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厨の軍師、幕末に立つ

第1話 第1話

第1話

第1話

白い天井が、消えた。

それが葛城蓮の最後の記憶であった。厨房の床に膝をつき、意識が薄れゆく刹那に見上げた蛍光灯の無機質な光。ミシュランの星も、百時間を超える労働も、誰一人として待つ者のいない自宅の暗がりも——すべてが遠ざかり、白に呑まれた。

次に感じたのは、背中を突く石畳の冷たさと、鼻腔を焼く異臭であった。

腐った野菜、生ゴミ、そして人糞。幾重にも折り重なった悪臭が、蓮の意識を無理やり引き戻す。目を開ければ、灰色の空の下、木造の建物が軒を連ねていた。瓦屋根ではない。板葺きの、いかにも粗末な造り。路地は泥にまみれ、裸足の子どもが走り抜けてゆく。

「……どこだ、ここは」

声が掠れていた。自分の喉から出た音とは思えぬほど乾いていた。起き上がろうとして、手が何かぬるりとしたものに触れた。見れば、木桶からこぼれた煮汁の残骸。腐りかけの大根の切れ端、黒ずんだ菜っ葉、骨だけになった魚の頭。その向こうに、煤けた土竈が据えられている。竈には、まだ微かに火の気が残っていた。

飯屋の裏手だ、と蓮は悟った。だが、こんな飯屋は知らない。いや、そもそもこの街並み自体が、蓮の知るどの都市とも重ならぬ。遠くから聞こえるのは物売りの声。だがその調子は、テレビの時代劇でしか耳にしたことのない、奇妙な抑揚を帯びていた。

蓮は、自分が立っている場所の意味を理解できぬまま、ただ一つ確かなことだけを認めた。

ここは、自分のいるべき場所ではない。

裏手に転がったまま呆然としていた蓮の耳に、罵声が飛んできた。

「おい、そこの——邪魔じゃ、どけ」

振り返れば、痩せた中年の男が盥を抱えて立っている。垢じみた着物に、手拭いを頭に巻いた姿。飯屋の亭主らしかった。

「あんた、どこの誰だ。酔うて転がっておったのか」

蓮は答えに窮した。名を言えば怪しまれるだろうか。いや、それ以前に、自分がなぜここにいるのかすら分からぬ。言葉を探すうちに、亭主の目が蓮の着ているものに留まった。

蓮はまだコックコートを着ていた。白い、しかし泥にまみれた異国風の衣。左胸のポケットには店の名が刺繍されているが、泥で判読できぬ。ダブルブレストのボタンは銀色に鈍く光り、袖口には昨夜——いや、前の世界の昨夜——仕込みで飛ばしたソースの染みがまだ残っていた。亭主の眉が怪訝に歪む。

「南蛮の——いや、唐人か。妙な身なりじゃの」

「……料理人だ」

咄嗟に出た言葉は、それだけだった。だが亭主——のちに徳兵衛と名乗るその男は、蓮の手を一瞥してふんと鼻を鳴らした。

「包丁胼胝じゃな。嘘は言うておらんか。——まあよい、ここでくたばられても迷惑じゃ。飯でも食わせてやるから、そこの竈の火番でもしておれ」

それが、蓮と徳兵衛の最初のやり取りであった。

火番を命じられた蓮は、竈の前に座り、飯屋の内部を観察した。狭い。四畳半ほどの土間に竈が二つ。壁際に据えた棚には、欠けた椀と皿。包丁は一丁だけで、刃はぼろぼろに毀れている。水甕の水からは、微かに泥の臭いがした。

前の世界なら、保健所が即座に営業停止を命じる環境だった。ステンレスのカウンターも、温度管理された冷蔵庫も、浄水器も、何一つない。蓮は竈の炎を見つめながら、自分の手のひらを開いた。包丁を三十年握り続けた掌。指の腹に刻まれた胼胝は、この世界でも消えてはいなかった。技術だけが、時代を超えて蓮に残されたものだった。

客が入ってきたのは、日が傾きかけた頃であった。表の障子戸が荒っぽく開かれ、三人の男が土間に上がり込む。着物は薄汚れ、腰には刀を差しているが、どれも錆びた拵えである。浪人であろう。

「徳兵衛、飯じゃ。なんでもよい、早う出せ」

徳兵衛が慌てて竈に向かう。だが蓮は既に見ていた。飯櫃に残った冷や飯はわずか。菜は萎びた大根と、塩辛い味噌が少し。椀に盛ったところで、とても腹を満たせる量ではない。

