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泥濘の孤児と鋼の騎士団長

第2話 第2話

第2話

第2話

あの日から三日が経っても、灰青色の瞳は消えてくれなかった。

朝の残飯漁りのとき、水溜まりに映る自分の顔を見て思い出す。夜、藁の上で目を閉じると瞼の裏に浮かぶ。追い払おうとすればするほど、小骨は深く喉に食い込んだ。

馬鹿げている。私はいつもの日々に戻るだけだ。パン屋の裏口、教会の井戸、軒下の藁。それが私の世界で、それ以外の場所に私の居場所はない。閲兵式の広場も、銀の鎧も、あの人の瞳も——全部、日向の出来事だ。

その日は朝から曇っていた。灰色の雲が低く垂れ込めて、裏路地はいっそう薄暗い。パン屋の籠が空だったから、少し足を伸ばして市場の裏手に向かった。青果商の荷解きのあと、潰れた果物や傷んだ野菜が木箱の脇に捨てられることがある。それを拾うのは盗みではない。捨てられたものを拾っているだけだ。少なくとも、私はそう思っていた。

市場の裏手は、表の賑わいが嘘のように静かだった。石壁に挟まれた狭い通路に、木箱がいくつか積み上げられている。どこかで荷車が軋む音がして、腐りかけの果実の甘ったるい匂いが鼻を突いた。その陰にしゃがみ込んで、傷んだ林檎を外套の中に入れたときだった。

「おい、見ろよ。鼠がいる」

声が降ってきた。振り向くと、路地の入り口に三人の少年が立っていた。仕立ての良い上衣、磨かれた革靴、腰に下げた細身の短剣。貴族の子弟だと一目で分かった。先頭に立つ赤毛の少年は、私を見下ろして薄く笑っていた。年は私と同じくらいか、少し上だろう。

「やっぱりこいつだ。市場で財布を掏ったって店主が騒いでた孤児」

掏っていない。私は財布など触ってもいない。でも声が出なかった。彼らの目が、もう答えを決めている目だったから。

「ち、違います。私は——」

「違う? じゃあその外套の中に隠してるのは何だ?」

赤毛の少年が顎をしゃくった。両脇の二人が、じりと距離を詰めてくる。革靴が湿った石畳を踏むたび、乾いた音が壁に跳ね返った。私は後ずさった。背中が石壁にぶつかった。冷たく、硬い。壁の湿り気が外套を通して肌に染みた。逃げ道が塞がれていくのが分かった。

「盗人の孤児が。身の程を知れよ」

赤毛の少年が私の外套の襟を掴んだ。引き寄せられ、石壁に押しつけられる。後頭部に鈍い痛みが走った。林檎が外套の中から転がり落ちて、湿った石畳の上で止まった。潰れかけの、誰にも要らない林檎。それを盗んだと言われている。

「やめ——」

「黙れ」

短い言葉で、私の声は消された。両腕を掴まれ、壁に縫い止められる。指先が外套の中を探る感触があった。何も出てこないと分かると、赤毛の少年の目が苛立ちに濁った。

「どうせどこかに隠してるんだろう。面倒だな、衛兵を呼ぶか」

衛兵。その言葉で、血の気が引いた。孤児が貴族の子弟に盗みを訴えられたら、どうなるか。裏路地の常識として知っている。誰も孤児の言葉など信じない。牢に入れられるか、王都から追い出されるか。どちらにしても、教会の軒下には戻れなくなる。

抵抗しなければ。でも、三人を相手に何ができる。叫んでも、この裏路地に助けてくれる人はいない。

そのとき——背後の空気が、変わった。

三日前にも感じた、あの感覚だった。音はなかった。足音すら聞こえなかった。ただ、路地の入り口の光が翳り、空気の温度が一度だけ下がったような気がした。

赤毛の少年の顔が、凍った。

私の襟を掴んでいた手から、力が抜けていく。両脇の二人が、弾かれたように後ろを振り向いた。そして——蒼白になった。文字通り、顔から血の色が消えた。

私はゆっくりと、彼らの視線の先を追った。

路地の入り口に、男が立っていた。

質素な外套。腰の剣。灰色がかった青い瞳。

ヴェルナーだった。

彼は何も言わなかった。剣にも手をかけていない。ただ、そこに立っていた。それだけだった。それだけで、三人の少年は石のように固まっていた。

沈黙が、裏路地を満たした。水滴が壁を伝い落ちる音が、やけに大きく聞こえた。

赤毛の少年が、唇を震わせた。何か言おうとして、言葉にならなかった。やがて彼は私の襟から手を離し、二人の仲間を目で促した。三人は壁に張りつくようにして、ヴェルナーの脇をすり抜け、足音も立てずに逃げていった。

