第3話
第3話
馬の鼻息が、わたくしのすぐ目の前で白く立ち昇った。
漆黒の軍馬は、驚くほど近くに止まっていた。鞍の上から見下ろすアレクシス卿の影が、雨のとばりを黒々と裂いて、街道の灯りを背に負っている。そのマントの裾からは、絶えず雨粒がひと筋、ふた筋と落ち続けていた。
わたくしは、薔薇色のドレスの裾を踏みしめ、一歩も動かなかった。動けなかった、という方が正しい。この方の名を、わたくしは存じていた。王宮の回廊で幾度か、遠目にその銀灰の髪を見たことがある。けれど、面と向かって言葉を交わしたことは、ついぞなかった。
「ヴァルトハイム公爵令嬢で、お間違いないか」
低い声が、雨音を割って届いた。
「……ええ」
応じた自分の声が、予想外にかすれていた。喉の奥に冷たい雨が溜まっているかのようだった。
「こんな夜に、こんなところで、御身おひとり——」
そこまで仰って、卿は言葉を切った。続きを求める理路は、わたくしの全身がすでに語っていたに違いない。濡れそぼったドレス。髪から伝う雫。靴の底に貼り付いた泥。——答えは、問うまでもないのだ。
卿は、馬の首をわずかに撫でた。大きな軍馬が落ち着きを取り戻し、蹄を石畳に確かと下ろす。その仕草の静けさが、なぜだろう、わたくしの肩の力を、ほんの少しだけ抜かせた。
雨は、細く、しかし絶え間なく降り続けていた。
「濡れている。乗れ」
短い三つの句が、雨の夜にまっすぐ落ちてきた。
わたくしは、面を上げた。卿の瞳は、夜よりも深い銀灰で、そこには憐れみも、好奇も、何ひとつ滲んではいなかった。ただ、事実だけを告げる者の声であった。濡れている、という事実。乗れ、という指示。言葉の奥に含みを置かぬ、刃物のような静けさがあった。
「お気遣い、痛み入ります。——ですが」
言葉の続きを、わたくしは自分でも探していた。
ですが、わたくしには行くあてがございませぬ。ですが、公爵家を追われた身にて。ですが、卿の馬を汚すわけには参りませぬ。——いずれも、この場にふさわしい返答ではなかった。どの言葉も、雨に濡れすぎていた。
「行き先を問うている訳ではない」
わたくしの逡巡を、卿はそう切り取った。
「今宵、御身がここに立っている理由にも、関心はない。ただ、濡れている」
冷徹、と噂される通りの返答であった。けれど——けれど、不思議と、冷たくはなかった。冷徹とは、相手を冷やす者の謂いだと、わたくしは今日まで信じていた。卿の言葉は、そういうものではなかった。まるで、雨そのものに用件を問うような口ぶりであった。雨は、理由を問われて降るものではない。濡れる者は、濡れる理由を説明せずに、ただ濡れる。
唇が、うまく動かなかった。
わたくしは、握りしめていた簪を、指の中で一度、ぎゅっと確かめた。尖った先が、掌の肉に浅く食い込む。この痛みだけが、今宵、わたくしに残された唯一のたしかなものであった。
——大広間で泣かなかった。広間で抗わなかった。雨の街道で立ちつくした。それらを選んだ自分を、わたくしは裏切りたくなかった。
けれど。
楡の木の下で、ひと筋の雨が首筋に落ちたとき——あの瞬間、わたくしはすでに、この夜を独りで歩ききる力を、半分失っていた。
卿が、マントの内から、ゆっくりと右手を差し伸べた。
革の手袋に雨が沁みて、濃い色に変わっていく。その手は、軍馬の手綱を握るに相応しい、大きく、節の張った手であった。指先に、剣胼胝の厚みが薄く見えた。爪は短く切り揃えられている。貴族の装いの手ではなく、毎日、剣を握る者の手であった。
その手が、わたくしの前で、止まっていた。
降り続ける雨の中、差し伸べられた革手袋の上に、雨粒がひとつ、ふたつと落ちては弾けていく。弾けて散った雫が、街道の灯りを受けて、一瞬だけ小さな星のように光った。
手を取るとは、どういうことか。この手を取れば、わたくしは、ヴァルトハイム公爵令嬢ソフィアとして築き上げたものの、最後の一枚を手放すことになる。王子妃教育で叩き込まれた矜持。公爵家の娘としての気位。雨の街道で独りで歩き切れる強さ——そのすべてを、この節張った手の平に、預けることになる。
