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影の郵便局と秘密の手紙

第11話 第11話「騎士団の内紛」

第11話

第11話「騎士団の内紛」

# 第11話「騎士団の内紛」

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 ユリアン様の手紙の筆跡が、微かに乱れ始めたのに気づいたのは、告白から一週間後のことだった。  普段のユリアン様の字は、定規で引いたように整っている。一文字一文字が等間隔で、筆圧も均一。騎士団の文書を書き慣れた人間の、正確で美しい字だ。けれどその週届いた手紙は、行末がわずかに右に流れていた。「す」の字のはらいが短く切れ、「の」の結びが潰れている。  他の誰が見ても気づかない変化だろう。でも三ヶ月以上、毎週の手紙を穴が空くほど読んできた私には、それが「何かがあった」ことの確かな証拠だった。  手紙の内容は、いつも通りの穏やかなものだった。最近読んだ詩集の一節——「春の風は秋を知らない。だから真っ直ぐに吹ける」。庭園のタイムが蕾をつけ始めたこと。来週の水曜日に会えることへの楽しみ。嵐の夜のことには一言も触れていない。何一つ異常はない。内容は。  けれど筆跡は嘘をつかない。声は繕えても、手の動きまでは制御しきれない。ユリアン様は手紙の中身を慎重に選んでいる。私を心配させまいとしている。でも手が、正直な手が、「何かがあった」と告げている。  私は手紙の文字を一つずつ指でなぞった。この乱れ方は、急いで書いたときのものではない。時間はかけている。丁寧に書こうとしている。けれど手が言うことを聞かなかった。疲労か、不安か、怒りか。何かが、ペンを持つ手を揺らしている。

