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厨の軍師、幕末に立つ

第2話 第2話

第2話

第2話

戸を閉める音が、四つ続いた。徳兵衛の手が先に動き、蓮の手がその後を追う。板戸を溝に落とし、心張り棒を掛ける。木と木が擦れる鈍い音の向こうで、表通りの怒号がなお尾を引いていた。鋼が鳴る金属質な響きが一度、二度。続いて、女の悲鳴と、逃げる足音。

「……行き過ぎたな」

徳兵衛が土間に腰を落とし、拳で膝を打った。

「近頃はこうじゃ。日が落ちれば町は浪人のものよ。お上の見廻りなど、通り一本抜ければ幽霊と同じじゃて」

蓮は残った竈の火を掻き寄せ、灰をならした。手の甲を熾火にかざせば、腕の毛が縮れる熱。前の厨房では感じぬ、剥き出しの火の気であった。胸の奥で、先ほどの浪人の声がまだ残響していた。——こんな飯は食ったことがない。

徳兵衛が顔を上げた。

「おぬし、行き場はあるのか」

「……ない」

「ならば、ここにおれ」

乾いた声であった。情けでもなく、恩でもない、商いの声。徳兵衛は懐から煙管を取り出し、火皿に煙草を詰めた。

「うちは夫婦二人で回しておったが、かかが三月前に流行り病で逝っての。人手は要る。飯は食わせる。寝床は板の間じゃが、軒下に寝るよりはましじゃろ」

蓮は黙って頷いた。徳兵衛は顎をしゃくって奥の板の間を指し、煙を吐いた。

「名は何という」

「……蓮。葛城蓮」

「葛城か。姓を名乗るとは、もと侍か」

咄嗟の嘘を継ぐ知恵はなかった。蓮はただ小さく首を振った。徳兵衛はそれ以上問わず、煙管の雁首を灰吹きに打った。それで話は済んだ、という音であった。

板の間に敷かれた薄縁に体を横たえると、体の芯にようやく疲労が届いた。木目から立ち昇る、古い味噌と魚の脂と煙草の匂い。暗闇の中で、蓮は天井の梁を見上げた。

文久三年。

舌の上で、その言葉が石のように重かった。

翌朝、蓮は徳兵衛に連れられて錦小路へ出た。

朝靄の向こうから、魚の腹を叩く音が聞こえてくる。籠を担いだ行商が、泥道を裸足で駆けていく。蓮は前世の築地で何百回と仕入れをした男であったが、ここに立った途端、足が動かなかった。

氷がない。

それが第一に突き付けられた現実であった。俎板の上に並ぶ鱧は、すでに腹が青ざめ、鰓からは微かに酸の匂いが立っていた。鯖は尾が反り返り、目が白く曇っている。露店の男はそれを平然と捌き、血水をそのまま泥道に流していた。蠅が二、三匹、俎板の縁を這っていた。

「この鯖、午過ぎまで保つのか」

思わず漏れた独言に、徳兵衛が笑った。

「保たせるのが料理人じゃろうが」

塩を打ち、酢で締める。それが保存の全てであった。前世で当たり前に開いた冷蔵庫の扉——あの白い光は、この時代の誰一人として知らぬ。蓮は自分の喉が鳴るのを抑えた。

野菜の棚も似たようなものであった。大根は土を落としただけで籠に積まれ、葉物は萎び、根菜はひび割れていた。蓮は指先で人参を一本摘み上げ、軽く曲げた。ぱきりと折れる音。繊維の水気が抜けきっている。

——この食材で、三十年の技を使えと言うのか。

一瞬、眩暈がした。だがその眩暈の奥から、別の何かが首をもたげてきた。

制約こそが技である。

前世で師に叩き込まれた言葉が蘇った。冷蔵庫も真空包装もなかった時代、料理人は火と塩と時間だけで食材を御してきた。蓮が修めた技の半分は、新しい道具の使い方でしかない。残り半分——乾燥、塩蔵、発酵、燻し——それらはここでも通ずる。

蓮は息を整え、鯖の目を覗き込んだ。白濁はしているが、奥にまだ張りが残っている。腹を指で押せば、弾き返す力がわずかにある。これなら、塩で締めて一刻のあいだ置けば、食える身に戻せる。

「二尾、もらう」

「銭は」

徳兵衛が溜息をつき、懐から銭を数えた。

「働きで返せ」

それが、蓮の最初の仕入れであった。

飯屋に戻ると、蓮は水甕の横に腰を据え、布で水を濾し始めた。徳兵衛が怪訝な顔をする。

「水がどうしたというのじゃ」

「泥と虫を抜く。布を二度、三度濾せば、腹を下す子は減る」

徳兵衛が鼻を鳴らした。

「三十年、そのまま使うておる」

「三十年、腹を下しておられたのでしょう」

老人の眉がぴくりと動いた。が、口は閉じた。蓮は俎板を沸かした湯で拭き、包丁の刃を砥石にかけた。刃の毀れを一つずつ立ち上げていく。砥石に水を落とす度、粒子の擦れる音が、土間の静けさを埋めた。

