第3話
第3話
眠れなかった。
藁の上に横たわり、目を閉じても、意識は冴えたままだった。外套の内側に手を差し入れると、紙片の角が指先に触れる。まだある。夢ではなかったと確かめて、また手を引く。それを何度繰り返しただろう。教会の鐘が深夜の二つを告げ、三つを告げ、やがて四つの鐘が霧の中で鳴った。その度に私は寝返りを打ち、紙片に触れ、引っ込めた。
地図を広げてみたいという衝動と、広げたら最後、もう元には戻れないという予感が、胸の中で交互に脈打っていた。
あの人の手の温もりが、まだ掌に残っている。乾いて、硬くて、けれど確かに温かかった指先。「筋がいい」という短い言葉。それが何を意味するのか、考えれば考えるほど分からなくなった。
夜明けの気配が、軒下の闇をわずかに薄めた。鳥の声はまだない。ただ空気の色が変わり始めていた。灰色の中に、ほんの一刷毛だけ、淡い光が混じる。冬の名残を引きずった朝は、いつも静かにやってくる。
私は身を起こし、藁の屑を外套から払った。眠れないまま迎えた朝は、身体の芯に鈍い重さを残す。それでも腹は減っていた。空腹だけは、どんな夜を過ごしても律儀にやってくる。
井戸の水を掌に受けて顔を洗い、冷たさで少しだけ頭が澄んだとき、礼拝堂の扉が軋んで開いた。
「リーゼ。こんな早くからどうした」
神父さまだった。白髪交じりの髪を後ろに撫でつけ、質素な法衣の襟元を正しながら、目元の皺を深くして私を見た。この人は私が物心ついた頃からここにいて、名前をくれた人だ。厳格だが、冬の夜に毛布を一枚多く出してくれるような、そういう優しさを持っている。
「神父さま。少し、お聞きしたいことが」
「中に入りなさい。冷える」
礼拝堂の中は、外よりもほんの少しだけ暖かかった。蝋燭の明かりが祭壇の聖像を柔らかく照らし、石壁に揺れる影を落としている。長椅子の端に腰を下ろすと、木の冷たさが腿の裏に沁みた。
神父さまは向かいに座り、静かに待った。この人はいつもそうだ。急かさない。私が言葉を見つけるまで、黙って待っていてくれる。
「あの——騎士団の訓練場のことを、ご存知ですか」
口にした瞬間、声が震えていることに気づいた。神父さまの眉が、かすかに動いた。
「知っている。貴族の子弟が騎士の道を学ぶ場所だ」
「もし——孤児が、そこに行ったら」
沈黙が落ちた。蝋燭の芯が小さく弾ける音がして、影が一瞬歪んだ。神父さまの目が、穏やかさの奥に硬い光を帯びた。
「リーゼ」
名前を呼ぶ声が、低かった。叱責ではない。けれど、優しくもなかった。
「孤児が騎士団に関わるものではない」
「でも——」
「聞きなさい」
神父さまは膝の上で指を組み、祭壇の聖像に一度目をやってから、私に向き直った。
「お前がどこで何を見聞きしたか、私は問わない。だが、あの場所はお前のような子供が足を踏み入れる場所ではないのだ。貴族の世界には貴族の秩序がある。その中に孤児が入れば、傷つくのはお前だ」
その言葉に嘘はなかった。神父さまは私を守ろうとしている。裏路地の外には危険しかないと、十五年の経験が教えているのだろう。この人自身もまた、この教会の外に出ることなく歳を重ねてきた人だった。
「分かりました」
私はそう答えた。答えるしかなかった。神父さまの言うことは正しい。孤児が騎士団に関わるな。まったくその通りだ。身の程を知れ。裏路地の三人の貴族の子弟と同じことを、もっと穏やかな言葉で言っている。
礼拝堂を出た。曇り空の下、教会の裏手はいつもと変わらない景色だった。湿った石壁、苔むした井戸の縁、藁を敷いた軒下の寝床。ここが私の世界だ。ここに留まっていれば、何も変わらない代わりに、何も失わない。
外套の上から、胸元を押さえた。紙片の感触。
——行かない。行くはずがない。
昨夜もそう思った。一昨日もそう思った。それなのに、なぜ足が動いているのだろう。
気がつくと、私は裏路地を抜けていた。表通りの人波に紛れ、角を曲がり、見知らぬ通りに出た。地図は広げていない。広げなくても、一度目にした道筋が記憶の底に刻まれていた。石畳の幅が広がり、建物の背が高くなり、壁の色が薄汚れた灰色から淡い砂岩の色に変わっていく。空気の匂いも違った。裏路地の湿った腐臭ではなく、乾いた土と鉄の匂い。
足は止まらなかった。頭では分かっている。行くべきではない。孤児が騎士団に関わるな。神父さまの声が耳の奥で繰り返される。それでも、足が止まらない。
胸の奥で、あの人の声がした。「筋がいい」。短い三文字が、神父さまの正論をそっと押しのけた。正しさではなく、温もりの記憶が、私の足を動かしていた。