 水曜日。いつもの路地裏で待ち合わせた。  初夏の陽射しが路地の入り口から差し込んで、石壁に白い光を刻んでいる。壁の蔦が若い葉を広げて、濃い緑の影を作っていた。風は温かく、空気の中に遠くの花の匂いが混ざっている。春が終わりかけていた。  ユリアン様は灰色の外套姿で、帽子を深く被っている。最近はいつもこの格好だ。副団長が街を歩いていると知られると問題が起きるらしい。以前は「気にしません」と言っていたのに、最近は慎重になっている。何かが変わった。  顔を見た瞬間、筆跡の乱れの原因がわかった。目の下に薄い隈がある。頬が少し痩けている。唇の色が薄い。この一週間、まともに眠れていないのだろう。それでも背筋は伸びて、姿勢は崩れていなかった。騎士の身体が、意志の力で疲労を隠している。 「お加減が悪いのですか」 「いいえ。少し、団の中で厄介なことがありまして」  ユリアン様は微笑んだが、その笑みが口元だけで止まっていた。目が笑っていない。手紙の筆跡と同じだ。形は整えているが、中身が追いついていない。 「差し支えなければ、教えてください。……手紙でも構いません」  その言い方に、ユリアン様が少し驚いたように私を見た。 「筆跡が、少し乱れていました。今週のお手紙。行末が右に流れて、は行の結びが潰れていて。いつものあなたの字ではなかった。何かあったのだと、思いました」  ユリアン様はしばらく黙っていた。路地の壁にもたれ、空を仰いだ。細い路地の隙間から見える空が、初夏の青に変わり始めている。  それから低い声で笑った。自嘲の混ざった、けれど温かい笑い。 「あなたには、隠せないのですね。紙の上でも、顔の上でも」 「手紙を三ヶ月読み続けたら、嫌でもわかります」 「参りました。では、お話しします」  路地の壁にもたれたまま、ユリアン様が話し始めた。声は低く、周囲に聞かれないよう抑えられていた。  騎士団の中で、派閥争いが起きていた。貴族派の中心人物がヴァルター卿という騎士だ。四十代。三代続く軍功貴族の当主で、騎士団内に太い人脈を持っている。ヴァルター卿はユリアン様の副団長の地位を狙っていた。 「ヴァルター卿は、副団長は血筋と戦歴で決まるべきだと主張しています。私が実力で昇進したことは認めない。『フェルネ家の名前で地位を買った文学かぶれ』というのが、あの方の私への評価です」  文学かぶれ。ユリアン様の父が「騎士の恥」と呼んだものと同じ蔑称だ。少年時代からずっと浴びてきた言葉が、騎士団の中でも繰り返されている。 「それだけなら、放っておけるのですが」 「それだけではないのですね」 「ヴァルター卿が、私の私的な交友関係を調べ始めています。副団長が身分の低い令嬢と密会を重ねている、という情報を掴みかけている。恐らく、先週の古書店で尾行されていました」  古書店。百年前の書簡集を二人で読んだあの日。店主の寝息だけが響くあの静かな空間で、棚の間に立つ私たちの姿が、誰かに監視されていた。あの時間の温かさが、外から冷たい目で観察されていた。胸の奥が凍りついた。 「ユリアン様。私のせいで——」 「あなたのせいではありません」  ユリアン様の声が鋭くなった。否定ではなく、断言。 「ヴァルター卿が私を追い落としたいだけです。あなたとの関係がなくても、別の口実を見つけるでしょう。本を読みすぎる副団長、詩会に出る副団長、そういう些細なことを積み上げて攻撃するのがあの方のやり方です」 「でも、口実の中で一番大きなものが、私になってしまっている。詩会に出る副団長を批判するのと、身分の低い令嬢と密会している副団長を告発するのでは、重みが全く違う」 「それは私が選んだことです。あなたに最初の手紙を書いたことも、雨の中で正体を明かしたことも、会いに来ることも、告白したことも、全て私自身の判断です。誰に強いられたわけでもない。後悔していません。一瞬たりとも」  きっぱりとした声だった。揺るがない。この人は本当に後悔していないのだろう。けれど目の下の隈は消えない。後悔がなくても消耗はする。信念があっても身体は疲れる。 「ユリアン様。しばらく会わないほうが——」 「それは嫌です」  即答だった。副団長の冷静さが一瞬だけ剥がれて、素の声が出た。子供が駄々をこねるような、短い拒否。ユリアン様自身もその言い方に驚いたらしく、耳の先を赤くして咳払いをした。 「……失礼しました。ただ、手紙も会うことも、止めるつもりはありません。ヴァルター卿の件は私が処理します。あなたは安全でいてください」 「一人で抱え込まないでください」  私は一歩、ユリアン様に近づいた。路地の影の中で、まっすぐに目を見た。 「あなたが私に言ってくれた言葉を、そのままお返しします。一人で抱えないで」  ユリアン様が目を見開いた。それから、今日初めて、目まで笑った。目尻の皺が深くなって、灰青色の瞳に光が戻った。 「……返されるとは思いませんでした」 「紙の上では、私のほうが饒舌ですから。お忘れなく」  路地の角で別れた。ユリアン様の背中が遠ざかるのを見ながら、胸の中に冷たい水が溜まっていくのを感じた。  私たちの関係が、ユリアン様の立場を危うくしている。手紙も対面もやめたくない。でも続ければユリアン様が傷つくかもしれない。どちらを選んでも何かを失う。手紙がくれた幸福が、手紙ゆえの危険に変わろうとしている。  帰り道、影の郵便局の前を通りかかった。扉の向こうから、老郵便夫の咳の音が漏れていた。前より長い咳だった。胸の奥から絞り出すような音。この場所もまた、静かに衰えている。  嵐の夜の男。ヴァルター卿。叔父の嘘。叔母の思惑。私の周りで、いくつもの暗い糸が同時に動いている。そしてその全ての糸が、手紙という一本の軸に絡みついている。手紙が私を救い、手紙が私を繋ぎ、手紙が私たちを危険に晒してもいる。  屋根裏に戻り、便箋を広げた。今夜はユリアン様への手紙ではなく、自分自身への手紙を書いた。 『私へ。  あなたは今、何がしたいのか。何を守りたいのか。母の秘密か。ユリアン様の立場か。自分の居場所か。全部だと言うなら、全部のために何ができるのか。考えなさい。泣くのは後でいい。今は、考えるときだ。  エメラ・リルティングより、エメラ・リルティングへ』  自分への手紙を書いたのは初めてだった。奇妙だった。宛先は自分。差出人も自分。影の郵便局を経由する必要もない。けれど紙の上の私は、声の私より冷静で、少しだけ強かった。  窓辺のタイムは順調に育っている。双葉の上に小さな本葉が三枚。茎が少しずつ伸びて、鉢の縁から数センチ、頭を出していた。この子は嵐も乗り越えた。私も乗り越えなければ。  告白の手紙は、手帳と一緒にドレスの内ポケットに入れたままだ。返事はまだ書けない。けれど今夜書いた自分への手紙が、最初の一歩だった気がした。紙の上で、自分自身と向き合うこと。それは、声の自分と紙の自分を繋ぐ作業の、始まりなのかもしれない。

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