第3話
第3話
神殿長との謁見が、どのような言葉で結ばれたのか、私はあとから思い返しても、きちんと並べることができない。
煙の奥に、緋色の袈裟をまとった老人がいた。顔の半分が深い影に沈んで、口元の皺だけが、蝋燭の灯にかすかに動いていた。「お疲れであろう」と、それだけ言われたような気がする。袂のあたりで揺れた老人の指先には、長い瑪瑙の数珠が巻きついていた。それきり、私はまた長い回廊を、半歩前を行くアルヴィスの背を目印に、歩かされていた。
回廊が一度、二度と曲がる。蝋燭の数が減り、足元の石の冷たさは、いつの間にか絨毯の毛足の柔らかさに変わっていた。耳が拾うのは、自分の靴音と、彼のマントが絨毯を撫でる、微かな衣擦れだけだった。アルヴィスの左の二の腕には、いつの間にか、まっさらな白い包帯が巻き直されている。誰が、いつ、それを結んだのか、私には見えていなかった。
「こちらが、しばらくのあいだ、貴女のお部屋となります」
両開きの扉の前で、彼は低く告げた。
中に通された途端、私は息を呑んだ。
天井まで届く深い藍色の天蓋。銀糸で縫い取られた小さな星の模様。寝台の足元に置かれた、彫りの深い鉄製の燭台。窓は西側に、縦長のものがひとつきり。けれどその窓は、ひどく高い場所にあって、腕を精一杯伸ばしても、私の指先は、格子の下端にすら届きそうになかった。
「侍女を、扉の内側にふたり控えさせます。何かございましたら、遠慮なく、お申しつけを」
「あの……アルヴィス様は」
問いかけて、私は途中で言葉を呑んだ。
灰青の瞳が、ほんのわずか伏せられる。返事はなかった。代わりに、彼は半歩、扉のほうへ下がった。それが答えのつもりらしいと知って、私の指先は、また、すこしだけ冷たくなった。
「お加減は、いかがでございますか」
呼ばれて顔を上げると、淡い萌黄色のドレスをまとった侍女が、両手で銀の盆を捧げ持って立っていた。私と歳が変わらないか、ひとつふたつ下くらい。そばかすの散った頬が、緊張のせいで赤い。
「アンナ、と申します。今日より、リアと二人で、お身の回りを務めさせていただきます」
「聖女、と――神殿長様は、おっしゃっていましたが」
「はい。さように、伺っております」
口にしながら、アンナの視線が、扉のほうへちらりと走るのを、私は見逃さなかった。
盆の上には、白いパンと、湯気の立つ薄黄色のスープと、薄く切られた赤い果物が並んでいた。木の匙を握る指先が、まだ自分のものとは思えないほどぎこちなく、スープを口に運ぶたびに、塩気が舌の奥でばらばらに散った。そういえば、朝から、なにも口にしていない。日本でなら、後輩と立ち寄った定食屋で、味噌汁の湯気を見ているはずだった時間だった。
食事を下げに来たリアという年嵩の侍女は、ほとんど口をきかなかった。目を伏せたまま、私の上着の煤を湿らせた布で拭い、髪に絡んだ乳香の重さを取るために、白檀の香油を櫛にひと匙だけ含ませる。香油の薄甘い匂いが、煙の重さを、ほんの少しずつ、外へ押し戻してくれた。
「お湯の支度が、調いましてございます」
衝立の向こうに、銅でできた大きな盥が運ばれていた。湯気が立ちのぼり、銅の縁が薄く曇っていく。盥のふちに指先を浸した瞬間、膝の裏が、ようやく、自分のものに戻ってきた感覚があった。
湯のなかに身を沈めて、私はとうとう、声を立てて泣きそうになった。
泣かずに済んだのは、衝立越しに、リアが「お背中を、お流ししてもよろしゅうございますか」と尋ねた、その声が、あまりに低く、抑えていたからだ。私はただ、こくりと頷いた。湿った布越しの彼女の手のひらは、ひんやりと冷たくて、その冷たさが、かえって、喉のあたりに溜まっていた熱を、外へ逃がしてくれた。
夜衣に着替えて、寝台の縁に腰掛けたとき、私はようやく、扉のことを思い出した。
「アンナ」
「はい」
「扉の外には、いま、どなたが」
問いかけながら、答えはもう、わかっていた気がする。
アンナは、銀の燭台の蝋を払う手を、ふと止めた。それから、ほんの少しだけ、声を低くする。
