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凡才軍師、兵法で大国を退く

第1話 第1話

第1話

第1話

永祚三年、九月初頭——燕山帝国の鉄騎が国境を越えて十七日目の朝、瑯琊北部の陣幕に、革と馬糞の匂いが淀んでいた。

陸昭は巻末の角が擦り切れた兵法書の綴じ目を、指の腹で押さえていた。二十三歳、名家陸氏の末席、初陣の軍議。列席の将たちは胡床に腰を下ろし、たれた甲冑のすそから泥が乾いた粉を落としている。

「——故に、伏撃は黒松嶺の東、斜面が三丈落ちる地点で仕掛けるべきかと」

地図の一点を指し示した陸昭の手に、武威将軍・鄭崇の視線は一瞬も留まらなかった。

「机上の童が、兵法書を朗誦しておるわ」

笑いが幕内を走った。鉄兜の内側で、誰かが舌打ちした。陸昭の掌に汗が滲み、紙の繊維がわずかに湿った。卓の端に置かれた酒甕から、酢を混ぜたような古い酒の匂いが立ち昇っている。誰かが指で卓面を鳴らした。貴家の青二才を見る目だった。陸昭は背筋に冷たいものが走るのを感じたが、声の震えだけは堪えた。

「将軍、地形を——」 「黙れ」

鄭崇が酒甕を卓に置いた音で、陸昭の言葉は断たれた。副官が立ち上がる。

「本隊は明朝、黒松嶺の峠道を正面から押し通す。燕山騎兵は長槍に弱い。教科書どおりにやる」

教科書——と陸昭は口のなかで反芻した。兵法書の第七篇、騎馬の機動に対する歩兵陣形。確かにそう書いてある。だが記されているのは平原での会戦であって、片側に切れ落ちる嶺道ではない。条文は文字でしかなく、地形は生きている。それを、どう読み分けるか。

陸昭は口を開こうとし、そして閉じた。同期の符同、童顔の若い将校が、こちらを見て小さく首を振っていた。黙れ、の意だった。符同の睫毛は長く、そこに幕内の灯が映って、まだ少年のような光を宿していた。陸昭はその瞳から目を逸らし、指の下の紙を強く押した。

幕が下ろされる刻、風向きが変わり、遠く北の方角から鉄の匂いが流れてきた。血と油と、燕山の鉄冑が擦れ合う匂いだ、と陸昭は思った。兵法書には、それをどう読むかが書いてあった。誰も読まなかっただけだ。

翌朝、卯の刻。

黒松嶺の峠道に、瑯琊軍二千が縦列で進み入った。先頭は武威将軍・鄭崇の旗本、中段に符同の率いる歩兵百、後尾に輜重。陸昭は軍師見習いの札を帯に挟まれ、中段の右翼に馬を与えられた。

馬上で彼は、北側の斜面の松の揺れ方を数えていた。

(風が、嶺の上から吹き下ろしている。……逆だ)

兵法書の黒い文字が、頭のなかで行を繰った。「兵、逆風に進むは、敵我が面を見ず」——逆風のときは進むな、視界が利かぬ、と。そう、書いてあった。梢から梢へ、風がひと息、ふた息と撫で下ろしていく。その度に松葉の裏側の白が翻り、斜面がまだらに光った。光の走る速さが、あまりに速い。鳥の影が一羽、斜面の上端から谷側へ抜けていった。鳴き声は、なかった。陸昭の掌の内で、手綱の革が汗を吸って重くなっていた。

松の梢が一斉にたわんだ瞬間、三丈上の岩陰から、鋭い音が走った。

矢ではなかった。石だった。

地響きが峠の床を叩き、落石に先陣が呑まれた。鄭崇の黒い旗が、泥を撥ね上げながら斜面下へ滑り落ちる。旗竿は途中で折れ、金糸の竜紋が泥に潜って見えなくなった。続いて、斜面を駆け下りる蹄の群——鉄甲の燕山騎兵。嶺道の両側から同時に。挟まれた瑯琊軍の縦列は、槍を構える猶予もなく、骨が折れるように屈折した。悲鳴は一つひとつが短かった。馬の嘶きのほうが長く尾を引き、そのあいだを、鉄と鉄がぶつかる澄んだ音が縫っていった。

陸昭の馬が棹立ちになり、彼は鞍から投げ出された。左肩から泥へ突っ込み、鎖帷子の環が肉に食い込んだ。口の中に鉄の味が広がる。泥は冷たくはなかった。昨日の日照で温まったままの、饐えた温さだった。藁と馬糞の臭いが鼻腔を塞ぐ。視界の端で、誰かの篭手が宙を舞った。その持ち主が誰だったのかは、もう分からない。耳の奥で、自分の脈だけが、他のあらゆる音を押しのけて鳴っていた。

