第1話
第1話
泥水は、いつも不意にやってくる。
馬車の車輪が石畳の水溜まりを弾いたとき、私はもう避けることをやめていた。冷たい飛沫が頬を打ち、襤褸の裾を黒く染める。御者台の男がちらりとこちらを見たが、その目には苛立ちすらなかった。道端の石ころを見るのと同じ目。私はただ頭を下げた。そうすることしか知らなかったから。
王都アルデンの裏路地は、朝が来ても薄暗い。両側の建物が空を狭く切り取って、日差しはほんの一筋だけ、石畳の隙間に落ちる。その隙間を縫うようにして、私は今日も残飯を探していた。パン屋の裏口に置かれる籠の中身が入れ替わる時刻を、私は正確に知っている。焦げた端切れや、形の崩れた菓子パンの欠片。それが私の朝餉だった。
指先がかじかんでいる。まだ冬の名残が空気の底に沈んでいて、吐く息がうっすらと白い。壁に背を預けて、硬くなったパンの耳を齧った。喉を通るとき、乾いた粉が気管に触れて咳が出た。水が欲しい。でも教会の井戸は、もう少し待たないと修道女たちの水汲みが終わらない。
教会の軒下——それが私の唯一の居場所だった。聖エルミナ教会の東側、人目につかない裏手の庇の下に、私は藁を敷いて眠る。雨の日は壁を伝う水滴が耳元で鳴り続け、冬の夜は指先の感覚がなくなるまで身体を丸めた。それでも追い出されないだけ、ここは優しい場所だった。
名前はリーゼ。姓はない。物心ついたとき、私はもうこの路地にいた。どこから来たのかも、誰に生まれたのかも知らない。教会の神父さまが「リーゼ」と呼ぶから、それが私の名前になった。それだけのことだ。
誰の目にも留まらず、誰にも必要とされない。そういう存在として、私は十五年を生きてきた。
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その日、王都の空気はいつもと違っていた。
表通りに人が溢れている。裏路地から覗くと、大通りの両脇に人垣ができていて、子供を肩車した父親や、背伸びをする娘たちの姿が見えた。花売りの老婆が「今日は閲兵式だよ、嬢ちゃん」と教えてくれた。嬢ちゃん、という呼び方がくすぐったかった。私をそう呼ぶ人は少ない。
「毎年この時期さね。お偉い騎士さまたちが広場を練り歩くんだよ」
老婆は皺だらけの手で花束を整えながら、目を細めた。紫陽花に似た青い花が籠いっぱいに積まれている。その花弁の色が、どこか空の青さを凝縮したように鮮やかで、思わず見入ってしまった。
「ほら、ぼうっとしてないで、行っておいで。一年に一度の見世物だから」
老婆に背中を押されるように、私は人の流れに足を踏み入れた。
騎士団の閲兵式。年に一度、王都の中央広場で行われる、王国騎士団の行進と演武の儀式。貴族にとっては社交の場であり、市民にとっては数少ない娯楽のひとつだという。私にとっては、どちらでもなかった。ただ、人がこれだけ集まるなら、落とし物や食べ残しが期待できる。それだけの理由で、私は群衆の端に紛れ込んだ。
広場に近づくにつれて、人の密度が増した。香水の匂い、汗の匂い、焼き菓子の甘い匂い。色とりどりの衣装が視界を埋め尽くす。私の薄汚れた外套は、その中で明らかに異質だった。すれ違う人が顔をしかめるのが見えたが、群衆の厚みがかえって私を隠してくれた。押し合う肩と肩の隙間に身を滑り込ませるたび、誰かの体温が外套越しに伝わってきた。人の温もりに触れるのは久しぶりで、それが少しだけ落ち着かなかった。
角笛が鳴った。
低く、腹の底を揺さぶるような音だった。群衆が一斉に静まり、視線が広場の正面に集まる。私も、人と人の隙間から首を伸ばした。
銀の鎧が陽光を弾いている。整然と並んだ騎士たちの列が、広場の石畳を踏んで進んでくる。蹄鉄の音が規則正しく響き、風にたなびく旗には王家の紋章が描かれていた。群衆がどよめく。歓声が上がり、花が投げ込まれ、若い娘たちが手を振った。
私はその中の一人ひとりを目で追った。きれいだと思った。あの人たちの住む世界と、私の住む世界には、同じ空の下にいながら途方もない距離がある。そんなことは分かっていた。分かっていて、それでも目を離せなかった。陽の光を跳ね返す銀の胸甲。磨き上げられた剣の柄。風を孕んで翻るマント。どれもこれも、裏路地の薄闇とは別の世界の欠片だった。