竈の火を起こし、鯖の皮目を炙る。塩をまぶし、布に包んで石を置く。大根は桂剥きにして塩揉みし、水気を絞った。昆布が手に入らぬ代わりに、干し椎茸と煮干しを合わせ、弱火で出汁を引いた。鍋からは、昨日の汁物より厚みのある香りが立ち始めた。

徳兵衛が、鼻を鳴らした。先ほどとは違う鳴らし方であった。

昼時になった。

表の障子戸が開き、腰曲がりの老爺が覗き込んだ。次に、荷を下ろした車挽き。続いて、近所の紺屋の若衆が三人。いつもなら午後になってようやく一人二人という飯屋に、客が重なり始めた。

「——なんじゃ、この匂い」

最初に入った老爺が、鼻をひくつかせた。徳兵衛が飯櫃の蓋を開けようとした手を、蓮は目線で止めた。

「お待ちを」

蓮は一度に飯を盛らず、椀を湯で温めてから少量ずつ盛った。大根の塩揉みを箸先で整え、椎茸と煮干しの出汁を注ぐ。鯖は炙った皮目を上に、薄く削ぎ切りにして添えた。飯の上に青紫蘇——裏手の鉢植えから一枚だけ摘んだもの——を刻んで散らした。

老爺が汁物を一口啜り、動きを止めた。

「……徳兵衛、これは」

「新しい下働きじゃ」

徳兵衛がそう答えるのを、蓮は竈の前で聞いていた。老爺は無言で椀を空にし、飯を掻き込み、それから初めて顔を上げた。

「もう一膳」

その一言で、空気が変わった。

車挽きが顔色を変えて椀に口をつけ、紺屋の若衆たちが膝を詰めて汁を啜った。誰も喋らなかった。ただ箸と椀の触れ合う音だけが、狭い土間を満たした。食い終わった者から、懐の銭を出して土間に置き、軽く会釈して出ていく。その銭の音が、蓮の耳にはやけに大きく響いた。

夕刻までに、飯櫃は二度空になった。

徳兵衛が、空になった飯櫃の底を覗き込み、そのまま拳を握った。肩が、小刻みに震えていた。笑っているのか、泣いているのか、蓮には判らなかった。

「……おぬし」

老人が、ようやく口を開いた。

「何者じゃ」

「料理人だ、と申し上げた」

「そのような料理人がおるか。鯖の目利きも、水の濾しようも、出汁の引きも、町飯屋の者ではないわ」

蓮は答えなかった。徳兵衛は銭箱に手を入れ、一掴みの銭を蓮の前に置いた。

「明日の仕入れは、おぬしが選べ。銭は好きなだけ使え」

差し出された銭を、蓮はしばらく見つめた。それは前世で握った紙幣の厚みよりも、遥かに重かった。一文銭一枚の軽さに、この時代の一人分の命が乗っている。蓮は頷き、銭を懐に収めた。

その夜、戸を閉める前に、若い車挽きが顔を出した。

「あんた——明日も、いてくれるか」

「いる」

「よかった。仲間に言うておく。明日、連れてくる」

車挽きは早口にそう言い、足早に闇へ駆けていった。蓮は戸口に立ったまま、裏町の細い路地を見下ろした。提灯の明かりが一つ、また一つと灯り、板葺きの家並みが夜の底に沈んでゆく。

徳兵衛が、煙管の煙を吐きながらぽつりと漏らした。

「あの飯屋が化けた——そう言われるようになるかもしれぬの」

三日目の朝、既に錦小路の魚屋は蓮の顔を覚えていた。

「葛城の、今日は何を引くのじゃ」

行商が向こうから声を掛けてくる。蓮は鱧の腹を指で押し、首を振り、別の魚を指差した。それだけのやり取りが、ここでは信用の芽吹きであった。

飯屋に戻る道すがら、徳兵衛が歩きながら低い声で言った。

「……耳に入れておく」

「何を」

「ここ数日、おぬしの飯を食うておる連中の中に——町方でない者が混じっておる」

蓮は足を止めた。

「どういう意味だ」

「刀を差しておる。しかも、研ぎたてじゃ」

徳兵衛は懐手のまま、町の喧騒に目を細めた。

「うちは裏町の飯屋じゃ。三文の汁物を食いに、研ぎたての刀が来る筋合いはない。噂が、悪い所に届いたやも知れぬ」

蓮の指先が、懐の包丁に触れた。欠けを直し、研ぎ直した、あの一丁であった。

夕刻——飯屋の表口に、三つの影が立った。

ひと言も発さず、ただ腰の刀に手をかけたまま、動かなかった。

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