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声よ、溶けるまで

第2話 第2話

第2話

第2話

翌日の放課後も、俺は東棟三階の空き教室に向かった。

 昨日の足音のことは、一晩かけて「気のせい」に分類した。少なくとも、そういうことにした。誰かが通りかかっただけだ。廊下を歩いていた誰かが、たまたま立ち止まって、たまたますぐに去っていった。それだけのこと。俺の声を聴いていたかどうかなんて、確かめようがないし、確かめたくもない。

 だから今日も同じように鞄を床に置いて、窓際に寄りかかって、イヤホンを外した。カーテンの裾が風に揺れる。昨日より少しだけ暖かい風で、グラウンドでは野球部がノックをしている音が遠く聞こえる。金属バットがボールを弾く音はE♭。いい音だ。打った本人は気づいていないだろうけど。

 息を吸って、喉を開く。今日は何を歌おう。昨日のヒバリの続きでもいいし、中学のとき音楽の授業で聴いた合唱曲のフレーズでもいい。何でもいい、誰にも聴かせない歌なんだから——

「見つけた」

 声は背後から来た。

 心臓が止まるかと思った。肺の中の空気がそのまま凍りついて、吸うことも吐くこともできなくなる。指先が一瞬で冷たくなって、窓枠に置いていた手が無意識に握りしめられた。振り返ると、教室の入り口に一人の女子が立っていた。ショートカットの髪がドアの隙間から入る風に揺れて、額にかかっている。制服の胸元にはクラスの違う学年章。顔は知らない。でも——足元に目がいった。上履きのつま先。軽そうな、小さい足。

 昨日の足音の主だと、直感で分かった。

「やっぱりここだったんだ」

 彼女は笑った。別に悪意のある笑い方じゃない。何か嬉しいものを見つけたときの、飾り気のない表情。でも俺の体は既に硬直していて、窓枠を掴んだ手が白くなっていた。

「……誰」

「二組の白石凛。合唱部の部長」

 合唱部。その単語を聞いた瞬間、俺の中で警報が鳴った。全力で逃げろ、と体のどこかが叫んでいる。

「昨日、ここの前を通ったら声が聴こえて」凛はドアの枠に肩を預けたまま言った。「すごかった。たった一人のハミングなのに、部屋全体が鳴ってた」

「聴き間違いだと思う」

「絶対違う」

 断言された。目が真っ直ぐだった。お世辞を言う目じゃない。何かを確信している人間の目だ。俺はその視線から逃れるようにイヤホンを掴んだ。

「用がないなら帰る」

「ある。用ならある」

 凛は一歩、教室の中に入ってきた。積み上げられた椅子の間を縫うように近づいてくる。距離が縮まるたびに、俺の心拍が速くなる。埃っぽい教室の空気の中に、かすかにシャンプーとも制汗剤ともつかない匂いが混じって、他人がすぐそこにいることを否応なく意識させられた。

「合唱部に入ってほしい」

 予想通りの言葉だった。予想通りだったから、答えも決まっていた。

「無理」

「まだ何も説明してないのに」

「説明されても無理なものは無理だから」

 鞄を掴んで出口に向かおうとした。凛が道を塞いでいる。いや、塞いでいるわけじゃない。ただそこに立っているだけなのに、避けて通ることがなぜかできない。彼女は両手を体の横にぶら下げたまま、真正面から俺を見上げてきた。身長差が結構ある。目線の角度がきつい。

「部員が三人しかいないの」

 凛は淡々と言った。

「私と、柚木陽菜と、もう一人。三人。大会に出るには八人必要なんだけど、六月末までに届かなかったら廃部届を出さなきゃいけない」

 六月末。あと二ヶ月ちょっとか。俺には関係のない数字のはずだった。

「合唱部がなくなるの、私は嫌なの」

 声のトーンが変わった。さっきまでの明るさの底に、硬い芯みたいなものが覗いた。必死さ、というほど切迫してはいない。でも軽くもない。この部のことを本気で考えている人間の声だった。

「大変だと思うけど、俺には関係ない」

「関係なくてもいい。声が必要なの」

「人前で歌う気はない」

「練習だけでもいい。私たちと一緒に声を出すだけで——」

「ごめん」

 凛の横をすり抜けた。肩が触れそうになって、触れなかった。廊下に出ると、東棟の空気が急にがらんとして、自分の足音だけがリノリウムに跳ね返る。背中に視線を感じたけれど、振り返らなかった。