蓮の指が、無意識に動いた。

立ち上がり、竈の火を確かめる。棚の隅にあった干し椎茸——黴びかけだが、芯はまだ生きている。指先で軸を折ると、乾いた土の匂いの奥から、かすかに甘い香りが立った。蓮はその香りを鼻腔の奥で確かめ、使えると判断した。水甕の水を布で濾し、土鍋に張る。干し椎茸を割り入れ、弱火にかけた。大根の皮を薄く削ぎ、塩で揉んで水気を絞る。冷や飯は湯で洗い、粘りを落とす。

徳兵衛が目を丸くしていた。

「おい、何をしておる——」

「黙って見ていてくれ」

蓮の声に、厨房で三十年を過ごした者だけが持つ、有無を言わせぬ静かな凄みがあった。徳兵衛は言葉を呑んだ。

味噌を少量、椀の底で溶く。指の腹で味噌の塩梅を探る。前の世界の味噌とは異なる、荒い粒感と強い塩気。だが大豆の旨味はしっかりと残っている。蓮はその塩気を逆手に取り、溶く量をさらに減らした。そこに椎茸の戻し汁を注ぐ。大根の皮は椀の縁にあしらい、洗った飯は別の椀に軽く盛る。

それだけだった。

残飯と言って差し支えない食材。調味料は味噌のみ。道具は欠けた椀と一丁の包丁。それでも蓮の手は、一椀の汁物をこの世に生み出した。干し椎茸の戻し汁がもたらすグルタミン酸の旨味と、味噌の塩気が合わさった瞬間の芳香が、土間に満ちた。

浪人の一人が鼻をひくつかせた。

「——待たせた」

蓮が三人の前に椀を置いた。湯気の向こうで、浪人たちの目がわずかに揺れる。

頭目と思しき男——顎髭を蓄えた、眼光の鋭い壮年——が無言で椀を手に取り、啜った。

一口。

男の喉が動いた。二口目はなかった。しばらく椀を見つめ、それから、三口目を啜った。

「……なんじゃ、これは」

声が、微かに震えていた。

蓮は答えなかった。答える必要がないことを、料理人の本能が知っていた。

連れの二人もまた、黙々と椀を空にした。誰も言葉を発さぬ。ただ、最後の一滴まで啜り終えた後、頭目の男が顔を上げた。

「こんな飯は、食ったことがない」

その声は、蓮の胸の奥、とうに枯れ果てたと思っていた場所を、真っ直ぐに貫いた。

ミシュランの星を獲った夜、厨房に並んだ部下たちの拍手よりも。美食家たちが綴った絶賛の批評よりも。たった一人の飢えた男が、残飯の汁物を啜って漏らしたその一言が、蓮の全身を痺れさせた。

ここには——この、臭くて汚くて不便極まりない時代には、一椀の汁物で目の色を変える人間がいる。

蓮は手の震えを抑えられなかった。それは恐れではなく、歓喜でもなく、もっと深い場所から湧き上がる何かだった。長い間忘れていた感覚。自分の腕が、確かに誰かの腹に届き、命を繋いでいるという、あの手応え。

前の世界の厨房では、もうこの震えは来なくなっていた。どれほど完璧な皿を仕上げても、それは計算の帰結であり、驚きのない正解でしかなかった。評価は数字で届き、客の顔は見えず、料理は作品と呼ばれて食事とは呼ばれなくなった。いつからか蓮は、人に食わせているのではなく、星を維持するための機械になっていた。

だがこの椀は違う。

三人の男の腹に、確かに落ちた。

浪人たちが去った後、蓮は竈の前に一人座り、煤けた天井を見上げた。

文久三年。

その言葉を、徳兵衛との会話の端々からようやく掴んでいた。西暦に直せば一八六三年。幕末の京都。攘夷の嵐が吹き荒れ、天誅の刃が夜ごとに人を斬る時代。

なぜ自分がここにいるのか、分からない。戻る方法も、見当がつかない。

だが竈の火は、まだ消えていなかった。

蓮は立ち上がり、欠けた包丁を手に取った。刃を確かめる。毀れてはいるが、研げばまだ使える。この一丁があれば——いや、この一丁さえあれば。

裏手から、また物売りの声が聞こえた。明日もこの飯屋には客が来る。腹を空かせた、この時代の人間たちが。

そのとき、表通りの方角から、異様な気配がうねるように流れてきた。怒号、足音、そして鋼が鳴る音。

徳兵衛が血相を変えて飛び込んできた。

「戸を閉めろ——不逞浪士じゃ。辻斬りが出おった」

蓮の手の中で、欠けた包丁が鈍い光を返した。

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