第2話
第2話
扉が、向こう側から押し開けられた。
蝶番の軋む音より先に、複数の足音が雪崩れ込んでくる。革のブーツが石を打つ硬さと、肩で風を切るような気配。先頭に立っていたのは、緋色の袈裟をまとった老人ではなく、神官服の襟元を素早く正している、まだ若い男だった。
「不躾を、お赦しください」
そう言いながら、男はまっすぐに、私のほうへ歩み寄ってくる。
歓迎の挨拶ではない、と本能のどこかが報せた。差し出された右手は、うやうやしく胸の前で組まれているように見えて、けれど左手のほうが、長い袂の奥で、ほんのわずかに鞘の革へ触れていた。
私の喉の奥で、息が浅く詰まる。
声を上げる前に、隣の影が、すっと動いた。
アルヴィスの黒いマントが、私の視界を塞ぐように、半歩、前へ流れる。彼の左肩が、ちょうど私の胸の高さに来ていて、革手袋の指先が、すでに腰の鞘へ置かれている。手首の骨が、皮膚の下で硬く張り詰めているのが、横からでも見て取れた。
「……団長殿」
赤毛の副官が、咎めるように呼ぶ。
けれどアルヴィスは、答えなかった。ただ灰青の瞳が、流れ込んできた一団のなかのほんの一点を、ぴたりと捉えていた。瞬きの数すら、減っていた。睫毛の影が、頬骨のあたりで完全に止まっているのが、私の目の端に映っていた。
そこから、すべては――息を一度吸うほどの短さで起きた。
若い神官の左袂から、抜き身の刃が、跳ねるように飛び出してきた。
短い、湾曲した刃だった。儀礼の場では決して許されないはずの、人を断つためだけの形をしていた。蝋燭の炎を映して、刃の腹に走る波紋が、ぬめりと光る。刃の根元には、薄く、油のような黒い何かが塗られているように見えた。それに気づいた瞬間、私の舌の付け根が、急に冷たい砂を含んだように痺れて、唾を呑み下すことすら、できなくなった。
「異教の聖女に、慈悲を――」
男の唇が、祈りに似た言葉を紡ぎかけた。けれど、それは最後まで形にならなかった。
私の視界から、黒が消えた。いえ、消えたのではない。アルヴィスの背中が、私と刃のあいだに、音もなく割って入ったのだ。革のマントが、はためく代わりに、ふわりと一度沈んで、また持ち上がる。それは、戦場で何度もその動きを繰り返してきた人だけが見せる、無駄を削ぎ落とした静かな歩法だった。風を孕まないマントの裾が、私のスカートの裾にほんの一瞬だけ触れて、糸のような感触を残してすぐに離れた。その触れ方の慎ましさと、次の刹那に彼が見せた苛烈さの落差が、私の頭のなかでうまく繋がらず、視界の端のほうから、しんと音が遠のいていった。
刃が、彼の左の二の腕で、止まる。
衣擦れの音と、骨の硬さに当たった鈍い音と、それから、神官の咽喉から漏れた短い悲鳴。
私は、ようやく自分が悲鳴を上げていないことに気づいた。代わりに、両手を口元へ押し当てている。指先が、震えるのを越えて、ひどく冷たくなっていた。
アルヴィスは、剣を抜いていなかった。
ただ、左の腕に刃を受けたまま、右手で神官の手首を掴み、そのまま床へと押し倒している。革手袋の指が、男の脈の場所をぴたりと押さえているのが、私のいる位置からも見えた。指の腹の角度ひとつ、男の悲鳴の高さに合わせて、まるで音を測るように、ほんの少しずつ、ずれていく。
「捕らえよ」
短い指示だった。
赤毛の副官が息を呑んで駆け寄り、神官の身柄を背後の二人に預ける。蝋燭の灯がいっせいに揺れて、男の頬を、青白い光が舐めた。神官の瞳に浮いていたのは、憎しみよりも、ずっと深い何か――怯えに、近かった。
「よくも、我らの神殿を……」
別の神官が、震える声で叫ぶ。
「黙れ」
副官の一喝が、それを断ち切った。回廊の隅で、白い衣の神官たちが、いっせいに袖で口元を覆う。誰の差し金か、誰の判断か――その答えは、彼らの頬の白さが、すでに語っているようだった。
私は、まだ動けない。
膝裏の骨が、ばらばらに外れたように、力が入らなかった。床に張りついた靴底が、そこから一歩も動こうとしない。鼻の奥に、乳香に混ざって、鉄の匂いが薄く広がっていた。その鉄の匂いは、ずっと幼い頃、台所の床に果実をこぼしてしまったときに広がった、あの甘く湿った匂いに、どこか似ていた。けれど今、ゆっくりと立ちのぼっているのは、果実の血ではなく、人の腕の継ぎ目から流れているものだった。同じ赤い匂いのはずなのに、胸の奥で受け止めたときの重さが、まったく違う。喉の付け根のあたりに、ずしりと、それは沈んでいった。