 階段を降りながら思った。正しい判断だ。俺は人前で歌わない。歌えない。あの耳のことを知られるわけにはいかない。合唱なんてもっての外だ。八人で声を合わせるなんて、俺の耳には拷問でしかない。全員の音程のずれが全部聴こえる。それを指摘してしまう。そして嫌われる。小三のあの日と同じことが起きる。

 分かっている。分かっているから、断ったんだ。

 昇降口で靴を履き替えて、校門を出た。四月の夕方は中途半端に明るくて、空が薄い橙とグレーの境目みたいな色をしていた。通学路の坂道を下りながらイヤホンを耳に入れる。いつもの無音の壁。これでいい。

 ——聴こえた。

 坂の途中で足が止まった。イヤホン越しに、かすかに。声。歌声。坂の上の、校舎のどこかから風に乗ってくる旋律。合唱曲だ。三人分の——薄い、危うい、でも確かに三つの声が重なった和音。

 ソプラノがひとつ、メゾがひとつ、アルトがひとつ。パートバランスが悪い。低音が足りない。ピッチも完璧じゃない。メゾの子がサビの入りで微かに走っている。アルトは音量が小さすぎて和音の土台になりきれていない。

 でも——ソプラノの声には、芯があった。

 凛の声だと直感で分かった。技術的に傑出しているわけじゃない。声楽の訓練を本格的に積んだ声でもない。ただ、まっすぐだった。飾りのない、剥き出しの声。正しい音程を狙うことよりも、歌うこと自体に全部を賭けているような。ビブラートもほとんどかけていない素朴な発声なのに、風に乗って坂道を下ってくるその声には、妙な引力があった。

 イヤホンを、無意識に片方だけ外していた。

 曲は知らないものだった。たぶん合唱コンクールの課題曲か何かだろう。短調のメロディが長調に転じる箇所で、三人の声が束の間きれいに揃った。ほんの二小節。すぐにまたばらけたけれど、あの一瞬の和音は——。

 俺は坂道の途中で立ち尽くしていた。夕方の風が前髪を揺らして、遠くで野球部の掛け声が聞こえる。校舎の三階あたり、たぶん音楽室の窓が開いているんだろう。そこから漏れてくる三人の合唱は、お世辞にも上手いとは言えない。

 でも、不快じゃなかった。

 教室のチャイムのずれは俺の背筋を強張らせる。通知音の洪水は耳を塞ぎたくなる。なのにこの三人の、明らかに足りない合唱は、不思議と耳に刺さらない。下手だから許せるのか。それとも——歌おうとしている人間の声には、音程の正しさとは別の何かがあるのか。

 分からない。分かりたくない。

 イヤホンを元に戻した。坂道を足早に下りる。帰ろう。明日からは東棟の空き教室には行かない。別の場所を探せばいい。関わらなければ何も起きない。

 夕飯は母さんの肉じゃがだった。テレビの音が食卓に流れていて、ニュースキャスターの声はG。それを拾ってしまう自分の耳が、今日はいつもより少しだけ疎ましい。箸を動かしながら、今日の出来事を頭の中で圧縮して、「何でもないこと」フォルダに放り込む作業をする。白石凛。合唱部。廃部届。三人。八人。六月末。全部、俺には関係ない。

 風呂に入って、歯を磨いて、ベッドに潜り込む。部屋の照明を消すと、暗闘の中で耳だけが冴えていく。隣の家のテレビの音。道路を走る車のエンジン音。水道管の中を水が流れるかすかな音。いつもならそれらを数えているうちに意識が落ちていくのに、今夜はだめだった。

 坂道で聴いた旋律が、頭の中で鳴り続けていた。

 凛の声だ。あのまっすぐな声。メゾの走りも、アルトの弱さも全部含めた、三人分の不完全な和音。それが夜の暗闇の中でリフレインして、消えない。枕に顔を押しつけても、寝返りを打っても、耳の奥に貼りついたまま剥がれてくれない。天井の染みを見つめながら、あの転調の二小節だけを何度も脳内で再生してしまう自分に気づいて、舌打ちした。

 ——明日も、あの坂道を通る。

 たぶん、また聴こえてしまう。

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