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訓練場の門は、想像していたよりも質素だった。
石造りの柱に鉄格子の門扉。その向こうに、広い中庭と長い平屋の建物が見える。木剣を打ち合う乾いた音が、門の外まで届いていた。掛け声と、時折混じる笑い声。生きている場所の音だった。
門の前で、私は立ち尽くした。
一歩が、踏み出せない。ここまで来た足が、最後の一歩で凍りついた。門の内側と外側の間には、目には見えないが確かに存在する線がある。それを越えたら、もう裏路地の影には戻れない。存在しないものでいることも、傷つかずにいることもできなくなる。
どれくらいそうしていたのだろう。門の横の詰め所から、一人の老兵が顔を出した。白髪に深い皺を刻んだ顔。片目を覆う革の眼帯。残った方の目が、鋭く私を捉えた。
「何だ、小娘。物乞いなら裏に回れ」
声は粗かったが、追い払うような険しさはなかった。門前に立ち尽くす孤児など、珍しくもないのかもしれない。
「あ、あの——」
私は外套の内側から、四つ折りの紙片を取り出した。手が震えていた。広げて差し出すと、老兵の眉が動いた。残された片方の目が見開かれ、地図の上を往復し、それから私の顔をまじまじと見た。
「……団長の紹介状持ちか。珍しい」
紹介状。そうか、これはただの地図ではなかったのだ。ヴェルナーがくれたこの紙片は、訓練場への通行を許す証だった。あの人は最初から、私がここに来ることを見越していた。
老兵はしばらく私を値踏みするように眺めてから、鉄格子の門を押し開けた。蝶番が軋む重い音が、中庭に響いた。
「入れ。ただし、中で何があっても知らんぞ」
一歩を踏み出した。門の敷居を越えた瞬間、足の裏に伝わる石畳の感触が変わった気がした。同じ石なのに、裏路地とは違う硬さで、私の足を受け止めた。
中庭は広かった。砂を敷き詰めた訓練区画がいくつも区切られ、それぞれで訓練生たちが木剣を振っている。整った身なりの若者たち。磨かれた革の防具、手入れの行き届いた訓練着。誰もが堂々と胸を張り、自分がここにいることに一片の疑いも持っていない顔をしていた。
私が中庭に足を踏み入れた瞬間、最も近い区画にいた訓練生の一人が動きを止めた。それにつられるように、隣の者も、その隣の者も。まるで波紋のように、視線がこちらに集まっていく。
木剣の打ち合う音が、ひとつ、またひとつと止んでいった。
静寂の中に、私は立っていた。薄汚れた外套。泥のこびりついた裾。擦り切れた靴。ここにいるすべての者と、私は何もかもが違っていた。
彼らの目が刺さった。憐れみではない。嫌悪でもない。もっと冷たい何か——異物を見つけたときの、あの目だ。腐った果実が食卓に紛れ込んでいるのを見つけたような。ここにあるべきでないものが、なぜここにあるのか、という問いを含んだ眼差し。
呼吸が浅くなった。逃げ出したかった。踵を返して門をくぐり、裏路地の薄闇に駆け戻りたかった。
けれど、足は動かなかった。今度は恐怖で止まったのではない。外套の内側で、紙片を握りしめた掌が、じんわりと熱を持っていた。あの人がくれた紙。あの人の手の温もりが移ったような気がする紙。
ここに来たのは、あの人がそうしろと言ったからではない。
私が、来たかったから来たのだ。
視線の刃の中で、私は前を向いた。膝は震えていた。心臓は喉元まで跳ね上がっていた。それでも、目は逸らさなかった。あの日、広場で反射的に視線を逸らした自分とは、ほんの少しだけ違う自分が、ここに立っていた。
中庭の奥から、教官らしき壮年の男がこちらに歩いてくる。その背後で、訓練生たちのひそひそ声が、乾いた風に乗って途切れ途切れに届いた。
——孤児。
——なぜあんなのが。
——団長の紹介だって。
その言葉のひとつひとつが、小石のように肌を打った。痛かった。でも、致命傷ではなかった。裏路地で三人の貴族の子弟に壁に押しつけられたときの方が、ずっと怖かった。
教官が目の前に立った。日に焼けた顔に、感情の読めない目。私を上から下まで一瞥し、それから老兵の方を見た。老兵が小さく頷いた。
「名前は」
「——リーゼ」
「姓は」
沈黙。教官の目が、ほんのわずかに細まった。
「……いい。ついてこい」
教官の背中を追って中庭を横切るとき、訓練生たちの視線が肌に纏わりついた。一歩ごとに重くなるその視線の中を、私は歩いた。紙片を握る手だけが、まだ震えていた。