第1話
第1話「チャイムの0.3ヘルツ」
教室のチャイムが、いつも少しだけ低い。
誰も気にしない。当たり前だ。0.3ヘルツのずれなんて、普通の耳には存在しないのと同じだから。でも俺には聴こえる。毎時間、毎日、骨の奥まで染みこむようなその微かな狂いが、四十五分ごとに教室を揺らす。あの音が鳴るたびに、背筋がほんの少し強張る。誰も気づかない不協和音に、俺だけが反応している。その事実が、いつも俺を教室の中で一人にする。
篠宮奏太。高校二年、出席番号十五番。窓際の最後列。それが俺の座標で、俺の全部だ。
四月の教室は騒がしい。クラス替えの直後で、誰もがまだ距離感を測りかねている。新しい席の隣の女子が友達に手を振る声、後ろの男子が椅子を引きずる音、廊下から飛んでくる笑い声。ひとつひとつは何でもない音のはずなのに、俺の鼓膜はそのすべてを拾い上げて、勝手に分解する。
椅子の脚が床タイルを擦る音はFシャープ。ロッカーの扉が閉まる音はB♭。誰かのくしゃみはだいたいAの近く。そんなことを知っていても、何の役にも立たない。むしろ邪魔だ。世界中の音に勝手にラベルが貼られていく感覚は、才能なんかじゃない。ただのバグだ。
イヤホンを耳にねじ込む。再生ボタンは押さない。音楽を聴きたいわけじゃなくて、ただ外の音を少しでも遠ざけたいだけだから。白いコードが制服の襟元に垂れて、「話しかけるな」の看板になる。これでいい。これが、俺の防壁だ。
——篠宮くん、って声が聞こえた気がしたけど、イヤホン越しだから曖昧に頷いておく。相手が誰かは見なかった。見なくても困らない。困らないように、ずっとそうしてきた。
昼休みの購買は混む。だから俺は二時間目が終わった休憩時間にパンを買って、机の引き出しに入れておく。昼になったら教室の自分の席で食べる。誰とも食べない。屋上は鍵がかかっているし、中庭はグループの縄張りだ。教室の隅が一番安全で、一番静かで、一番俺に似合っている。
焼きそばパンの袋を開ける音がやけに大きく響く。周りでは四人、五人と固まって弁当を広げている連中がいて、誰かのスマホからSNSの通知音がポコポコと鳴っている。D。D。E♭。耳が勝手に音名を拾うのを、俺は噛みつぶすようにパンを頬張ってやり過ごす。窓の外では桜がもう散りかけていて、花弁が風に巻かれて宙を舞っていた。きれいだと思う余裕があるのは、口が塞がっていて何も喋らなくていい時間だからかもしれない。
——小学三年のとき、合唱の授業でクラスメイトの音程がずれているのが気持ち悪くて、隣の子に「そこ違う」と言った。言い方が悪かったんだと思う。でも当時の俺にはそれしか言い方が分からなかった。
「変なの」「なんで分かるの」「気持ち悪い」
子どもの言葉は刃物だ。あの日から俺は、自分の耳のことを誰にも言わなくなった。
母さんにだけは知られていた。知られていた、というか、幼稚園のときに音楽教室の先生が「この子は絶対音感がありますね」と言ったのを、母さんはずっと覚えていた。最初は喜んでいたと思う。ピアノを習わせようとした時期もあった。でも小学校での一件のあと、母さんは言った。
「奏太、普通でいなさい」
夕飯の味噌汁の湯気の向こう側で、母さんの表情は読めなかった。悲しかったのか、怒っていたのか、それとも俺を守ろうとしていたのか。どれでもあって、どれでもなかったのかもしれない。分かっているのは、あの一言が俺の喉に蓋をしたということだ。味噌汁の出汁の匂いを嗅ぐと、今でもあの夜の台所を思い出す。蛍光灯が微かに唸っていた。あの唸りはB。十年近く経った今でも、その音だけは正確に覚えている。
それ以来、人前で歌うことをやめた。
でも、歌うことそのものはやめられなかった。
放課後。六時間目のチャイムが鳴って——やっぱり少しだけ低い——教室から人が引いていく。部活のある生徒は体育館やグラウンドへ、帰宅部はそのまま昇降口へ。俺はどちらでもない。鞄を持って、誰にも見つからないように東棟の三階へ向かう。
