第3話
第3話
風のない夕暮れであった。だがその夕暮れを裂いて、三つの影が戸口に立っていた。
蓮の鼻先に、最初に届いたのは、刃の油の匂いであった。新しく研がれた刀身に塗られる、あの薄い丁子油の香。続いて、汗と埃の混じった男たちの体臭、その奥から微かな酒気。三人とも襷を取っていない。草鞋の裏に泥はついているが、履き口は真新しい。
——こいつらは、どこか遠くから歩いてきた。そして、まだ誰も斬っていない。
蓮の頭が、冷たく回転した。前世の厨房で、包丁を手にした若い料理人が入ってきた瞬間、その男が真面目か、それとも手癖の悪い男か、肌で判ずる感覚。それと同じものが、今、三人の立ち姿を測っていた。
徳兵衛が、蓮の背に隠れるように半歩下がった。老人の唇が、声にならぬ念仏を刻んでいた。
先頭の男が、草鞋のまま板の間に踏み込んだ。
「——徳兵衛屋。飯を出せ」
声は低く、無理に抑えられていた。男は中背で、月代は伸び、頬の肉は落ちている。腰の大刀は紛れもなく研ぎたてで、鞘の塗りに新しい油の曇りがあった。連れの二人——片方は若く、もう一人は肩幅の厚い年嵩——はそれぞれ戸口の左右に分かれて立ち、表通りへの目配りを怠らなかった。
「銭は、ございますので」
徳兵衛が、掠れた声で問うた。
先頭の男が、腰の刀の柄に手を置いた。それだけで、徳兵衛の喉がごくりと鳴った。
「今はない。後で払う」
後で払うという言葉を、この時代の浪人が口にするとき、その裏に何が張り付いているか——蓮はこの数日でもう学んでいた。
「——お座りください」
蓮の声が、徳兵衛の背後から、静かに土間を渡った。
徳兵衛が振り返り、目を剥いた。だが蓮は徳兵衛の肩を軽く押して竈の方へ退かせ、先頭の男の前に進み出た。頭を下げはしなかった。ただ、まっすぐに男の目を見た。
「飯をお出しします。板の間へ」
男が片眉を上げた。若い連れがすかさず口を開きかけたが、先頭の男が手の平を返してそれを制した。三人は黙って草鞋を脱ぎ、板の間の端に腰を下ろした。
蓮は竈へ戻った。
飯櫃を覗く。昼の客で大方を出してしまった残りの冷や飯が、櫃の底に固まっていた。二合あるかどうか。菜は萎びた水菜と、朝に炊いた切り干し大根の煮物が小鉢にわずか。鯖はもう尾の一片も残っていない。
——三人に、一膳ずつ。
蓮の指が動き始めた。
まず湯を張った鍋を火にかけ、冷や飯を笊に取り、熱湯を回しかける。粘りを落とし、粒を立てるためであった。この時代の飯は炊きが甘く、冷えると団子のように固まる。それを湯通しすれば、米の芯に熱が戻り、炊きたての顔に近づく。笊の下から白い湯気が立ち上り、米の香がほんの一瞬だけ鼻先に戻ってきた。蓮はその香を確かめながら、笊を軽く揺すって水を切る。粒と粒の間に微かな光が走り、飯の表情がひとつ変わった。
切り干し大根の煮汁——わずかに残った、醤油と甘酒を溶いた煮汁——を小鍋に移し、鰹の削り節を一つまみ落とした。削り節は徳兵衛が一昨日、錦の乾物屋から蓮に引かせた上物であった。湯気の中で、削り節の脂と煮汁の甘みが抱き合った。蓮はそこへ味噌を耳たぶの硬さに溶き、椎茸の戻し汁を足した。出汁の層が、三段に重なった。椀に注げば、鼻先にはまず鰹の燻し香、次に椎茸の土の香、最奥にひっそり控えた味噌の塩気——と、順を追って立ち上がるはずであった。そう組み立てた。
俎板の上に、干した鰯が二尾。蓮はそれを叩いて骨を外し、身を粗く刻み、味噌と葱の白根をすり合わせて丸めた。それを炙り焼きにして、網の上で皮を焦がす。炙られた味噌と鰯の脂が、土間に煙を立てた。網の下の炭が、ぱちりと一度はぜた。鰯の皮の縁が反り、味噌の表面にぷつぷつと小さな泡が浮いて、焦げ茶色の斑が散ってゆく。脂が炭に落ちるたび、青い煙が細く立ち昇った。
若い連れの男が、鼻をひくつかせて顔を上げたのを、蓮は竈越しに見ていた。
膳は、三つ。
湯で締めた飯の上に、切り干し大根を細く刻んで散らす。炙り鰯の味噌玉を添え、小皿に水菜を塩もみして水気を絞ったもの。椀には、三段の出汁に味噌を溶いた汁。表面に、蓮は最後に一滴、朝に絞った生姜の汁を落とした。冷えた体を内から起こすための、一滴であった。
