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冷徹騎士団長は捨てられ令嬢に紅茶を

第2話 第2話

第2話

第2話

馬車が公爵邸の門をくぐる頃には、雨は本降りに変わっていた。

石畳を叩く細い水音と、車輪の軋みと、疲れた馬の鼻息が、夜の庭に重なり合う。車窓に張り付いた雨粒が、庭の灯籠の灯を歪ませて、まるで金の魚が水底で震えているかのようだった。

わたくしは、膝の上で両手を重ねたまま、ずっとその灯を見ていた。扇は、大広間を辞した刹那に畳み、ヨハンに預けた。指先の震えを誰にも見せぬよう、胸の奥へ仕舞い込んでおく——そう教えられて十年になる。

車内には、蜜蝋の匂いと、雨に濡れた毛織物の匂いが籠っていた。

「お嬢さま」

正面に座るヨハンが、そう、もう一度呼んだ。彼の膝の上で、白い手袋の親指が、縫い目のあたりを幾度も撫でている。長年仕える男の、困惑の時にだけ現れる癖であった。

「何か、仰りたいことがおありですか」

「……いえ。ただ、お覚悟を」

お覚悟を。

その四文字を、わたくしはひとつの石のように受け取った。覚悟とは、何に対するそれかと問い返すまでもなかった。王宮から先にひとつの早馬が走ったことは、薄青い車内の空気でとうに知れていた。継母は、わたくしが馬車を降りる前に、すべてを知っているであろう。そういう方である。

玄関広間に足を踏み入れた瞬間、わたくしの靴が濡れていることに、誰ひとり気づかなかった。

いつもなら、小間使いのクララが駆け寄り、裾を拭きにかかる。けれど今宵、広間に並ぶ使用人たちは、動かなかった。皆が一斉に目を伏せ、あるいは目を逸らした。壁の燭台の灯が、彼らの頬に長い影を落としている。

奥の階段の中ほどに、継母カタリーナが立っていた。

深紅のドレスに、先代奥さまの——実母の——真珠の首飾りをつけていた。あれを継母が身につけるのを、わたくしは初めて見た。いや、見せなかった、というべきか。わたくしの前では、継母はいつもあの首飾りを仕舞っておいた。あの首飾りは、母が嫁ぐ折に祖母から授かったもので、母の細い首に掛けられているのを、わたくしは幼い頃の祈りの席で幾度も見上げた。光を孕んだ白さは、母の祈りの言葉と同じ温度をしていたように思う。母の首にあったときには月の光を宿していたあの真珠が、今宵は燭台の橙色に染められて、まるで琥珀のように見えた。それが、何より哀しかった。

「お戻りですか、ソフィア」

継母の声は、雨よりも冷たく澄んでいた。

「ええ。ただいま、戻りました」

「王宮から、報せが参りましたわ。婚約破棄の件と、それから——」

継母は、そこで言葉を切った。一拍の間が、広間の空気を鋭く裁った。

「ヴァルトハイム公爵家としては、此度の失態に対し、毅然たる処断をいたす他ございませぬ。お父上の御名のためにも」

父上、と継母が口にするとき、その声にはわずかな優越の湿りが滲む。父は此度の北方視察で、雪に阻まれて不在であった。継母は、父が不在のこの三月を、どうやら待ち望んでいたらしい。

「処断、と仰いますと」

「即刻の追放でございます」

広間の使用人の誰かが、小さく息を呑んだ。

「今宵のうちに、この邸を退去なさい。持ち出しは身ひとつ。馬車も、供も、要りませぬ」

わたくしは、継母の瞳を見た。

燭台の灯が、その緑がかった瞳の底でひとつだけ揺れていた。階上から見下ろす視線の角度は、わたくしが十の頃から、少しも変わらなかった。

そこには、怒りも、憎しみもなかった。ただ、久しく堰き止めていたものを、ようやく流してよいのだという——静かな解放の色があった。継母がわたくしを好いていないことは、わたくしが十のときから存じていた。存じていたから、驚きは少なかった。十のとき、継母がわたくしの肖像画を一枚、屋根裏の埃の中へ仕舞わせるよう小間使いに命じたのを、廊下の角で耳にした。あれが、その静かな堰の、最初の一滴であった。

「承知いたしました」

「……抗議は、なさらないの」

「抗議の理路を、継母さまは既にご用意でいらっしゃいましょう。わたくしが何を申しても、お答えは変わりますまい」

継母の頬が、ほんのわずかに強張った。彼女が望んでいたのは、泣き叫び、取り乱すわたくしの姿であったろう。取り乱さぬ者を前にしたとき、勝者の笑みは据わりの悪い仮面になる——その一夜のうちに、二度、同じ光景を見ることとなった。

