第1話
第1話
震える指が、鑿の柄を滑った。
嘉永五年、秋も深まる頃のことである。神田川沿いの裏長屋に据えた粗末な作業台の上で、弥助は己の右手を睨みつけていた。簪の頭に牡丹の花弁を彫り込む——それだけの仕事が、もうできぬ。指先が意に反して痙攣し、刃先は銀の表面を無惨に抉った。銀の削り屑が薄い螺旋を描いて作業台に散り、微かな金属の匂いが鼻腔を刺す。三本目の失敗であった。
「……くそ」
吐き捨てた声は、六十を過ぎた老骨にふさわしい、掠れた響きしか持たなかった。
かつて加賀百万石の城下にて「弥助の彫りは息をしておる」と讃えられた男の、なれの果てである。前田家お抱えの錺職人として、大名道具から寺社仏閣の飾り金具まで一手に引き受けた腕。藩主の御前で披露した龍の透かし彫りには、居並ぶ重臣たちが息を呑んだ。白洲に正座し、龍を掲げたあの瞬間——藩主が膝を乗り出し、「見事」と一言だけ漏らした、あの声の低い震えを、弥助は今も耳の奥に飼っている。あの日の誇りは、今も胸の底に沈殿している。されどそれは誇りなどと呼べるものではなく、澱のように重い、恨みそのものであった。
裏長屋の六畳一間は、職人の住処というよりも流刑地に似ていた。天井の低い部屋に作業台と布団が窮屈に収まり、壁の染みは雨漏りの歳月を物語っている。隙間風が足元を這い、畳の端は擦り切れて藺草の芯が覗いていた。窓から差し込む西日が、失敗した簪の傷口を残酷なほど鮮やかに照らし出した。
隣の長屋から、飯を炊く匂いが漂ってくる。腹は減っていたが、今日は米を買う銭すら覚束ない。錺問屋の佐兵衛から請けた簪二十本の納期は明後日。このままでは一本も仕上がらぬ。
弥助は鑿を置き、痛む腰を伸ばして立ち上がった。膝の関節が乾いた音を立てる。作業台の脇、油紙に包まれた細長い包みに視線が吸い寄せられる。追放の日に、ただひとつ持ち出した品。自らの技の粋を注ぎながら、ついに完成を見なかった試作の短刀である。
油紙を剥がすと、鈍い銀光が薄闇に浮かんだ。刀身に施された波紋の地金彫り。柄には未完の龍が、鱗の半ばで途切れたまま眠っている。あと三日あれば仕上がったものを——十五年前、加賀藩家老・黒田主膳の下知により城下を追われたあの朝、この龍は永遠に目を開くことがなくなった。
「この手さえ……動けば」
震える右手を左手で押さえ、弥助は呟いた。龍の鱗に指を這わせると、かつての己の技の精緻さが、かえって今の衰えを突きつけてくる。鱗の一枚一枚に宿る気迫。あの頃の己の手は、銀に触れるだけで紋様が浮かび上がるような、そういう手であった。今この指は、ただ震えるためだけにある。
翌朝、弥助は佐兵衛の店を訪ねた。風呂敷に包んだ簪を差し出す手が、微かに震えている。
「……見せてくれ」
佐兵衛は丸眼鏡を押し上げ、簪を一本ずつ燭台の光にかざした。眉間の皺が深くなる。脂の染みた指で銀の表面を撫で、爪の先で花弁の溝をなぞる。その仕草のひとつひとつが、職人の仕事を値踏みする問屋の無慈悲な眼であった。
「弥助さん、こいつは駄目だ」
「どこが悪い」
「どこがってな、花弁の筋がよれてる。ここも、ここもだ。うちは日本橋の店にも卸してるんでね、こんな仕上がりじゃ並べられねえよ」
佐兵衛の声に悪意はない。むしろ言いにくそうに目を逸らしている。それが余計に堪えた。
わかっている。わかっていて持ってきた己が惨めであった。
「十本でいい。十本だけ取ってくれ」
「八本なら、まあ」
佐兵衛は八本を選り分け、二百文を渡した。銭の重みが掌に冷たい。残りの簪を風呂敷に戻す弥助の指先を、佐兵衛が見ていた。
「弥助さん。……そろそろ、弟子でも取ったらどうだい。手が利くうちに技を伝えてさ」
「弟子は取らぬ」
即座に返した声の鋭さに、佐兵衛が口を噤んだ。
弟子を取れば、加賀での二の舞になる。丹精込めて育てた弟子たちは、追放の日に一人として弥助の側に立たなかった。黒田主膳が「弥助は先代の技を盗んだ不届き者」と触れを出した途端、十年来の弟子までが手のひらを返したのだ。最も目をかけた藤太郎に至っては、弥助の道具箱を主膳の屋敷に運び入れる姿を、追われゆく弥助は自らの目で見た。あれ以来、弥助は人を信じることをやめた。
