものが弾力を取り戻し、張りを得ていた。甲に浮いていた血管の瘤が失せ、関節の節くれが丸みに退き、冬の枯れ枝に似ていた五指が、一本一本、弾みのある木の芽に戻っている。爪の根元に残る銀粉だけが、昨日までと変わらぬ弥助の痕跡として、そこに留まっていた。指の腹を親指で撫でてみる。たこの厚みは昔のままに残り、しかし掌の底の冷えが消え、温い血が指先までむらなく巡っている。弥助は拳を握り、開き、また握った。骨の節が立てていた、あの乾いた擦れの音が、ない。
「……目が、覚めたか」
襖の向こうで、玄庵の声がした。咳をひとつ挟んで、襖が開く。洋装の胸元をはだけたまま、玄庵は盥を抱えて入ってきた。弥助の枕元に腰を据え、懐から取り出した小さな手鏡を差し出す。
「見よ。おぬしの姿を」
弥助は半ば起き上がり、鏡を受け取った。
そこに映っていたのは、ひとりの青年であった。
三十路を少し越えた頃合いか。頬から骨の浮きが退き、眼窩の窪みが埋められ、白髪であったはずの鬢は黒々と艶を取り戻している。ただ瞳の奥だけが、六十年の眼の色を宿したまま、見慣れぬ若者の顔の奥から弥助を見返していた。
指先で頬に触れる。鬚の剃り跡が、薄い。六十の男の肌とは違う、若い血の張りがそこにあった。喉の奥から、聞き覚えのない細い呻きが漏れた。泣いているのでも笑っているのでもない、ただ己という人間の境目が揺らぐ音であった。
「……玄庵どの。これは」
「戻した年月、およそ三十年。おぬしが最も手の利いた頃合いに当てたつもりでござる」
玄庵の声には、医師の冷静と、三年の研鑽の末に我が子が産声を上げた親の、わずかな昂ぶりが混じっていた。
弥助は鏡を畳に置き、無言で作業台へ膝で歩んだ。銀の削り屑が散ったままの台の上に、失敗した簪が三本、朝の光を受けて並んでいる。弥助は鑿の柄を握った。
手に、重みが戻っていた。
老いた掌には、鑿の柄の節目が異物のように当たっていたものである。今はそれが、掌の肉に食い込んでくる。木と鉄と鋼が、掌の神経へそのまま繋がる——五十年前、師の工房で初めて鑿を渡された朝の、あの感覚であった。
弥助は失敗した簪の一本を手に取り、銀の表面の傷を仔細に見た。花弁の筋がよれ、溝が浅い。だが、まだ修復はきく。彼は台の脇から別の鑿を選び直し、柄の位置を掌で測り、一度深く息を吐いた。
鑿の刃が、銀の表面に降りた。
削る音が、違う。
昨日までの音は、刃が滑り、肉を抉る濁った音であった。今、弥助の耳に届くのは、銀の肌理を一筋だけ撫でて剥ぐ、細く澄んだ音である。刃の進む先で、花弁の溝が一息に深まる。指先の震えは無く、肘の力は抜け、肩の骨が滑らかに動く。六十の眼が銀の粒の並びを見、三十の腕がその並びに沿って刃を通す——それは、弥助の生涯に一度も訪れなかった調和であった。削り屑が、絹糸のように細く、絶えずに繋がって刃の脇から立ち上がる。老境の手では、この細さで連なる屑を引き出すことが、どうしても叶わなかった。屑が絶えるとは、すなわち刃の角度も速さも力も、寸分の狂いなく保たれているという証しである。弥助は、己の呼吸が鑿の動きと一つになっているのに、遅れて気がついた。吸う息で刃を据え、吐く息で刃を進める。その律が、若い肺と古い経験の間に、ひとりでに整っていた。
加賀で藩主の御前に献じた、あの龍の透かし彫り。今の己の腕に、あれを据え直せたなら、何を足せる。弥助は削りながら考えていた。あの龍には、まだ足りぬものがあったのだ。鱗の並びの中に、風が通らなかった。老境の眼は、そのことに今になって気づいている。若い腕は、気づいた箇所を即座に削り直せる。三十年の悔恨が、三十年若返った掌のなかで、はじめてかたちを持って動き出そうとしていた。
簪の一本が、弥助の指先で息を吹き返していた。花弁の筋が揃い、溝の底に朝の光が溜まる。掌に乗せて傾けると、光は花びらの形に流れ、また戻る。弥助は、己の掌のこの小さき仕事に、思わず喉を詰まらせた。