膳を板の間に運ぶ蓮の手は、震えていなかった。徳兵衛の目が、その手元を食い入るように追っていた。
先頭の男は、箸を取る前に、しばらく膳を見下ろしていた。
男が箸を取った。
まず、椀であった。
啜った瞬間、男の喉がごくりと動いた。二口目は、やや急いだ。三口目で、止まった。椀を置き、箸を飯の上に伸ばす。炙り鰯の味噌玉を一片、千切って飯に乗せ、掻き込む。顎が三度動き、男の眉の間のしわが、ゆっくりとほどけた。
連れの二人も、遅れて箸を動かし始めた。
若い男が、飯を半ばまで進めたところで、不意に咽んだ。
「——すまぬ」
袖で口元を押さえ、男は俯いた。肩が、小さく揺れた。
蓮は見ていた。何日、まともな飯を食っていない男なのか。袴の裾から覗く脛が、枯れ枝のように細い。涙ではないのだと、蓮には分かった。飢えた体が、久しぶりに届いた温かい出汁に、喉の奥で悲鳴を上げているのだ。前世の厨房でも、そういう客を何度か見たことがあった。
年嵩の男が、黙って若い男の背に手を置いた。
それから、長い沈黙が続いた。誰も喋らなかった。ただ箸の音と、出汁を啜る音と、竈の薪がはぜる音。吉田は、味噌玉の最後の一片を、惜しむように二度に分けて口へ運んだ。年嵩の男は椀の底を指先で傾け、残った汁の一滴までを舌の先で拾っていた。
三人が膳を空にしたとき、先頭の男がようやく顔を上げた。
「——徳兵衛屋」
徳兵衛が、はいと答える声が裏返った。
「この料理人は、いつから置いておる」
「三日前——でございます」
男は頷き、それから蓮に視線を移した。蓮は板の間の端に正座して、三人の食事を見守っていた。
「名は」
「葛城蓮と、申します」
「葛城——」
男が、その名を舌の上で転がした。何かを照合する間であった。
「某は吉田という。姓は、今は名乗らぬ」
吉田と名乗った男は、懐から何も取り出さなかった。銭も、手拭いも。ただ、自分の腰から鞘ごと脇差を外し、板の間の蓮の前に、静かに置いた。鞘の塗りに、竈の火が淡く映り込んだ。板の間の古い木目の上で、その黒が微かに揺れた。
「質草だ」
蓮は脇差を見、それから男の目を見た。
「——お預かりはできませぬ」
徳兵衛が、ひっと息を呑んだ。吉田の連れの若い男が、色をなして立ち上がりかけた。が、吉田は手を上げてそれを抑え、蓮に問うた。
「なぜだ」
「お腰のものは、あなた様の命でございましょう。一椀の飯と引き換えにするものではございませぬ」
蓮は、前世で覚えた礼節の言葉を、この時代の舌にぎこちなく乗せた。拙いながらも、届く言葉を選んだ。
「明日でも、明後日でも。銭が工面できましたら、お持ちください。うちの店は、ここから動きませぬ」
吉田は、しばらく蓮を見つめていた。それから、脇差を鞘ごと腰に戻した。静かな所作であった。
「——こんな飯を、銭もなしに食ろうた」
男の声が、わずかに震えた。それは恥の震えではなく、もっと別のものであった。
「次は、銭を持ってくる」
男はそう言い、立ち上がった。連れの二人も、無言で後に従った。草鞋を履き直し、戸口で一度振り返って、吉田は蓮に頭を下げた。深くはない。が、確かな角度の礼であった。
三つの影が、夕闇に消えた。
戸を閉めた徳兵衛が、心張り棒を落とすとき、手が震えていた。
「……おぬし、気でも触れたか」
老人の声は、叱責というより悲鳴に近かった。
「刀を差した者に、銭なぞ後回しと言うたのじゃぞ。吉田——あれはお前、長州か、土佐か。わしらのような裏町の飯屋が、ああいう者と縁を持てば——」
蓮は、空になった膳を片付けながら、徳兵衛の言葉の半分を聞いていた。もう半分では、別のことを考えていた。
——飯が、銭の代わりになる。
いや、違う。飯は、銭よりも先に、人の首の向きを変える。吉田という男は、一度は柄に手を置いた。その同じ男が、腰のものを外し、研ぎたての脇差を、一椀の汁物の前に置いた。
この時代では、飯は交渉の道具だ。
前世の厨房ではついぞ気付かなかった単純な事実が、蓮の胸に、石の重みで落ちてきた。竈の火を掻き寄せる手が、静かに止まった。薪のはぜる小さな音だけが、土間にぽつりと残った。
戸口の向こうで、提灯の灯が一つ、闇の底をゆっくりと揺れていた。