顔だけ、どうにか上げた。

五間先で、符同が抜刀していた。童顔の将校は、馬を喪った同輩を庇うようにして立ち、燕山の長柄に向かって剣を振り上げた。兜の緒がゆるんで、首の白さが見えた。朝日がその白い皮膚をひと撫でした。昨夜、陣幕で首を振ってくれた、その同じ顎の線だった。

陸昭は声を出そうとした。喉が、風を通さなかった。舌の根が泥の味で凍っていた。

鉄の音が、空気を短く裂いた。

符同の首が、胴から離れた。

それは一度の、きれいな軌跡だった。胴は二歩だけ前に進んでから膝を折った。首はどこかに転がり、陸昭はそれを見なかった。代わりに、立ち上っていった湯気のようなものを見ていた。首の断面から昇る蒸気が、秋の朝気に溶けていく様を。人の体は、こんなにも温かかったのか、と頭の奥で誰かが呟いた。その声が自分のものだと気づくのに、数拍かかった。

時が、彼の内側で止まった。

陸昭は泥に顔を沈め、息を殺した。その手にはまだ兵法書があった。胸甲の内側に入れていたはずのそれが、落馬のはずみで泥の中に投げ出され、頁が半ば水を吸っていた。指はその綴じ目を、離すことができなかった。離せば、自分まで溶けてなくなる気がした。

逃げ延びたのは、七十三名だった。

二千の縦列のうち、生き延びた者の数を、陸昭は廃砦の石段に腰を下ろしながら頭で繰り返した。斜面の裏道を、半日の強行で北西へ退いた。追撃は途中で途絶えた——燕山は本隊の温存を優先したのだろう、と老兵の一人が呟いた。

廃砦は前王朝期の哨戒拠点で、石壁の半分は蔦に覆われ、井戸は干上がっていた。誰かが薪を組み、火が起きた。煙が湿った梁の隙間から抜けていく。薪の、焦げる前のやや甘い匂い。陸昭はそれを嗅ぎながら、掌の傷口に舌を当てた。鉄の味はまだ残っていた。鉄の味の奥に、符同の首から昇った蒸気の記憶が重なって、喉の奥で一度、嘔吐いた。何も出なかった。胃の腑が空のまま裏返るような感覚だけが、しばらく続いた。

兵法書は、火のそばで頁を開いていた。泥と血で、紙の繊維が波打っている。

陸昭はその文字を、一行、読んだ。

——「善く兵を用うる者は、士をして死なしめず」

薪が爆ぜた。火の粉が数寸、跳ね上がった。

陸昭の指が、頁を握りしめた。爪が紙の繊維を破って、掌に食い込むまで。

(……死んだのか、符同は)

それは問いではなかった。問いのかたちをした、体への確認だった。死んだ。確かに死んだ。彼の献策は、一度も通らなかった。条文は、血を止めなかった。

「陸殿」

声を掛けてきたのは、右の眉の上に古い刀傷のある老兵だった。歳は五十路、鎧の継ぎ目から覗く肌は、日に焼けて樹皮のようだった。

「兵法書、読めるんですかい」 「……読める」 「ふん。読めて、何になる」

老兵は火に向かって唾を吐いた。唾は薪の赤い面に落ちて、短く白い煙を上げた。

「俺たちの将は、読めない方が強い。あんたはそうじゃねえ。——読めて、通らねえ」

老兵はさらに一言、口の中で何かを噛むように続けた。

「通らねえ口を、持っちまった者が、一番きつい」

陸昭は答えなかった。答える言葉を、彼は持たなかった。老兵は黙って背を向け、火の反対側に転がって目を閉じた。すぐに低い鼾が始まった。戦場を十も二十も潜った男の、鉛のような眠りだった。

夜は深かった。陸昭は兵法書を閉じ、石壁に背をもたれさせた。爪は掌に食い込み、まだ離さなかった。条文は血を止めぬ——その一語だけが、頭蓋のなかで鈴のように鳴っていた。

遠く、砦の地下から、微かな風の音がした。

それは地面の下から吹き上げてくる、乾いた、古い風だった。湿気を含まない、石と鉄錆の匂い。生きた人間の吐息にはない、時間そのものが吐き出したような、冷えた匂いだった。

陸昭は火のそばを立ち、燭を一本取って、砦の奥へ歩いた。石壁の裂け目の向こうに、暗がりが広がっている。前王朝の哨戒拠点だと、老兵は言った。——だが、この石組みの様式は、それよりさらに古い。兵法書の第十二篇、古代工兵の石積の図——あれに、よく似ている。石の切り口の角度、継ぎ目に漆喰を使わぬ積み方、どれも図版の通りだった。

燭の炎が、裂け目に吸い込まれるように傾いた。炎は一度途切れかけ、それからまた、糸のように細く立ち直った。

陸昭は膝をつき、剥がれかけた石の一枚に、指を触れた。石の表面は、冬の刃のように冷たく、そして指先に、微かな震えを返してきた。

そのとき、石の下で、何かが鈍く軋んだ。

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