作業台の端で、玄庵が静かに弥助の手元を見ていた。
「弥助どの」
声を掛けられ、弥助は鑿を置く。
「おぬしの眼と、若き肉体が、嚙み合うた。これは、それがしの想定を超えておる」
「……これが、毒の正体か」
「毒の、もうひとつの顔にござる」
玄庵はそう言って、盥の水で手拭いを絞った。差し出しながら、その視線は弥助の鼻孔の辺りに止まっている。
「血が、滲んではおらぬな」
「……ああ」
「よい兆しではない。今はまだ、毒が鳴りを潜めておるだけだ。兆しが出る頃には、おぬしはもう——」
玄庵はそこで、言葉を切った。切れた言葉の先が、秋の光のなかに冷えて漂い、弥助の耳の奥で薄く尾を引いた。
その時、長屋の戸が勢いよく叩かれた。
「弥助さぁん、弥助さぁん。開けておくれよう」
隣の長屋のお甲の声であった。下駄をつっかけた足音と、女房連の立ち話の残響が、戸の向こうで渦を巻いている。玄庵は素早く枕元の蘭書をかき集め、布団の下に押し込んだ。弥助は若返った己の顔を手拭いで半ば覆い、戸を細く開ける。
戸の隙間から覗いたお甲の顔が、きょとんと止まった。
「あんれまあ。弥助さんは、お留守かい。ずいぶん若い、お客さんだねえ」
「……」
「甥御さんかい。加賀から出てきなさったのかね」
お甲は遠慮のない目で、戸の隙間から覗き込んでいる。弥助は咄嗟に、喉を詰めて声を低めた。
「ああ。……叔父は、今しがた井戸端へ。伝えておこう」
「そうかい。納期が明日までだってね、佐兵衛さんとこのお使いが来てたんだよ。叔父さんも指が利かなくなってきてるからさ、甥御さんも手伝っておやり」
「承知」
戸を閉めた弥助は、壁に背を預けて深く息を吐いた。玄庵が布団の下から頭を出して、肩で笑っている。
「叔父、とな」
「笑うな、玄庵どの」
弥助も、つい口元が緩んだ。六十年のうちに、甥御と呼ばれたのは初めてであった。己の顔の若返りを、他人の目を通して初めて突きつけられる——鏡よりも、この勘違いの一言のほうが、はるかに確かな証しであった。
だが、その笑いが尾を引かぬうちに、遠い方角から、低く地を震わす音が届いた。
弥助と玄庵は、同時に動きを止めた。
音は一度では終わらなかった。続けざまに二度、三度——大砲の音である。江戸の海の方角、南東からであった。長屋の外で、女房連がざわめき始める。下駄の音が路地を駆け抜け、隣家の障子が一気に開く音がした。
「浦賀だ。浦賀の沖に、異国の船が現れたとよう」
路地で誰かが叫んだ。続いて別の声が上がる。
「煙を吐く船だってえ。帆もねえのに、海を割って進むんだってよう」
長屋の壁土が微かに震え、土間の埃が舞い上がる。弥助は壁から身を起こし、作業台の上の未完の龍の短刀に、目を落とした。鱗の半ばで止まった龍が、朝の光に鈍く息をしている。
この手は、戻った。
この眼は、まだ生きている。
弥助は振り返って、玄庵を見た。蘭学者は布団の下から書物を一冊引き抜き、横文字の頁を指で繰っている。
「玄庵どの。あれは、蒸気の船か」
「左様。和蘭陀の書に、幾度も図が載っておった。鉄の骨で組み、歯車と蒸気で動く船——この国の船とは、造りが根本から違い申す」
「……浦賀まで、どのくらいだ」
「半日の道のり。なれど、若返ったばかりの肉体を、いきなりそのように働かせるは」
「玄庵どの」
弥助は、己の右手を開いて玄庵に示した。節の失せた指が、朝の光の中で細かに動いている。
「この手は、まだ何一つ為しておらぬ。加賀への借りも、この国の形も、何一つだ」
遠くで、また一発、砲声が轟いた。壁土が再び震え、未完の龍の鱗に光の縞が走る。弥助は短刀を油紙に戻し、腰帯に差した。草鞋の紐を結ぶ手が、もはや迷わなかった。戸を押し開けた若き足が、浦賀の海へ向けて、裏長屋の土を一気に蹴った。