第1話
第1話
頬に押しつけられた石床が、骨まで凍えるほど冷たかった。
立ちのぼる乳香の煙のなかで、私は両手をついたまま、しばらく息ができなかった。指先に触れる床の継ぎ目は、まるで磨き込まれた墓石のようで、鼻の奥に古い鉄錆の匂いが残っている。
つい先刻まで、私は四月の駅前で、後輩から押しつけられた紙袋を抱えていたはずだった。「先輩、これお願いしていいですか」――いつもの台詞、いつもの笑顔。断れば角が立つ。だから引き受けた。横断歩道の青信号が点滅していたのを、ぼんやり眺めていた。
そこから、ここまでが、まだわからない。
「――おい」
低い男の声が、頭上から落ちてきた。
顔を上げる前に、金属の擦れる音が、私を取り囲んでいるのに気づく。鎧の継ぎ目、ベルトの革、抜き身に至らない剣の柄に置かれた手のひら。視線だけで数えても、十人は下らなかった。
漆黒。
それが、彼らを表す唯一の言葉だった。胸当ても、肩鎧も、籠手も、揃って光を吸い込むような黒で、蝋燭の炎が震えるたびに、その黒が静かに息をして見えた。
「召喚に応じたか」
「いえ、しかし――姿が、聞いていた『聖女』とは、いささか」
「黙れ。判ずるのは陛下だ」
囁き合う声のなかで、私はようやく顔を起こした。
正面の祭壇のすぐ脇に、ひときわ背の高い男が立っていた。
銀色の前髪が、片方の眉のあたりまで落ちている。その下から覗いた瞳は、夜明け前の湖のような灰青で、私を見ているのに、なぜか私の向こう側まで見透かすような色をしていた。整った顔立ちのはずなのに、唇の端に薄く走る古い傷跡が、彼を「美しい」という言葉から、ほんの少しだけ遠ざけている。
その男が、ふいに、片膝を折った。
石床に膝当ての金具が触れる、硬い音。
周囲の騎士たちが息を呑む気配がした。誰かが「団長」と短く呼んだ声は、戸惑いと、もうひとつ別の――怯えに近い色を、確かに含んでいた。
私は、動けない。
膝を折ったのは、私のためなのだろうか。何かの儀式なのだろうか。問いただす言葉は、舌の上で凍ったまま、動かない。
「お立ちください」
そう言うべきなのは、たぶん、私のほうだった。
日本にいた頃から、ずっとそうだった。電車で隣に立たれれば席を譲り、飲み会の隅に追いやられた子に話を振り、母から「あなたしかいないから」と電話が来れば、その夜のうちに実家に帰った。誰かのために動くのは息をするのと同じで、自分の番がいつ回ってくるのか、数えるのもとっくにやめていた。
だから、いま、見知らぬ男に頭を下げられても、身の置き場がわからない。
「……どうか、顔を、上げてください」
声が、自分でも驚くほど小さく漏れた。
男はゆっくりと、顎を引いたまま視線だけをこちらへ向けた。前髪の隙間から覗いた灰青の瞳は、こんなに近いのに、初対面の他人を見るような硬さを残している。それなのに、奥のほうで、何かが、ひどく不器用に揺れていた。
「アルヴィス」
階段の脇に控えていた男が、咎めるように呼んだ。短く刈った赤毛の、彼より年嵩らしい騎士。
「立たれよ。お主が膝を折る相手ではない」
「……それは」
膝をついた男――アルヴィス、と呼ばれたその人は、低く返した。掠れた、よく研がれた刃のような声だった。
「俺が、決める」
短い言葉だった。けれど、その四文字が落ちた瞬間、周囲を取り囲んでいた騎士たちが、一様に半歩、後ろへ下がった。
私はようやく、この人と他の騎士たちのあいだに、目に見えない一本の線が引かれているのに気づき始める。同じ漆黒の鎧をまとっていても、その黒の濃さだけが、彼ひとりだけ深く、まるで誰にも分け与えられない夜のようだった。
ここは、神殿らしい場所だった。柱は私の二抱えはあろうかという太さで、天井まで届く長い布が幾重にも垂れている。足元には、見たこともない文字で描かれた円が広がり、薄く青白い光をまだ滲ませていた。
煙の奥で、複数の人影が、ためらうように身じろぎするのが見えた。白い衣の神官らしい者たちが、後方の柱の陰へ、そっと身を寄せていく。
(歓迎、ではない)
その確信だけは、すぐに胸に落ちた。
頬の冷たさが、ようやく現実として馴染んできて、私はそろそろと膝を立てた。立ち上がろうとして、膝の裏が震えていることに、自分で気づく。情けない、と思うより先に、
「ご無理を、なさるな」
すぐ近くで、その声が言った。
