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影の郵便局と秘密の手紙

第13話 第13話「封じられた言葉」

第13話

第13話「封じられた言葉」

# 第13話「封じられた言葉」

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 影の郵便局に駆けつけたのは、マリーヌの警告を受けた翌朝だった。  夜明け前に目が覚め、身支度もそこそこに屋敷を出た。空はまだ薄い灰色で、東の端だけが淡い茜色に染まっている。街路には早起きの商人と、パン焼き窯に火を入れる職人しかいない。石畳の上を走る私の足音が、朝の静寂に響いた。  路地を二度曲がる。いつもの煤けた煉瓦の建物が静かに立っている。蔦の葉が朝露を宿して鈍く光っていた。壁のひび割れも、錆びた窓枠も、何も変わらないように見える。けれど私の目には、この場所が砂の上に立つ城のように危うく映った。  扉を押し開けた。紙とインクの匂い。薄暗い店内。棚に並ぶ封筒の束。壁掛け時計が静かに秒を刻んでいる。カウンターの向こうに、老郵便夫が椅子に座っていた。膝の上に毛布をかけている。顔色が悪い。以前より痩せた。頬骨が浮き上がり、目の周りの皮膚が薄く透き通って見える。 「おじいさん。大変なことになりました」  私は息を整える間もなく、マリーヌから聞いた話を伝えた。宮廷の調査命令。利用者記録の洗い出し。反王政派の秘密通信の疑い。手紙の押収命令が出る可能性。全てを、できるだけ正確に、落ち着いて。声は震えていたかもしれないが、内容だけは正確に伝えようと努めた。  老郵便夫は黙って聞いていた。その目に驚きはなかった。むしろ、長い間待っていたものがようやく来た、というような静けさがあった。予期していた嵐を、ついに迎えた老木の覚悟。 「……そうか。やはり来たか」 「やはり、というのは——前にも、こういうことが」 「この局が狙われるのは、今に始まったことじゃないよ。何十年も前から、権力者はこの場所を潰したがっていた。匿名の手紙を扱う場所は、権力にとって都合が悪いからな。誰が何を言ったか、管理できないのが気に食わんのだ。言葉を管理したがる連中は、いつの時代にもいる」  老人は咳をした。短い乾いた咳。それが三回続いて、最後の一回で肩が大きく揺れた。私は慌ててカウンターの内側に回り込み、水差しからコップに水を注いだ。老人はそれを受け取り、少しずつ飲んだ。喉が鳴るのが聞こえた。 「おじいさん。身体のほうも心配です」 「身体は後でいい。先に大事な話をする」  老郵便夫は椅子から立ち上がろうとした。膝が震えている。私が腕を支えると、老人は一瞬だけ私の手を見つめた。母の手に似ている、と言いたげな目だった。 「嬢ちゃん。心配するな。この局の秘密は、わしが守る。調査が来ようと、押収命令が来ようと、封印棚の中身だけは渡さん。あの棚には、この局の存在意義そのものが入っている。届けられなかった言葉たちが眠っている。それを権力の道具にさせるわけにはいかん」 「でも、宮廷の命令に逆らえるのですか」 「逆らうんじゃない。守るんだ。この局には、そのための仕掛けがいくつかある。先代から受け継いだ秘密の通路もある。何十年もかけて準備してきたんだ。そう簡単には手出しさせんよ」  老郵便夫はカウンターの下から小さな鍵束を取り出した。古い鉄の鍵が五つか六つ、革の紐で束ねられている。鍵の一つ一つが異なる形をしている。長い歴史の中で、一つずつ追加されてきたのだろう。 「詳しいことは、まだ話せん。でも嬢ちゃん、一つだけ覚えておいてくれ。この局は、あんたの母さんが命を懸けた場所だ。わしも同じだ。簡単には潰させん」  母の名前が出た。老郵便夫は、やはり母のことを知っている。母がここに何を託したのかも。聞きたかった。今すぐに。けれど老人は首を横に振った。 「今は、まだだ。順番がある。あんたには、あんたの準備ができたときに、全部話す。今日じゃない」  苛立ちを覚えた。しかし老人の目には、頑固さと同時に深い思慮が宿っていた。この人は理由なく隠しているのではない。タイミングを見計らっている。母が「あの子の準備ができたら」と日記に書いたように、老郵便夫もまた、私が何かに到達する瞬間を待っている。 「手紙は今後も受け付けるよ。調査が来るまでは、いつも通り。来たとしても、あんたの手紙だけは守る約束をする。あんたの母さんとの約束でもあるからな」  その約束が、どれほど重いものなのか、老人の目を見ればわかった。