そのとき、隊列の先頭が入れ替わった。
空気が、変わった。
それは比喩ではなく、本当にそう感じたのだ。群衆のざわめきが一瞬引いて、まるで広場全体が息を呑んだような静寂が落ちた。先頭に立った男は、他の騎士たちとは明らかに何かが違っていた。
鎧は質素だった。装飾も目立たない。けれど纏っている気配が、重い。大きな身体というわけではない。むしろ無駄のない、研ぎ澄まされた輪郭をしている。それなのに、周囲の空間ごと支配しているような——そんな威圧感があった。馬上にあるその姿勢には微塵の揺らぎもなく、手綱を握る指先すら、鋼の意志で編まれているように見えた。
「ヴェルナー様だ」と、隣の男が呟いた。
「騎士団長……」と、別の声が続く。
周囲がにわかにざわめいた。前にいた女が隣の女の袖を掴んで引き寄せ、何か早口で囁いている。父親に肩車された子供が、小さな手で騎士団長を指差した。誰もが彼を見ていた。この広場にいる何千という人間の視線が、たった一人の男に吸い寄せられていた。
ヴェルナー。王国最強と囁かれる騎士団長。その名前は、裏路地の孤児にさえ届いていた。平民から身を立て、騎士団の頂点に上り詰めた男。けれど噂で知ることと、実際にその存在を目の当たりにすることは、まるで違った。
彼の目は広場を静かに見渡していた。群衆を見ているのか、その先の何かを見ているのか分からない、深い色をした瞳。灰色がかった青——冬の夜明け前の空のような色だった。
その視線が、動いた。
ゆっくりと群衆の上を滑り、そして——私のいる場所で、止まった。
一瞬だった。ほんの一瞬、視線が重なった。呼吸が詰まった。見られている。この私が、あの人の目に映っている。その感覚が、氷の針のように胸を刺した。
周囲の喧騒が遠くなった。群衆の声も、蹄鉄の音も、風に揺れる旗の音も、すべてが水の底に沈んだように輪郭を失った。あるのはただ、あの灰青色の瞳だけだった。何を見ているのだろう。何を思っているのだろう。こんな群衆の端にいる薄汚れた孤児に、一体何を——。
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私は反射的に目を逸らした。
身体が勝手に動いていた。視線を落とし、群衆の中にさらに身を縮めた。心臓が早鐘を打っている。なぜこんなに怯えているのか、自分でも分からなかった。
見られてはいけない。
その思いだけが、身体の奥から湧き上がってきた。私のような存在は、あの人たちの目に映るべきではない。路地裏の影は影のまま、日向に触れてはいけない。それは誰かに教わったことではなく、十五年の日々が骨に染み込ませた本能だった。
顔を上げられないまま、私は群衆の隙間を縫って後ろに下がった。肩がぶつかり、舌打ちが聞こえた。構わず歩いた。広場の喧騒が少しずつ遠のき、見慣れた裏路地の薄暗さが私を迎え入れる。湿った石壁の匂いが鼻腔を満たして、ようやく自分の世界に戻ってきたのだと感じた。壁に背を預けて、ようやく息をついた。
あれは、気のせいだったのだろう。
あの人が私を見るはずがない。何百何千という群衆の中の、薄汚れた孤児の一人。目に留まるわけがない。きっと視線の先にいた誰か別の人を見ていたのだ。そう自分に言い聞かせた。
でも、手が震えていた。
あの瞳の色が、まだ網膜の裏に残っている。冬の夜明け前の空。凍えるほど冷たいのに、どこか透き通った光を含んだ色。あの目で見られたとき、私は初めて、自分がここに「いる」のだと気づいてしまった。
それは怖いことだった。
存在しないものには、何も起こらない。傷つくことも、失うこともない。裏路地の影である限り、私は安全だった。けれど、誰かの目に映るということは——。
教会の軒下に戻り、藁の上に座り込んだ。膝を抱えて、広場の方角をじっと見つめた。角笛の余韻がまだかすかに風に乗って届いてくる。閲兵式は続いているのだろう。あの人は今も、あの場所に立っているのだろう。
私とは何の関わりもない人。何の接点も生まれるはずのない人。
それなのに、あの一瞬の視線が、喉に刺さった小骨のように消えてくれなかった。