Novelis
← 目次

凡才軍師、兵法で大国を退く

第2話 第2話

第2話

第2話

石の下の軋みは、一度では終わらなかった。

陸昭は指先を石の縁に這わせたまま、息を詰めた。燭の炎が、裂け目の向こうから吹き上がる風に横薙ぎに払われ、蝋が垂れて指の甲に落ちた。熱いはずの蝋が、冷たかった。それほどに、裂け目の奥から立ちのぼる空気は冷えていた。石と鉄錆、そして湿った土とは違う、焼けた鉛のような、金気を帯びた匂い。舌の奥に薄い苦みが張りつき、唾を飲むと喉の裏側までその苦みが降りていった。兵法書の第十二篇、末尾の一行を、陸昭は唇だけで読み返した。——「古の工兵、石を積みて城を成さず、石の下に機を隠す」。機、とは仕掛けの意だ。注釈者の誰もが比喩だと断じてきた、その一語だった。比喩——そう片付けてしまうには、いま掌に触れている石の継ぎ目は、あまりに整い過ぎていた。石工の鑿が一定の角度で落とされた痕が、指の腹に細かな段差となって伝わってくる。

二度目の軋みは、足元で鳴った。

石の継ぎ目から細い砂が、糸のように流れ落ちた。陸昭は膝立ちのまま後ろへ退こうとし、鎧の裾が裂け目の石に引っかかった。金具の先が石角に噛み、引けば引くほど深く食い込んでいく。その刹那、足裏の石が重心を失った。

「陸殿——!」

背後で老兵の声が走った。眠っていたはずの男が、何を感じ取ったのか、先に動いていた。だが間に合わなかった。

陸昭の右脚が踏んだ石は、下に支えを失っていた。胸の内側で、内臓が先に落ちる感覚があった。兵法書を抱え込んだ腕が、胸甲の縁を擦った。鎖帷子の環が喉元に食い込み、喉仏を一度、強く圧した。燭は手を離れ、炎を残したまま、暗がりへ先に落ちていった。炎が回転しながら遠ざかる——その紅い点が、闇の底でどこまで小さくなるかを、彼は数えようとした。一、二、三——数のあいだに、兵法書の背表紙の糸の感触や、今朝飲んだ湯の温度や、母の顔の輪郭までが、順序もなく頭の裏を流れた。死の手前に、人は不思議なものを見るのだと書物で読んだ覚えがあった。数え切る前に、体が落ちた。

落下は、思ったより短かった。

背を石屑の山に打ち、息が肺から叩き出された。首の後ろを鋭い角が掠め、鎖帷子の環がいくつか弾け飛んだ音がした。環の一つが頬に当たって弾ね、その衝撃だけが妙に鮮明に、意識の中央に残った。それから、頭上で大きな石材が落ちる重たい響き。陸昭は反射的に丸まった。石塵が口と鼻に詰まり、咳き込んだ拍子に、舌の先に苦い粉の味が残った。石灰の粉だ、と思った。崩れたばかりの石ではない。千年、積まれていた石の粉の味だった。その味の奥に、微かに、かつて誰かがここで火を焚いた煤の記憶が混じっている気がした。

遠く、砦の上のほうから老兵の罵声が降ってきた。

「生きておるか」 「……生きている」

喉が砂で裂けかけていた。陸昭は石屑の上に手をつき、落ちた燭を探した。掌の下で、崩れた欠片が角を立てて皮膚に食い込む。燭は少し先で、まだ炎を保って横たわっていた。奇跡に近かった。彼はそれを拾い上げ、鞘の柄で火を守るように囲んだ。囲った手の内側で、炎は蝋の芯を舐め直し、一度小さくなってからまた立ち上がった。その立ち上がり方が、なぜか人の呼吸に似ていると思った。

そして、燭を掲げた。

視界が、ひと息に開けた。

天井は思いのほか高かった。積石の梁が、三間の高さで弧を描き、その継ぎ目に蝙蝠の糞が黒く固まっていた。ただしその黒い斑も、ごく古いものらしく、触れれば埃になって崩れそうな乾き方をしている。床は石畳——ただし、ただの石畳ではない。正方の石材が縦横きちんと配置され、継ぎ目ごとに浅い溝が刻まれている。溝は一点へ向かって集まり、その先に、丸い石蓋が嵌まっていた。排水の仕組みだ、と陸昭は見て取った。籠城を想定した構造でなければ、床に溝は刻まれない。血を流すためか、水を流すためか——どちらであれ、長く人が詰めることを前提にした床だった。