いつの間に、と思う間もなく、アルヴィスは立ち上がっていた。背丈は、私の頭ひとつぶんは余裕で高い。革の手袋に覆われた手が、私の肘のすぐそばまで差し伸べられて――けれど、触れる寸前で、ぴたりと止まった。
許可を待っているのだ、とわかったのは、彼の長い睫毛が一度、伏せられたからだ。わずかに浮いた指先が、ほんの少しだけ、震えていた。怖がっているのは、もしかしたら、この人のほうかもしれない。
「ありがとう、ございます」
私はそう言って、自分から、その手のひらに指先を載せた。
熱い、と思った。
革越しでも、芯のところに、火種を抱えているような熱さがあった。氷のように見えていたこの人の、どこにこんな熱があるのだろう。
その瞬間、彼の睫毛が、ほんのわずかに震えたのを、私の指先は確かに知った。
歩き出すと、騎士たちが二列に分かれて道を作る。
並びの綺麗な隊列だった。けれど、誰一人として、アルヴィスの真横に立とうとはしない。私を中央に挟んで、彼と私と、それ以外の九人――そんな歪な配置だった。
「あの……」
私はつい、隣を歩く人の横顔を盗み見た。蝋燭の灯が頬を撫でるたびに、そこに走る古い傷が、白く浮き上がる。喉のあたりにも、襟から覗いて細い線が一本あった。何度も、傷を負ってきた人なのだとわかる。襟元のシャツは、よく洗い込まれた、けれど一度として誰かに繕ってもらった形跡のない、無造作な縫い目をしていた。
「あなたは、私を、誰だとお思いですか」
問いかけに、彼は答えなかった。
代わりに、半歩、歩幅を緩めて、私の足元の段差を視線で示した。気づかぬまま踏めば、躓いたであろう、ほんの指一本ぶんの段差だった。
私は息を呑んで、それから、なぜだろう、すこし、おかしくなった。
(優しい、というのとは、違う)
そう、これは、優しさではない。もっと、奉公人が主の靴に砂粒を寄せつけまいとするような、根の深い、何かだった。
「団長殿」
赤毛の副官が、ぴしりと声を投げる。
「神殿長殿の御前でも、その態度を貫かれるおつもりか。お主の血のことを、あの方はいまだ赦してはおられぬ」
血、という言葉に、私の足は止まりかけた。
アルヴィスの灰青の瞳が、ほんの一瞬、伏せられる。長い睫毛の影が、彼自身の頬の上に、淡く落ちた。
それでも、彼は、止まらなかった。
「赦されずとも、構わぬ」
低く返したその声には、長く誰かに弁解することをやめてきた人だけが持つ、乾いた響きがあった。
私は、唇を噛んだ。
日本にいた頃、誰かが私のために、こんなふうに何かを引き受けてくれたことなんて、一度もなかった。誓われる側はいつも他の誰かで、私はその後ろで、笑顔で拍手をする側だった。そういう生き方しかできなかったから、誰かに何かを向けられたら、どう受け取ればいいのかなんて、教わったこともない。
それなのに――まだ何も知らないこの人が、私のために、長く積み上げてきたはずの自分の流儀を、いま静かに、片膝のぶんだけ崩した。
(……どうして)
問いたい。問えない。
舌の上で言葉が溶けていくあいだ、アルヴィスは前を向いたまま、ぽつりと付け足した。
「あなたを、ここで、お一人には、しません」
それだけだった。
長い回廊を、私たちは歩いた。窓の代わりに、高い位置に小さな明かり取りがあるきりで、外の天気はわからない。けれど、靴底に伝わる石の冷たさが、ふと和らいだ瞬間があって――そこに敷かれていたのが、彼のマントの裾だと気づいたのは、ずいぶん後になってからだった。
この人は、何かを抱えている。
ようやく、私の胸の奥で、その確信が、ことり、と音を立てて落ち着いた。言葉にしないまま、私はその確信を胸の奥にしまい、彼の背中の、半歩遅れた位置を、自分の歩幅で守るように歩いた。
回廊の突き当たりで、彼は立ち止まった。
両開きの扉の前。差し込んだ蝋燭の光が、銀の前髪を撫でて、灰青の瞳のなかに、初めて、私の姿を映してくれた気がした。
「中にいらっしゃるのは、神殿長殿です」
「は、はい」
「……何が、起きても」
短い沈黙が、扉の前に降りた。
「俺の背の後ろに、いてください」
囁きのような声だった。けれど、その低さの底に、まだ私には正体のわからない、ひどく硬い覚悟の音が、確かに響いていた。
扉の向こうから、複数の足音が、こちらへ近づいてくるのが聞こえた。
革を擦る音と、金属の鈍い擦過音。
それは、迎えに来た者の歩みではなく、もっと急いた、明らかに別の意思を持った足取りだった。