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凡才軍師、兵法で大国を退く

第3話 第3話

第3話

第3話

闇の底で鈍く光を返したのは、円い銅の盤だった。

陸昭が燭を一歩近づけると、炎の赤が盤面を撫で、黒い錆の下からごく薄く、金色の輝きがこぼれ出てきた。直径はほぼ尺の半ば、縁に鋸歯のような細かな刻み。中央には、針のように細い鉄片が一枚、軸の上で静かに揺れていた。陸昭は息を殺した。揺れは止まらない。燭を遠ざけても、手で風を遮っても、針は同じ向きを指して、わずかに震え続けた。

「羅盤……か」

老兵が喉の奥で呟いた。陸昭は頷きかけ、そして頷けなかった。書物で読んだ羅盤は、方位を示すだけのものだ。だがこの盤の縁には、方位のほかに、小さな字で風の名が刻まれていた。朔風、兌風、坎風——八つの風名が、八方位に割り振られている。風名の脇には季を示す小さな篆字が寄り添い、北の風と南の風とで、刻みの深さがわずかに違えてあった。指でなぞると、その深浅が指腹に微かな段差となって伝わり、爪の先に冷たい粉のような錆が残った。中央の針の脇には、さらに細い糸のような指針がもう一本あり、そちらはまた別の向きを示していた。方位と、風。二つの針が、互いに傾き合いながら、床の上で生きていた。

(……風を、読む盤か)

陸昭は膝をつき、燭を台座に置いた。盤の裏を返すと、裏面には一行、古い書体で文字が刻まれていた。擦り減って読みにくい。袖で塵を払うと、線が立ちのぼった。——「風、地に随い、戦、時に随う」。兵法書のどの篇にも、その一句はなかった。だが体の芯に、その一句が染み込んでいくのが分かった。朝、嶺道の松が翻ったあの速さ。あれを、もし数で読む術があったなら。符同の首は、落ちなかったか——。陸昭は爪で己の掌を押した。感傷は切り離せ、と兵法書の第一篇は言う。切り離せ、と繰り返して、彼は羅盤を布に包んだ。石板は、戦術図の刻まれた一片だけを、鑿のあとに沿って外した。他は、老兵と二人がかりでも、指先が白くなるほど押しても、動かなかった。

砦の上に戻ったのは、払暁だった。

七十三名の生き残りは、壁際に身を寄せ、浅い眠りと深い震えのあいだを往き来していた。起きている者の大半は、両手で膝を抱え、瞳だけ火に向けていた。誰も口を利かず、薪の爆ぜる音だけが砦の内側を占めていた。甲冑の泥が乾き、肘のあたりで粉になって落ちる。その音さえ聞こえるほどの、静けさだった。

陸昭は布の包みを石段の上に置いた。老兵——後に韓、という姓だけ知れた——が、寝ている者の肩を一人ずつ揺すって回った。鄭崇は落石の下に埋もれた。副官二人はどちらも戻らなかった。残った者のなかで最も位の高い者は、後尾の輜重を率いていた十騎長、蔡という若い将校だった。蔡は肩の骨を折っていた。添え木もなく、腕を布で吊っただけで、顔色は石灰に近かった。呼吸のたび、吊った布がわずかに上下した。

「陸殿。あんたが、軍議をまとめるしかない」

韓の声は、昨夜の火のそばで吐かれた嘲りからは変わっていた。変わったのは声の色というより、語尾の落ち方だった。通らねえ口を持った者の、その口を、今度は使わせる——という落ち方だった。陸昭は一度、兵法書に指を触れた。綴じ目は、まだ湿っていた。

生き残りを並べ直すのに、半刻を使った。徒歩兵、弓手、輜重の雑兵——混ざって倒れていた者を、兵種ごとに束ね直す。矢は残り百七十余、槍は折れたものを合わせて三十、弩は手持ちの小型が四張。食糧は二日分。水は井戸が涸れているため、各人が革袋に残す分のみ。陸昭はそれを石段の上で数え上げ、炭の欠片で砦の壁に数字を書いた。数が並ぶと、兵たちの瞳が、少しずつ数のほうへ吸い寄せられていった。抽象の恐怖が、具体の数に変わる瞬間だった。