「外套を」

「いいえ。身ひとつと仰せであれば、身ひとつで」

わたくしは、薔薇色のドレスの裾を、大広間の礼と同じ角度で持ち上げ、膝を折った。踵を返すとき、ヨハンが一歩、前へ出ようとしたのが視界の端に映った。

その肩を、わたくしは振り返らずに制した。

「ヨハン。邸に残り、父上のお帰りをお待ちしてちょうだい」

それだけを告げて、わたくしは雨の夜へ、ひとりで踏み出した。

石畳の道は、公爵邸の門を出てすぐに坂となる。

雨は、わたくしの薄絹のドレスを、またたく間に肌へ貼り付けた。髪に差していた真珠の簪が、重みを帯びて首筋へ滑り落ちそうになる。指でそっと外し、手のひらに握り込んだ。これは、十六の夜会で初めて父が贈ってくれたものであった。——身ひとつで、と継母は仰った。けれど、髪に挿していたものは身のうち、と、わたくしは勝手に取り決めた。

ドレスの胸元のリボンが、雨を吸って黒い縄のように重くなり、息のたびに肋へ食い込む。吐く息は白く、夜の闇に溶ける前にひとつ崩れた。耳の奥で、自分の鼓動が遠い太鼓のように鳴っていた。

街道へ出る頃には、靴の底が石畳に吸い付き、一歩ごとに小さな水音が立った。爪先の感覚が、冷たさに溶けて失われていく。十二歳の冬の氷の床のことを、ふと思い出した。あの夜、わたくしは冷たさの中で拍子を数えた。今宵も、数えればよいのだと思った。

右、左、右、左。

拍子は、やがて別のものへと変わっていった。

——ようやく。

大広間で呟いた四文字が、雨の中にも滲んでくる。

十年の務め。朝の礼法、午後の系譜、夜の帳簿。父がわたくしに期待したのは、王子妃となることだけではなかった。ヴァルトハイム公爵家の、北の領地と南の港と、隣国との銀の交易——あの均衡を、いずれわたくしの婚姻が結び目にするはずであった。その結び目が、今宵、解かれた。

解かれてしまえば、わたくしは、ただのソフィアに過ぎない。

雨が、薔薇色のドレスから色を奪っていく。濃い血の色のような、不吉な薔薇へと染まっていく裾を、わたくしは一度だけ見下ろして、また顔を上げた。

街道の脇に、古い楡の木が一本、立っている。その枝の下に、一瞬だけ身を寄せた。寄せた途端、鉄錆に似た冷えた雨が、枝からひと滴、首筋へ落ちてきた。

声を、立てなかった。

泣かぬ、と、決めていた。大広間でも、公爵邸の広間でも、泣かなかった。ここで泣いてしまえば、あの退出の礼の角度が、氷の床の上で数えた拍子が、すべて無意味になる。無意味なものを積み上げて生きてきたのだと、後になって自分に告げたくなかった。

握りしめた簪の先が、掌に浅く食い込む。

その痛みを、わたくしは有難く受け取った。

雨音の向こうから、低い馬蹄の音が近づいてきた。

四つ打ちの重い響き。軍馬のものだと、音だけで分かった。父の視察にも、護衛として同じ拍子の馬が幾度もついた。王都の外れの夜の街道を、軍馬が単騎で駆けることは、本来あってはならぬ。

わたくしは、楡の木の下から、一歩、街道へ戻った。楡の幹が背に冷たく、髪から雫がひと筋、襟の内へ伝い落ちた。

雨のとばりの奥に、漆黒の影が浮かび上がる。

馬の濡れた毛が街道の灯りに鈍く光り、鼻先から立ち上る湯気が、雨のとばりに薄く混じる。革鞍の軋みと、轡の金具の触れ合う澄んだ音だけが、しばらくのあいだ、雨音に重ねて響いた。

黒いマントを雨に重く垂らし、鐙に置かれた長靴の先に、磨き抜かれた銀の拍車がひとつ光っていた。面を伏せたその男は、わたくしの数歩手前で、手綱を引いた。馬が鼻を鳴らし、ひとつ大きく足踏みする。

面が、上がった。

雨の夜の闇の中で、銀灰の瞳が雫を透かしてこちらを見ていた。濡れた肩章の上、鈍く光るその家紋を、わたくしは知っていた。

——騎士団長、アレクシス・フォン・エルラッハ。

冷徹、と噂されるその男の、確かな眼差しが、わたくしの上で止まった。

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