第12話
第12話「マリーヌの警告」
# 第12話「マリーヌの警告」
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マリーヌが訪ねてきたのは、水曜日の翌日、木曜日の午後だった。 私は台所で夕食の仕込みをしていた。玉葱を刻みながら、昨日のユリアン様との会話を反芻していた。筆跡の乱れ。ヴァルター卿。古書店の尾行。頭の中は暗い水で満ちていて、玉葱の涙がその暗さを覆い隠してくれていた。泣いているのは玉葱のせいだと、自分に言い聞かせられるから。 勝手口を叩く音がした。控えめな、けれど急いだリズム。配達にしては時間が遅い。 開けると、深緑のドレスに亜麻色の髪を下ろした令嬢が立っていた。マリーヌ・デュヴァル。琥珀色の瞳が、いつもの穏やかさではなく、少し切羽詰まった光を帯びている。あの茶会以来、二度目の対面だった。額に薄い汗がにじんでいる。ここまで急いで来たのだろう。 「エメラ。突然ごめんなさい。少しだけ、お話ししたいことがあるの。大事な話よ」 私は周囲を見回した。叔母は買い物に出ている。セレナとリゼットは部屋にいるはずだが、リゼットが降りてくる可能性がある。 「こちらへ。庭の奥に東屋があります。あまり人が来ない場所です」 屋敷の裏庭の隅に、蔦に覆われた小さな東屋がある。叔母が園芸に飽きてから放置されていて、今は雑草と蜘蛛の巣が主な住人だ。石のベンチの埃を手で払い、二人で腰を下ろした。 初夏の午後の日差しが蔦の隙間から差し込んで、マリーヌの肩に光の斑点を落としている。鳥の声が遠くから聞こえる。穏やかな午後だった。けれどマリーヌの表情は穏やかではなかった。 「エメラ。あなたに伝えておかなければならないことがあるの。父から聞いた話なのだけど」 マリーヌの父は宮廷文官だ。王宮の事務方で、法令や行政の書類を扱う部署にいる。その立場上、宮廷内の情報が入りやすい。 「エメラ。影の郵便局のことを、知っているわね」 心臓が凍った。マリーヌは私が影の郵便局を利用していることを知っているのか。知らないはずだ。誰にも言っていない。ユリアン様にさえ、郵便局に通っている頻度は詳しく話していない。 「名前だけは。王都に古くからある場所だと聞いたことが」 「嘘。あなたの目が泳いだわ。あなたは嘘をつくとき、視線が左に逸れる癖がある。茶会のときに気づいた」 この人は観察力が鋭い。父親譲りなのかもしれない。 「……ええ。利用しています」 「やっぱり。聞いて。影の郵便局が、宮廷の調査対象になっているの」 マリーヌの声が低くなった。東屋の外に聞こえないように。 「父の部署に、先週、上から調査命令が降りてきたそうよ。影の郵便局が反王政派の秘密通信に利用されている疑いがあるとして、利用者の記録を洗い出せ、と」 反王政派。秘密通信。影の郵便局は匿名の手紙を届ける場所だ。名前も身元も明かさずに手紙を送れる。差出人も受取人も秘密のまま、言葉だけが行き来する。その匿名性は、私やユリアン様のような「知られたくない想い」を持つ者にとっては救いだったが、政治的な秘密の通信手段としても当然利用されうる。誰かがそれをやっていた。そしてそれが当局の耳に入った。 「調査は、どこまで及ぶの」 「わからないわ。でも父は、かなり本格的な指示だと言っていた。ただの噂確認ではない。押収命令が出る可能性もある、と」 「押収——」 「手紙の現物を差し押さえるということよ。影の郵便局に保管されている全ての手紙を」 封印棚。あの布に覆われた古い棚に、何十年もの配達不能の手紙が眠っている。母が隠した文書もそこにある。押収されれば、全てが宮廷の手に渡る。 「利用者の記録を洗い出す、ということは——」 「影の郵便局を利用した全員の手紙が、調べられる可能性がある。差出人の筆跡、封蝋の種類、手紙の内容。全て」 全身から血の気が引いた。 私とユリアン様の文通記録が洗い出される。副団長が匿名で令嬢に手紙を送っていたことが発覚する。ヴァルター卿にとって、これ以上ない攻撃材料になる。 それだけではない。母の手帳に書かれていた「文書」。母が封印棚に隠したもの。調査が封印棚にまで及べば、母の秘密が白日の下に晒される。 「マリーヌ。