二百文を握りしめて長屋への帰路を辿る。神田の通りは夕暮れの活気に満ちていたが、弥助の目には灰色の靄がかかったように映る。物売りの声、下駄の音、油の弾ける匂い——すべてが遠い。通りすがりの若い職人が、仲間と笑いながら道具箱を担いで走っていく。あの歳の頃、己もああであった。腕一本で天下を取れると信じていた。
長屋に戻ると、弥助はまた作業台に向かった。簪の残りを仕上げねばならぬ。鑿を握る。震える。彫る。滑る。また傷がつく。それでも手を止めるわけにはいかぬ。手を止めれば、この身はただの老いぼれになる。職人でなくなった弥助には、何も残らぬ。
夜が更けた。
秋の虫が鳴く中、弥助は長屋の裏手にある井戸へ水を汲みに出た。月は薄雲に隠れ、提灯の灯りだけが足元を照らしている。夜気は湿り気を帯びて冷たく、虫の声は草叢から途切れなく湧き上がっていた。井戸端で柄杓の水を口に含んだとき、路地の奥から微かな呻き声が聞こえた。
足を止めた。
裏路地の暗がりに、人の形が倒れている。近づくと、異様な風体の男であった。蘭学者が着るような詰襟の洋装に、和装の袴を合わせた奇妙な出で立ち。生地は上等だが泥にまみれ、袴の膝が裂けている。逃げてきたか、追われてきたか。男の口元から黒い血が糸を引いて地面に落ちている。懐から散らばった書物は、見慣れぬ横文字で埋め尽くされていた。
弥助は立ち止まったまま、しばし男を見下ろした。
関わるべきではない。夜中に血を吐いて倒れている男など、まともな筋の者であるはずがない。蘭学は幕府の目が厳しい。下手に関われば、己まで咎を受ける。
踵を返しかけた弥助の目に、男の右手が映った。指先に墨と薬品の染みがこびりついている。爪の際まで黒く、皮膚は薬焼けで荒れ、ところどころに細い切り傷が走っている。何かを作り、何かを試し、何かを追い求めてきた手。職人の手であった。
弥助の足が止まった。
長屋に戻り、己の手が震えるまま布団に潜る夜を、あと何度繰り返す。明日も明後日も、同じ粗末な簪を削り、同じように佐兵衛に値切られ、同じ六畳間で朽ちていく。加賀への恨みを抱えたまま、何も為せずに終わる——それが弥助の残りの生であった。
だが。
職人の手を見捨てることが、弥助にはできなかった。理由は言葉にならぬ。ただ、あの手だけが、この暗がりの中で弥助の足を縫い止めていた。
「おい。生きておるか」
弥助は男の肩を抱き起こした。男は薄く目を開け、焦点の定まらぬ瞳で弥助を見上げた。唇が渇き、顔は蝋のように白い。だが瞳の奥に、微かだが確かに、光があった。死にかけの男の目ではなかった。何かをまだ諦めていない者の目であった。
「……すまぬ。水を」
「動くな。血が止まっておらぬ」
弥助は自分の襟元を引き裂いて男の口元を拭い、背に担ぎ上げた。六十の骨が軋む。男の体は存外に軽かったが、弥助の足腰には十分すぎる重さであった。それでも歩いた。一歩ごとに膝が笑い、背骨が悲鳴を上げる。井戸端で水を飲ませ、長屋まで引きずるように運び込んだ。
作業台の上の簪と鑿を押しのけ、男を横たえる。脈を探ると、弱いが打っている。懐の書物を拾い集めて枕元に置き、額の汗を拭いてやった。
男は意識の境で、うわごとのように呟いた。
「……まだだ。まだ、完成して……おらぬ」
何が完成していないのか、弥助には知る由もなかった。ただその声に宿る執念だけが、工房の隅で未完の龍を抱えた己と重なって、妙に胸を打った。
弥助は作業台の端に腰を下ろし、眠る男を見つめた。提灯の火が揺れるたびに、男の懐から覗く書物の横文字が明滅する。読めぬ文字の羅列が、まるで弥助の知らぬ世界への入口のように見えた。
己の右手を開いて見た。皺だらけの掌、節くれだった指、爪の間に残る銀粉。この手にまだ何かができるのか。それとも、もう何もできぬまま終わるのか。答えは出ぬ。ただ、この夜だけは、朽ちるだけの日々とは違う何かの匂いがした。
裏長屋の夜は深い。虫の音だけが満ちる闇の中、弥助は知らなかった。この夜拾い上げた男の手が、己の運命のみならず、この国の形すら変える鍵を握っていることを。