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声よ、溶けるまで

第3話 第3話「歌わなくても死なない三日」

第3話

第3話「歌わなくても死なない三日」

結局、東棟の空き教室には行かなかった。

 あれから三日が経っている。凛に見つかった以上、あの場所はもう安全じゃない。だから放課後は真っ直ぐ昇降口に向かって、坂道を下りて、家に帰る。それだけのことだ。歌わなくても死にはしない。イヤホンをして、音を遮断して、教室の隅で息を殺す日常に戻るだけ。三日前までと何も変わらない。

 ——はずだった。

 問題は、帰り道の動線だった。昇降口から校門までの最短ルートが、音楽室のある南棟の真下を通る。三階の窓はいつも開いていて、放課後の四時過ぎになると、あの三人の声が上から降ってくる。

 初日は早足で通り過ぎた。二日目はイヤホンの音量を上げた。三日目の今日、俺は立ち止まっている。立ち止まってしまっている。自分の足が言うことを聞かない。

 メゾの子がまた走っている。四分音符の頭を食って入るクセが直っていない。アルトの子は相変わらず声量が足りなくて、低音域でピッチが不安定になる。そして凛のソプラノ——まっすぐなのは変わらないけど、今日はどこか力んでいる。喉が締まっている。昨日より半音近く、サビの最高音がぶら下がっていた。

 三人とも、必死なんだろう。必死だから力む。力むから音が狂う。音が狂うから余計に力む。悪循環だ。俺の耳にはその螺旋がはっきり見えて、こめかみの奥がずきずきと痛んだ。

 帰ればいい。帰れ。お前には関係ない。

 四日目。五日目。

 俺は毎日、南棟の下で足を止めていた。もはや習慣になりかけている自分に呆れながら、それでも足が動かない。上から降ってくる三人の声を、イヤホンを外した片耳で拾って、脳内で勝手にスコアに起こしてしまう。どの小節でピッチが落ちるか、どこでブレスが足りなくなるか、全部分かる。分かってしまう。

 五日目の合唱は、特にひどかった。

 曲の中盤、転調の直前。メゾとアルトが同時にピッチを外した。半音。たった半音のずれなのに、和音の構造が根本から崩れて、不協和音が空気を裂いた。凛のソプラノだけがかろうじて正しい音程を保っていたけれど、土台が崩れた上に乗るメロディは酷く不安定で、聴いていて胸の奥が軋んだ。

 三人はそのまま歌い続けた。ずれたまま、崩れたまま、それでも声を止めなかった。

 六日目。

 放課後のチャイムが鳴って、俺はいつものように昇降口に向かっ——向かわなかった。足が南棟の階段を上っていた。二階。三階。音楽室は廊下の突き当たりにある。近づくにつれて三人の声が大きくなって、壁越しでも和音の隙間が全部聴こえた。

 頭の中で何かが沸騰していた。怒りとも苛立ちとも違う。もっと原始的な——耳が我慢できない、という体の叫びに近かった。六日間、毎日ずれた和音を聴かされ続けて、俺の鼓膜が限界を訴えている。直せ、と耳が言っている。あそこがずれている、そこが狂っている、なぜ誰も気づかない、なぜ直さない——

 音楽室の扉の前で立ち止まった。磨りガラスの向こうに人影が三つ見える。歌声がすぐそこで鳴っている。曲はこの一週間ずっと同じもので、俺はもう全パートの音程を暗記してしまっていた。

 転調の箇所に差しかかった。メゾが——やっぱり半音高い。

 気づいたときには、扉を開けていた。

「そこ、半音高い」

 声が出ていた。自分の声が。音楽室の空気を震わせて、三人の合唱をぴたりと止めた。静寂が落ちる。ピアノの上に広げられた楽譜の端が、開いた扉からの風でめくれた。

 三つの顔がこちらを向いていた。凛が目を見開いている。その隣の小柄な女子——たぶんメゾの子——が口を半開きにしたまま固まっている。もう一人、背の高いおとなしそうな女子が楽譜を胸に抱えて一歩後ずさった。

 俺は何をしている。

 後悔が一拍遅れてやってきた。心臓が喉元まで跳ね上がって、全身の血が顔に集まるのが分かった。逃げろ。今すぐ扉を閉めて逃げろ。でも足が張りついたように動かない。口が開いたまま閉じない。最悪だ。また、やってしまった。

「半音、高い?」

 メゾの子——柚木陽菜というらしい、凛がそう呼んでいたのを覚えている——が首を傾げた。怒ってはいない。困惑している。当然だ。いきなり知らない男が扉を開けて音程の指摘をしてきたら、誰だって困惑する。