その調査は、いつ始まるの」 「わからない。でも、父が言うには、命令が出た以上、数週間以内には何らかの動きがある。父自身は調査に反対しているけれど、上からの指示だから逆らえない」 「お父様がそれを教えてくれたのは——」 「私が頼んだの。あなたのことが気になっていたから」 マリーヌがまっすぐに私を見た。琥珀色の瞳に、偽りのない心配が浮かんでいた。 「茶会であなたに会ったとき、直感でわかったの。この人は何かを隠している、でもそれは悪い秘密ではない、って。手紙が似合う目をしているって言ったでしょう。あれは本当よ。手紙を大切にしている人の目をしていた。だから——影の郵便局が調べられると聞いて、あなたのことが心配になったの」 涙が出そうになった。出会ってまだ二度目の、ほとんど他人の令嬢が、自分の父親に頼んでまで情報を集めてくれた。社交界であれほど冷たくされた私に、この人は自分の判断で手を差し伸べている。 「マリーヌ。ありがとう。本当に」 「お礼はいいわ。それより、対策を考えなさい。影の郵便局に大切なものがあるなら、調査が入る前に手を打ったほうがいい」 母の文書。封印棚の奥にある、銀の鍵で開く金庫。調査が入れば、それも見つかる。 「一つだけ聞いてもいい?」 「何」 「あなたの手紙の相手は、大切な人なのね」 答えなかった。答える代わりに、頷いた。マリーヌは微笑んだ。 「なら、その人にも伝えて。調査が入ったら、文通の記録も見つかるかもしれない。早いほうがいいわ」 マリーヌは東屋を出る前に、私の手を軽く握った。冷たい手だった。緊張していたのだろう。この人も、この情報を持ってきた時点で、宮廷文官の娘としてのリスクを負っている。父の機密を外部に漏らしたことになる。 「ありがとう。マリーヌ。あなたは——友人、と呼んでもいい?」 マリーヌは一瞬、目を丸くして、それから屈託なく笑った。 「遅いわよ。私はもうとっくに、茶会の日からそう思っていたのに。バター多めのクッキーを一緒に食べた日から」 マリーヌが帰った後、私は東屋の石のベンチに座ったまま、しばらく動けなかった。蔦の隙間から差し込む光が、足元の石を温めている。蝉はまだ鳴いていないが、夏の虫が草の中でかすかに音を立て始めていた。季節は確実に進んでいる。 影の郵便局が調査される。利用者の記録が洗い出される。封印棚の手紙が押収されるかもしれない。母の文書が見つかる。ユリアン様との文通記録が発覚し、ヴァルター卿に利用される。全てが同時に崩れる。 時間がない。何日、いや何週間の猶予があるのかもわからない。 ユリアン様に伝えなければ。老郵便夫にも。そして——母の文書を、調査の手が届く前にどうにかしなければ。 勝手口に戻ろうとしたとき、東屋の入り口の蔦の影に、人の気配を感じた。誰かがいた。いや、いたのかもしれない。蔦が風で揺れただけかもしれない。 振り返ったが、誰もいなかった。 けれど胸の奥で、警鐘が鳴っていた。この家の中にも、外にも、耳を澄ませている者がいる。 屋根裏に戻り、すぐにユリアン様への手紙を書き始めた。今度は影の郵便局を使えない。騎士団の通用口に直接届けるしかない。 『ユリアン様。至急お伝えしなければならないことがあります。影の郵便局が、宮廷の調査対象になりました——』 ペン先が走る。インクが便箋に吸い込まれていく。いつもの手紙とは違う速さで。美しい文体も言葉遊びも、今は要らない。事実だけを、正確に、早く。 今この瞬間も、時計は進んでいる。嵐の夜の男の「一週間」の猶予も、残り少なくなっているはずだ。宮廷の調査が始まるまでの時間も、有限だ。全てが同時に動き出している。手紙が結んだ縁が、手紙ゆえに解かれようとしている。 この皮肉に、母も苦しんだのだろうか。文字は声が届かない場所にも届く。けれど文字は、届けたくない相手にも届いてしまうことがある。 窓辺のタイムが、夕方の風に葉を揺らしていた。茎が少し伸びて、日に日に逞しくなっている。この子は何も知らない。嵐も調査も陰謀も知らずに、ただまっすぐに光に向かって伸びている。 私も、そうありたかった。光だけを見て、まっすぐに伸びたかった。けれど今は、光だけでなく影も見えている。見えてしまった以上、目を閉じるわけにはいかなかった。