「燕山の本隊は、いまどこにおる」

誰かが問うた。答えたのは、韓だった。

「黒松嶺の南で、補給を待っておる。二日は動かん」

「二日——」陸昭は炭を置いた。「二日で、我らは伏魔谷に下る」

その一語で、砦の内側の空気が、一度、硬く締まった。

「伏魔谷、だと」

肩を吊った蔡が、眉を寄せた。傷みで息が浅く、言葉を継ぐたびに、吊った布が小さく震える。

「北関へ退くのが筋だ。瑯琊本営の指図は、敗残の兵は北関に集結せよ、だ。——知っておろう、陸殿」

知っている、と陸昭は思った。帯の内側に、昨日の朝、鄭崇から渡された木簡がまだ挟まっている。本営の印が押された、正規の命令だった。兵法書の第三篇に曰く——「令は、将の重し」。命令は、将の背骨である。勝手に曲げる者は、勝っても罪を問われる。陸昭は、まだ軍師見習いの札しか帯に下げていない。その札で、三百里先の本営の印を、独断で上書きしようとしている。指先が、羅盤の布を掴んだまま、冷えていた。布越しに、銅の重みが腹の底へ沈んでいく。その重みは、本営の印の押された木簡の重みと、砦の内で眠る七十三の呼吸の重みとを、同じ秤の上で測っていた。

「北関の道は、一本だ」

陸昭は壁の数字の横に、炭で線を引いた。砦から北関まで、谷を一つ越え、峠を二つ越える、ほぼ直線の細道。

「我らの足で三日、燕山の軽騎で、二日と半刻」

蔡の瞳が、一度、揺れた。

「……追いつかれる、というのか」

「道が一本であれば、追う側は脇の捜索に兵を割かぬ。速い」

陸昭は線の横に、もう一本の線を引いた。西へ大きく迂回し、谷の口が狭く絞られた地点で、もう一度北へ折れる線。

「伏魔谷に下りれば、道は三本に割れる。追う側は、どの道かを見極めるまで、足が鈍る。半日は、稼げる」

「半日、足を稼いで、谷に下りて——それで、どうする」

「下りて、待ち伏せる」

砦の内側が、ひと息、静まり返った。誰かが咳き込んだ。韓が腕を組み直す。蔡の眉が、今度ははっきりと歪んだ。

「七十三名で、燕山に伏兵を仕掛けるというのか。陸殿、あんた、正気か」

「七十三名では、仕掛けぬ」

陸昭は布の包みを、壁の前に置いた。銅の羅盤と、石板の一片。燭の炎に、盤の金が薄く輝き、石板の溝がまだらに深く、浅く、影を刻んだ。

「地下に、据え置きの連弩がある。六台——確認できた範囲で。石板の図の通りに据え直せば、谷の入口を、閉じられる」

蔡が息を呑んだ。韓は、呑まなかった。老兵の瞳は、羅盤の金を見つめたまま、瞬きを忘れていた。

「……軍師見習いの独断で、本営の令を曲げるか」

蔡の声は、細く、しかし鋭かった。吊った布の下で、折れた肩の骨が、痛みに合わせて小さく鳴っている気がした。

「曲げる」

陸昭は答えた。答えてから、己の声が、昨日の自分の声とは違うことに気づいた。

「曲げる。罪は、戦後に受ける。今はただ、七十三名を、二日後に北関の壁の内に、生きて入れる。それだけを言う」

蔡は、答えなかった。吊り布の上で拳を握り、その握った拳の震えを、押し殺すように腕を固めた。韓が、一歩前に出た。

「——陸先生」

老兵は、そう呼んだ。昨夜、通らねえ口、と吐き捨てたのと同じ喉から、その二字が、確かな形で落ちた。

「この爺の鑓を、先頭に置いてくれ」

払暁を半刻過ぎて、七十三名は砦の裏手から斜面を下り始めた。陸昭は最後尾に残った。布に包んだ羅盤を胸に、石板の一片を背嚢に括りつけ、燭の尻を石壁に立てて、地下の穴の口を一度振り返る。残してきた連弩五台、戦術図の大半、そして千年前にここに詰めていた誰かの手の温度——すべてを、今は砦の石組みに預ける。いずれ戻る、と口の中で呟いた。呟いた声が、鎖帷子の環の隙間で、細く鳴った。

斜面を下り切ったところで、蔡が馬を寄せてきた。肩の布は、まだ黒く滲んでいる。

「陸殿。本営には、あんたの独断と、私が書く」

「——書いてくれ」

「ただし」蔡は、陸昭の顔を見なかった。遥か南、燕山の補給陣のある方角の、朝靄の向こうを見ていた。「伏魔谷で仕損じたなら——私はあんたを、自らの手で斬る」

陸昭は頷いた。頷いたあと、ふいに、胸の内で風の名が一つ、響いた。銅盤の縁に刻まれていた、朔風——北の風。北から吹き下ろす風は、谷の口で、どう転ぶか。

遠く、燕山本隊の補給を告げる、鈍い角笛の音が、南の稜線を越えて、朝靄の中へ落ちてきた。

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