「黒鉄団の、団長様が」
「ずっと、お立ちなのですか」
「……あの方は、そう、なさる方でございますから」
そう答えるアンナの頬から、さきほどまでの赤みが、いつの間にか、すこし退いていた。
蝋燭が、半分まで燃えた頃だった。
侍女たちは、扉の内側に並んだ椅子に腰掛けて、糸繰りの仕事を始めていた。糸車のかたかたという小さな音が、私の耳の奥のほうで、遠くなったり、近くなったりする。
私は寝台に身を横たえ、藍色の天蓋を見上げていた。
銀糸の小さな星々が、蝋燭の灯を受けて、ふっ、ふっ、と息をするように瞬いていた。日本のあの横断歩道で、青信号が点滅していた。あの信号が赤に変わる、その一瞬を、私はどうしても思い出せない。あの瞬間、私はなにを抱えていただろう。後輩の紙袋。母からの未読のメッセージ。明日の早番のシフト表。そのどれかを、いまの私は、欠片でも、持って帰る術があるのだろうか。
帰りたい、と、ようやく、その言葉を、胸の中で、ひそかに形にしてみた。
帰りたい。
口に出してみても、ふしぎと、思っていたほど大きな声にはならなかった。きっと、あちらの世界で私を待っているものは、私が抱え込んでいたつもりの紙袋ほどには、私を必要としていない。それを、私はずっと前から、薄々、知っていた。
それでも、戻る術くらいは、知っておきたかった。あの祭壇に描かれていた、青白い円の文字。あれを、もう一度、誰の手でなら、開くことができるのか。明朝になったら、アンナに、それとなく書庫の場所を尋ねてみよう。指先で天蓋の襞を辿りながら、私は、心のなかで、明日の手順を組み替え始めていた。
考えていると、頭の上のほうの空気が、すこし、変わった。窓のほうではない。扉の外、回廊のほうから、低い、抑えた話し声が、染み出してくるように、滲み始めたのだった。
私は寝台を抜け、毛足の柔らかい絨毯の上を、足音を立てぬように、扉のすぐ手前まで歩いた。糸車の音が、私の背中で、わずかに止まる気配があった。けれど、二人の侍女は、なにも言わなかった。
「……まだ、お立ちか」
「もう、夜半でございますぞ」
「赦されぬ血が、なにを守ろうと」
ひそやかな声が、扉の継ぎ目から、はっきりと、滲んできた。
「呪われた血筋の御身で、よくも、聖女様のおそばに」
「黙らぬか。団長殿が、お聞きになる」
「聞かれて、いまさら、なにを」
声は、二人、いや、三人ぶんあった。
私の指先が、扉の縁の彫り物に、ふと、触れた。冷たい木の節目が、爪の付け根に、薄く食い込んだ。
呪われた血筋。
その四文字を、頭のなかで、もう一度、なぞる。受け取った場所が、胸ではなく、もっと下の、息の通り道のあたりだったのは、その言葉を口にしていたのが、ほかでもない、彼の同僚たちだったからだ。
声は、やがて、足音とともに、回廊の奥へ遠ざかっていった。
それでも、私はすぐには、扉のそばを離れられなかった。耳を澄ませば、扉のすぐ向こうで、革のかすかに擦れる音が、まだ、確かに聞こえる。位置を変えるでもなく、足を踏み替えるでもない、ほとんど無音に近い、けれど確かにそこにある気配。誰の音か、もう、聞き間違えようもなかった。
息を整えて、私は、振り返った。
藍色の天蓋。銀糸の星。届かない高い窓。
寝台に戻り、毛布を肩まで引き上げても、目の奥は、ひどく冴えたままだった。私の知らないところで、誰かが、誰かの血を、長い時間をかけて呪ってきた。その長さが、いま、扉一枚の向こうに、ただ立ち尽くしていた。
帰る術を、考えなければ。
そう、自分に、もう一度、言い聞かせる。
それなのに、瞼の裏に浮かんだのは、祭壇の青白い円ではなく、左の二の腕に巻かれていた、あのまっさらな包帯の白さだった。あの白さを、ほんとうに結んだのは、誰の指だったのだろう。
蝋燭が、ぱちりと、ひとつ爆ぜた。
回廊の奥から、新しい足音が、ひとつだけ、扉のほうへ近づいてくるのが、私の耳の、ずっと深いところに、確かに、届いていた。