その匂いの出どころを、私の視線は、自分でも止められずに辿った。
アルヴィスの左の二の腕、漆黒の革鎧の継ぎ目から、一本の細い筋が、ゆっくりと流れていた。
「――血が」
声が、自分でも知らないうちに、漏れた。
アルヴィスが、ようやく振り返る。
鎧の継ぎ目から滴る赤を、彼自身は、まるで他人の傷を見るような顔で一度だけ見下ろし、それから、私のほうへ視線を戻した。灰青の瞳のなかに、私の姿だけが映っているのが、初めて、はっきりとわかった。
「ご無事ですか」
聞かれて、私は思わず、自分の身体を見下ろしてしまった。傷ひとつ、ない。震えているのは、私の指先だけだった。
「私は、平気です。でも、あなたが」
「これは、傷のうちには、入りませぬ」
低い声に、わずかに、苦笑のような色が混じる。
それから、彼はもう一度、ゆっくりと、片膝を折った。
二度目の、跪きだった。一度目とは違って、こちらに何の指示も求めず、神官たちのざわめきの真ん中で、彼は石床に膝をついた。革手袋を外した右手が、自分の左胸に、強く押し当てられる。手のひらの下で、革の擦れる音がした。
周囲の騎士たちが、息を呑む。
「アルヴィス、お主――」
副官の声を、彼は遮らなかった。ただ、答える順序を自分のなかで決めるための、長い、長い沈黙が一度、落ちた。
そうして、ようやく、彼の唇が動く。
「生涯」
蝋燭の灯が、ひとつ、揺れた。
「生涯、貴女だけが、俺の主だ」
短い、けれど、ひとつひとつが石に刻むように据わった声だった。「主」という、たったその一字に、戦場で吸い込んできた血の匂いと、長く誰にも明かさずに抱えてきたはずの何かの重みが、いっせいに乗っているのが、聞いていてわかった。私はそれを、耳ではなく、胸の中央のもっと奥のほう――ふだんは何も触れないはずの、薄い膜のような場所で、ずしりと受け止めていた。
私の喉の奥で、何かが、つかえる。声は出ない。代わりに、爪が、自分の手のひらに、深く食い込んでいた。
これは、儀礼の言葉ではない。
それくらいは、私にもわかった。誰かに強いられたのでも、神へ向けたのでもない。たったいま、目の前で刃を受けた男が、自分の胸に手を当てて、見も知らぬ娘ひとりへ向けた言葉だった。
「……どうして」
ようやく、それだけが、口から漏れた。
「私のことを、なにも、ご存じないのに」
アルヴィスは、答えるより先に、長い睫毛を、一度、伏せた。
「視れば、わかります」
そう、低く言った。
「視る」というその字を、私は耳でしか受け取れなかったけれど、その音には、ただ眼で見るというより、もっと深い、何か別の力の輪郭があった。彼が伏せた瞳の奥に、私には触れることのできない長い時間が、波のように沈んでいるのが、わかった。
それ以上、彼は答えなかった。
聞き返すことが、許されない種類の沈黙だった。蝋燭の炎が、ぱちりと一度、爆ぜる。乳香の煙の隙間で、彼の銀の前髪が、灯を受けて、白い光の糸のように揺れていた。私はその髪の一筋を、なぜだろう、ひどく長いあいだ見つめていた。
血の匂いに混じって、彼の革と、よく研がれた金属の匂いがした。氷のように見えていたこの人の輪郭の、芯のところで、まだ熱を帯びた何かが、確かに息づいているのが、私の指先には、もう、わかってしまっていた。
「お立ちください」
私は、震える指先を、もう一度、彼の手のほうへ伸ばした。
革手袋を外したばかりの、素手だった。指の節が太く、剣だこの硬い、人を斬るためにだけ磨かれてきた手のひら。そこへ、私のずっと細い指先が、そっと触れる。
熱い、と、また思った。
アルヴィスの肩が、そこでようやく、わずかに、震えた。
「神殿長殿が、お待ちです」
赤毛の副官が、ぎこちなく、咳払いをひとつする。
回廊の奥から、新しい足音が、こちらへ近づいてきていた。さきほどの一団とは違う、もっと重い、多くの人数の靴音だった。蝋燭の炎が、いっせいに、扉のほうへ流れる。
アルヴィスは、私の手を借りて、立ち上がった。立ち上がりざまに、ほんのわずかに、彼の指先が、私の指先を握り返す。すぐに離れたその力の名残を、私はまだ、自分の手のひらの上に持っていた。
「行きましょう」
低く、彼が言う。
私は、まだ何ひとつ、答えられない。それでも、足だけが、彼の半歩後ろを、歩き出していた。