「転調の直前、メゾのラインが四十六小節目でBに上がるところ。そこがCになってる」

 止まらなかった。口が勝手に動いている。耳が拾った情報を、脳がそのまま言語に変換して吐き出している。ブレーキが壊れていた。

「あと、アルトは四十八小節目のFシャープが半音下がってFナチュラルになってる。そこは楽譜通りシャープのはずだけど」

 背の高い女子——アルトの子——が楽譜に目を落として、それからゆっくりと顔を上げた。

「……ほんとだ。シャープ、見落としてた」

 小さな声だった。責められたと思っていない、純粋な驚きの声。俺は自分の言葉が刃物にならなかったことに、かすかに安堵した。でもまだ心臓がうるさい。逃げたい。逃げなきゃ。

「ていうか、楽譜見ないで分かるの?」

 陽菜が一歩近づいてきた。目がきらきらしている。好奇心。警戒じゃない。

「……耳がいいだけ」

「耳がいいって、そういうレベルの話じゃなくない?」

「じゃあ正しい音、聴かせてよ」

 陽菜がまっすぐ言った。挑発でも試しでもない、まったく裏のない声だった。響きの中に汚れがない。さっき歌っていたときのピッチの甘さとは矛盾するくらい、この子の喋り声はきれいなA4だった。

 聴かせてよ。

 その一言が、俺の足を止めた。逃げようとしていた体が、なぜか凍った。

 音楽室のグランドピアノが午後の光を浴びていた。窓から入る五月の風がカーテンを揺らして、譜面台の楽譜がパタパタと音を立てている。三人の視線が俺に集まっている。逃げ場がない。逃げ場がないのに、喉の奥で何かが震えている。歌いたい、と体が言っている。六日間、空き教室にも行けず、声を出すことを自分に禁じていた喉が、今ここで開け、と訴えている。

 四十六小節目。メゾのライン。正しくはB——

 声が出た。

 たった一小節。四つの音符。二秒にも満たないフレーズ。でも音楽室の空気が変わるのが分かった。コンクリートと木材の壁が音を受け止めて、空き教室とは比べものにならない豊かな残響を返してくる。グランドピアノの弦が共鳴してかすかに唸った。俺の声がこの部屋に合っている、と思った。いや、この部屋が俺の声を待っていた、みたいな——そんな大げさなことを考えてしまうくらい、響きが自然だった。

 音が消えた。

 残響が壁から返ってきて、ゆっくりと溶けていく。その数秒間、音楽室は完全に静まり返っていた。

 最初に動いたのは凛だった。

 右手で口元を押さえていた。目が赤くなっている。泣いてはいない——でも、泣く直前の、感情が溢れる寸前の顔をしていた。唇が震えているのが、指の隙間から見えた。

「……なんで」

 凛の声はかすれていた。

「なんで隠してたの、その声」

 答えられなかった。喉が詰まって、言葉が出てこない。代わりに陽菜が「うわ」と小さく呟いて、両手で自分の腕を抱えた。鳥肌が立っている。アルトの子は楽譜を抱えたまま、目を丸くして微動だにしなかった。

 俺は逃げるように視線を落とした。自分の上履きのつま先。リノリウムの床。ピアノの脚。どこを見ても三人の視線から逃れられない。心臓がうるさい。でもさっきまでの恐怖とは、少し違う音がしている。

「……帰る」

 それだけ言って、扉に向かった。今度は誰も道を塞がなかった。凛も、陽菜も、何も言わなかった。廊下に出て、扉を閉めて、階段を駆け下りた。昇降口で靴を履き替える手が震えていた。でも今度は——冷たさじゃなかった。指先が熱い。声を出した喉がまだ震えている。たった一小節のフレーズが体の奥に残響を残していて、鎖骨のあたりがじんじんする。

 校門を出て、坂道を下りながら、イヤホンをねじ込んだ。いつもの無音。いつもの防壁。

 でも耳の奥では、凛のかすれた声がリフレインしていた。

 ——なんで隠してたの、その声。

 答えは知っている。隠さなきゃいけなかったからだ。普通でいなきゃいけなかったからだ。あの耳のことを知られたら、また同じことが起きるからだ。

 なのに。

 あの一小節を歌ったとき、音楽室の空気が変わった瞬間。三人の目が変わった瞬間。あれは、小三の教室とは違った。「気持ち悪い」じゃなかった。凛の目に浮かんでいたのは嫌悪じゃなく、陽菜の鳥肌は拒絶じゃなかった。

 坂道の途中で足を止めた。夕方の空が茜色に染まっていて、校舎の影が長く伸びている。風が前髪を揺らした。背中の向こうの南棟三階から、また三人の声が聴こえてくる。さっきと同じ曲。四十六小節目——メゾのピッチが、ほんの少しだけ正しくなっている気がした。

 明日の放課後、俺の足はどこに向かうんだろう。

 まだ答えは出ない。ただ、喉の奥の振動だけが、帰り道をずっとついてきた。

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