路地に、二人だけが残された。

私は壁に背をつけたまま、動けなかった。膝が笑っている。心臓がまだ暴れていて、呼吸がうまくできない。目の前の男を見上げることが、怖かった。三日前、群衆の中で視線が重なったときと同じ恐怖。けれど今度は逃げ場がない。

ヴェルナーが、一歩近づいた。

反射的に身を竦めた私を、彼は見下ろした。その視線には、憐れみも、興味も、読み取れなかった。ただ静かに、何かを確かめるように私を見ていた。

「手を」

低い声だった。短く、硬く、けれどどこか穏やかな声。

意味が分からず、私は彼の顔を見返した。「え」とも「は」ともつかない音が喉から漏れた。

「手を出せ」

もう一度、同じ言葉。今度は少しだけ柔らかかった。

従うしかなかった。震える手を、おずおずと差し出す。掌を上に向けたとき、自分の手がどれほど汚れているかに初めて気づいた。泥と垢がこびりつき、爪の間は黒ずんでいる。恥ずかしさで手を引っ込めようとしたが、ヴェルナーは構わず私の指先を取った。

彼の手は大きかった。乾いていて、温かかった。剣を握り続けてきた者の手だと、触れた瞬間に分かった。指の腹に刻まれた硬い感触が、私の胼胝とは違う種類の労働を語っていた。その手が、私の掌をそっと広げる。指の腹が、私の掌の付け根をなぞった。

——胼胝を、見ている。

教会の薪割りで出来た胼胝。斧の柄を握り続けて、皮膚が硬く盛り上がった場所。それは孤児の労働の痕跡であり、私にとっては恥ずかしいものでしかなかった。

けれどヴェルナーの目は、違うものを見ていた。

「——筋がいい」

その言葉が、すぐには理解できなかった。

筋がいい。それは、褒め言葉なのだろうか。この胼胝だらけの汚い手を見て、この人は何を言っているのだろう。

ヴェルナーは私の手を離すと、外套の内側から何かを取り出した。四つに折りたたまれた紙片。広げると、そこには建物の見取り図のようなものと、道筋を示す線が描かれていた。

地図だった。

「騎士団の訓練場だ」

彼はそれだけ言って、紙片を私の手に押しつけた。困惑する私を一瞥し、踵を返す。外套の裾が風に揺れ、路地の明るい出口に向かって歩いていく。

「あ、あの——」

呼び止めようとした。なぜ私に。何の意味があるのか。聞きたいことが喉元まで込み上げたが、言葉の形にならなかった。

ヴェルナーは振り返らなかった。その背中が光の中に溶けていき、やがて路地には私だけが残された。

手の中の紙片を見下ろした。粗い紙に、簡素だが正確な線で描かれた地図。騎士団の訓練場。貴族の子弟が剣を学ぶ場所。私のような孤児が足を踏み入れることなど、考えたこともない場所。

なぜ。

疑問だけが渦を巻いて、答えは見つからなかった。「筋がいい」という言葉が、耳の奥で繰り返される。この胼胝を、あの人は剣の才として見たのだろうか。薪を割るためだけに硬くなった掌を、別の何かに使えると——。

地図を折りたたみ、外套の一番奥にしまい込んだ。胸に近い場所。心臓の鼓動が、紙越しに伝わるような気がした。

行くべきではない。そんなことは分かっていた。孤児が騎士団の訓練場に現れたところで、追い返されるに決まっている。あの人がくれた地図だって、気まぐれかもしれない。三日前の視線と同じで、私が勝手に意味を見出しているだけかもしれない。

石畳に転がった林檎を拾い上げた。片側が潰れて、茶色く変色している。それでも、齧れば果汁が口に広がった。甘くはなかった。酸味が舌の奥を刺し、渋みがあとを追った。けれど、喉を通った。空っぽの胃に落ちていく冷たさを、腹の底で感じた。

教会に戻る道すがら、何度も外套の上から胸元を押さえた。紙片の感触を確かめるように。あるいは、心臓の音を押し留めるように。

行かない。行くはずがない。

そう思いながら、指先はまだ、あの人の手の温もりを覚えていた。

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