 影の郵便局を出た。路地に出ると、朝の光が白く眩しかった。目が慣れるまでの数秒、世界が白く飛んだ。  帰り道、騎士団の通用口に寄って、昨夜書いた手紙を門番に預けた。門番は「承知しました」と敬礼して受け取った。影の郵便局の調査のこと、老郵便夫の体調のこと、文通を続ける方法を考えなければならないこと。全てを書いた手紙。  門番が手紙を受け取る際に、小さな封筒を差し出した。 「副団長殿から。至急お渡しするようにと」  路地の陰で封を開けた。ユリアン様の字。いつもの端正さが戻っていた。筆跡の乱れは治まっている。一晩で気持ちを整えたのだろう。

『エメラ嬢。  しばらく、手紙を控えましょう。  これは私が提案する唯一の対策です。影の郵便局が調査対象になるなら、利用を止めるしかない。騎士団の通用口経由も、頻繁に使えば目立ちます。ヴァルター卿の目もある。  手紙を止めるのは、あなたにとっても私にとっても辛いことです。声のない日々が続くのは、母が亡くなった八歳のとき以来です。でも、あなたの安全を守るためなら、しばらくの沈黙に耐えます。  会うことはできます。水曜日は続けましょう。声は消えても、存在は消えませんから。  ——ユリアン・フェルネ』

 手紙を控える。  その四文字が、胸を殴った。  手紙を止めるということは、私の声を止めるのと同じだ。対面では言葉が出ない。喉の奥で止まる。紙の上でしか饒舌になれない私にとって、手紙を失うことは、世界との回路を一つ失うことに等しい。  ユリアン様はわかっている。「声のない日々は八歳以来」と書いている。この人も、手紙を失う痛みを知っている。知った上で、提案している。私の安全のために。  路地の壁に背をつけて、封筒を握りしめた。手紙を失うことへの恐怖が、陰謀への恐怖よりもずっと大きかった。馬鹿げている。命の危険より手紙の喪失のほうが怖いだなんて。でもそれが私の真実だった。  手紙は私のアイデンティティだ。紙の上でしか本当の自分になれない私にとって、手紙を止めることは、自分の半分を封じることに等しい。叔父の家に引き取られてからの二年間、一日にほとんど口をきかない日々。声の出し方を忘れそうになった日々。手紙が始まって、ようやく私は自分の輪郭を取り戻した。それがまた、消える。  涙が出た。路地の壁に背をつけたまま、声を出さずに泣いた。通りすがりの商人が不審そうにこちらを見たが、構わなかった。構う余裕がなかった。  しばらく泣いて、鼻をすすって、背筋を伸ばした。壁の冷たさが背中を支えてくれていた。  手紙が止まっても、ペンを持つことはできる。便箋に書いて、送らなければいい。いや、それでは意味がない。手紙は届くから手紙なのだ。書いて、渡して、読まれて、返事が来る。その循環が、私を私にしている。一方通行の文字は、独り言と変わらない。  でも——ユリアン様は「会える」と言った。声は消えても、存在は消えない、と。  紙の上の私が封じられる。残るのは声の私だけ。声の私は不器用で、寡黙で、言葉が三分の一になる。でも、会える。ユリアン様の隣に立てる。声が三分の一でも、存在はそこにある。  屋根裏に戻った。便箋を机の上に広げた。書かないと決めたはずなのに、指がペンを取っていた。習慣が、理性より先に動いた。  『ユリアン様。手紙を止めるという提案を受け入れます。辛いですが、あなたの判断を信じます。ただ——手紙がなくなっても、あなたに伝えたいことは消えません。声で伝えます。三分の一でも。十分の一でも。それが今の私にできる、精いっぱいの勇気です』  そこでペンを止めた。この手紙は送れない。送る手段も安全もない。  便箋を折り畳んで、枕の下にしまった。送れない手紙。封印棚に入るべき手紙。宛先を持ちながら、届けられない言葉。  窓辺のタイムの芽が、夕方の光の中で小さく揺れていた。茎が伸びて、葉が五枚になっている。この子は何があっても育ち続ける。私もそうでありたい。手紙がなくても、声が封じられても、根は土の中で伸び続けている。  宛先のない言葉が、枕の下で静かに眠りについた。明日から、手紙のない日々が始まる。水曜日まであと五日。五日間の沈黙を、私は耐えられるだろうか。

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