燭の炎を、彼は奥へ進めた。

壁の一面に、黒く長いものが立てかけられていた。近づくにつれ、木と金具の合わさった形が、炎の輪郭のなかに浮かび上がった。弩——いや、弩にしては大きすぎる。全長は陸昭の背丈を超え、床に据える型の、据え置き弩だった。木部は歳月で黒く変じ、ところどころ白い筋が入っている。虫食いではなかった。漆だ。古い漆が、幾重にも塗り重ねられ、長い年月に少しずつ剥離した跡だった。弦はすでに朽ちて垂れ、金具にだけ、赤い錆が斑に残っていた。その錆の上に、燭の炎が映って、かつてこの金具が磨き上げられていた頃の鈍い輝きを、一瞬だけ甦らせた。

陸昭は燭をかざしたまま、その傍らに腰を落とした。

弩は、一台ではなかった。

燭の炎の及ぶ範囲に、同じ型の据え置き弩が、整然と六台並んでいた。さらに奥には、もう一列あるらしい。影の奥で、黒い梁のようなものが列を成している。間隔は均一で、角度もまた均一だった。敵の進入路に向かって、扇形にわずかずつ首を振るように据えられている。据えた者の計算が、床の石の配置にまで及んでいるのが分かった。兵法書では連弩と記される武具——ただし、書物の図版は一人で担げる手持ちのそれであって、この据え置き型は、文字の隅に一行、註釈として触れられているだけの、ほぼ伝説の武具だった。

指が、震えた。

この震えは、さきほど落下したときの震えとは、違っていた。

陸昭は弩の台座に触れた。冷たい。だが指を離したあと、指先に、暖かい痺れが残った。鉄は冷たい。だが、これを据えた者の手の温度が、まだどこかに残っているような錯覚だった。彼は自分の錯覚を自覚しながら、しかしその錯覚から離れられなかった。符同の首から昇った蒸気の温度と、この痺れは、どこかで繋がっていた。千年の隔たりを、指先一寸の皮膚が、条文ではなく体温として越えている——そのことに、息が浅くなった。

ふいに、背後で砂の流れる音がした。

陸昭は燭を庇い、振り向いた。

崩落のあとに出来た縦穴の、ちょうど光の届かぬ縁に、老兵が這いつくばって下りてきていた。刀傷の眉の、その下の瞳が、燭の炎を反射していた。息遣いが荒い。降りてくる途中でどこかを擦ったらしく、左の頬に新しい血が一筋、黒く光っていた。

「……こいつは、何だね」

老兵の声は、いつもの嗄れから一段低く落ちていた。

陸昭は答えなかった。答えよりも先に、弩の台座の傍らの、石の板に目を留めていた。

立方に近い石の面に、線が刻まれていた。

最初、それは傷に見えた。千年のあいだに石が割れた、自然の亀裂の模様に。だが燭の炎を近づけるにつれ、線は意味を帯びはじめた。線は直線の組み合わせで——山を示す線、谷を示す線、川を示す線。その上に、小さな四角が点々と置かれていた。軍の布陣を示す印だった。陸昭は息を止めた。息を止めたまま、指先が勝手に線の一本をなぞった。石の溝は細く、しかし迷いのない一息で刻まれていた。鑿を入れた者が、線を引きながら、すでに戦の全体を頭の中で一度動かしていたことが、その一本の溝だけで分かった。

これは、地図ではない。

戦術図だ。

しかも、兵法書の第五篇、「伏兵を谷に置く」の項——その挿絵と、石板の線の組み方が、ほとんど一致していた。ほとんど、というのは、石板の図のほうが、兵法書より明らかに精密だったからだ。谷の底に布陣する伏兵の数、斜面に据える弩の台数、敵の進入口からの距離——そのすべてが、数字とともに刻まれていた。兵法書では註釈で触れられるに留まる、据え置き弩の運用が、ここでは図と数で示されていた。数は、具体の歩数であり、具体の射程であり、具体の兵の頭数だった。抽象の条文ではなく、現場で鑿を握った者が、汗をかきながら刻んだ数だった。

兵法書の条文は、血を止めなかった。

だが——と、陸昭は石板の縁を指でなぞった。

——だが、この図は、条文ではない。運用だ。

燭の炎が、石板の隅で一度、強く揺れた。

壁の奥、崩落で顕れた暗がりのさらに奥から、同じ風がまた流れてきた。鉄錆と石灰の匂いに、もう一つ、微かな金気が混じっていた。青銅の、擦れ合う音。——いや、それは音ではなく、匂いの奥の気配だった。老兵が、喉の奥で唸った。

「……まだ、奥がある」

陸昭は石板から手を離した。掌に、冷えた線の痕が、わずかに残っている気がした。

炎を、奥へ向けた。

闇の底で、何かが低く、鈍く、光を返した。

この話はいかがでしたか?

↓ スクロールで次の話へ

第2話 - 凡才軍師、兵法で大国を退く | Novelis