突き当たりの空き教室。去年まで被服室だったらしいけど、今はミシンが撤去されて机と椅子が雑に積まれているだけの部屋だ。鍵はかかっていない。誰も来ない。窓の向こうに校庭のポプラが見えて、四月の風がカーテンの裾を揺らす。
ここが俺の場所だ。
イヤホンを外す。鞄を床に置いて、窓際に寄りかかる。深く息を吸うと、春の湿った空気が肺の奥まで入ってくる。グラウンドの砂埃と、どこかの花壇の匂いが混ざっている。
そっと、声を出す。
最初はハミングから。メロディは何でもいい。今日は朝、通学路で聴こえたヒバリの声がずっと頭に残っていたから、その音程をなぞるように喉を震わせる。ヒバリの声はだいたいA5からC6のあたりを行ったり来たりする。人間の声で追うには高すぎるけど、オクターブを下げれば歌える。
ハミングが、いつの間にかメロディになる。歌詞のない歌。誰にも聴かせるつもりのない、俺だけの音。この空き教室でだけ、俺は耳のことを忘れられる。正確には、忘れるんじゃなくて、初めて自分の耳を好きだと思える。自分の声が空気を震わせて、壁に反射して、少しだけ残響を残して消えていく。その一瞬だけ、世界が正しい音でできている気がする。
声を伸ばすと、旧い被服室の天井が柔らかく音を返してくる。コンクリートの壁とは違う、木材混じりの反響。この部屋の残響時間はだいたい0.8秒くらいで、広すぎず狭すぎず、自分の声がどう響いているかを確かめるにはちょうどいい。積み上げられた椅子の金属フレームがときどき共振して、微かにビリビリと震える。邪魔なはずなのに、不思議とそれすら伴奏のように聴こえる。
メロディが低いフレーズに降りていくとき、胸の奥で何かがほどけるのが分かる。教室で息を殺している時間、イヤホンで世界を遮断している時間、そういう一日分の強張りが声と一緒に体の外へ出ていく。喉の振動が鎖骨に伝わって、指先まで温かくなる。歌っているとき、俺の体はようやく俺のものになる。
窓からの風がカーテンを膨らませた。四月の光が埃を照らして、小さな金の粒が宙を漂っている。声の振動で埃が微かに揺れる。きれいだな、と思った。歌っている自分の声が、初めて何かと調和している。
目を閉じた。もう少しだけ。もう少しだけこのまま歌っていたい。
最後のフレーズをゆっくりと伸ばした。音が空気に溶けていくのを、閉じた瞼の裏で見届けるように。残響が壁から返ってきて、それが消えるまでの数秒間、部屋の中は完全な静寂に包まれる。自分の呼吸の音と、心臓の鼓動だけが聴こえる世界。いつもならノイズでしかない心拍の音が、このときだけはメトロノームみたいに穏やかだった。
だからだろう、気づかなかった。
廊下の足音が、いつの間にか止まっていたことに。
誰かがそこにいた。扉の向こう——俺の声が届く距離に、誰かが立って、聴いていた。
歌い終わって目を開けたとき、かすかに残っていたのは靴底が廊下のリノリウムを踏む音だけだった。Cシャープ。上履きの、軽い足取り。体重の乗り方からして、たぶん女子だ。歩幅は短いのにテンポが速い。小柄で、急いでいる——あるいは、聴いていたことを悟られまいとしている。
心臓が跳ねた。喉が一瞬で渇いた。聴かれた。誰かに、聴かれた。小学三年のあの日の教室がフラッシュバックする。「気持ち悪い」という声が耳の奥で反響して、俺は反射的にイヤホンに手を伸ばした。握りしめた指先が冷たい。さっきまで歌で温まっていたはずの手が、もう氷みたいに冷えている。全身の血が一瞬で引いていくのが分かった。
——気のせいだと思うことにした。
鞄を拾って、教室を出る。廊下には誰もいなかった。東棟の階段を降りながら、俺は再びイヤホンをねじ込む。世界の音にまた蓋をする。階段の手すりに触れた指先は、まだ微かに震えていた。
でも、なぜだろう。
あの足音だけが、耳の奥にずっと残っていた。Cシャープの軽い響きが、教室のチャイムや通知音とは違って、どうしても振り落とせない。不快なのかと自分に問いかけて、答えが出なかった。不快なら、とっくに他の音に紛れて消えているはずだ。消えないということは——それが何を意味するのか、俺にはまだ分からなかった。