取らぬ、という選択も、まだ、残っていた。
取らずに、この街道を南へ歩き続ける。行き先はないが、歩くことはできる。朝までに、どこかの宿場に辿り着けるかもしれぬ。辿り着けぬかもしれぬ。——どちらであっても、それは、わたくしひとりの結末であった。
けれど、取らぬ、と決めようとした刹那、わたくしの胸の底で、静かに、ひとつの声が立った。
——今宵、わたくしはすでに一度、差し出される手を、失った。
大広間で、殿下はわたくしに手を伸ばさなかった。あの瞬間から、わたくしの手は、宙に浮いたままであった。十年、預けていた場所を失った手が、雨の中で、拳のかたちに凍えていた。
わたくしは、自分の前で、自分の矜持を保ちたかった。そしてその矜持は、もはや、独り雨中を歩ききることの中には、ない。
そう、気づいた。
震える指先で、卿の革手袋に、自らの指を重ねた。
冷たい雨が革と絹の間を隔てているはずなのに、その手はひどく温かかった。
「失礼、いたします」
囁くように申し上げた。卿は何も応えず、ただ、わたくしの手首を、しっかりと掴んだ。
次の瞬間、体が浮き上がった。
卿の腕の力は、わたくしの想像を超えていた。薄絹のドレスに雨をたっぷり吸ったわたくしの体を、卿は片腕一本で馬上へ引き上げる。鞍の前、卿の体と鬣の間の、ごく狭い場所に、わたくしは横向きに座らされた。
背中に、温かい何かが触れた。
卿のマントであった。卿は、ご自身の肩を覆っていた黒いマントを外し、わたくしの両肩へ掛けてくださったのだ。雨を弾く厚い毛織物の、内側の温もりが、たちまちわたくしの凍えた腕を包み込む。マントの襟からは、馬の汗と革の匂いと、それから、わずかな——雪の気配にも似た、乾いた香りが立ち昇った。香水の類ではない。持ち主自身の、気配であった。
「振り落とされぬよう、前の鞍頭を握っておけ」
耳元で、低い声が言った。
わたくしは、言われるままに、革の鞍頭を両手で握った。握った指が、雨で滑る。
「……それでは、足りぬ」
卿の左腕が、わたくしの腰の後ろに、そっと回された。力は強すぎず、弱すぎず——ちょうど、落ちぬために必要なだけの腕の重さであった。その距離感の正しさに、わたくしは、なぜか、喉の奥が熱くなった。
大広間で、殿下はわたくしの肩に一度も腕を回したことがなかった。十年の間、ただの一度も。十年間、わたくしが独りで立っていたことを、わたくしは、今宵この軍馬の鞍の上で、ようやく自分に認めた。
認めた途端、握りしめていた簪を、もう一度、強く掴み直した。
手綱が、鳴った。
漆黒の軍馬は、雨の街道を、ゆっくりと駆け始めた。
蹄の音が、石畳を打つ音から、やがて湿った土の音へ変わる。街道の灯りが次第に遠のき、両脇に黒い木々の影が流れ過ぎていく。雨のとばりは、馬の進む方向に向かって斜めに切り裂かれ、わたくしの頬を濡らしていく。
卿は、何も仰らなかった。
わたくしも、何も尋ねなかった。
行き先を尋ねるは、この方への最低限の礼儀に反するのだと、背中の温もりが教えてくれていた。この方は、「行き先を問うている訳ではない」と仰った。その言葉を、わたくしが反転させて差し上げる番だった。——わたくしもまた、あなたがわたくしをどこへ連れて行こうとしているのか、問わぬ。
馬の揺れに合わせて、卿の胸に、ほんのわずか背が触れては離れる。甲冑の下の鎧の硬い感触と、そのさらに奥にある確かな心臓の鼓動が、雨音を透して、わたくしの背筋に低く響いていた。
どれほど走ったであろう。
街道が分かれて、片側が森の闇の中へ吸い込まれていく地点で、卿は馬の首を左へ向けた。細い脇道を登っていくにつれ、雨脚が少しずつ弱まる。やがて、木立の向こうに、高い石塀が現れた。
塀沿いに、馬はしばらく駆けた。
その石塀の端に、ひときわ高い鉄の門が、夜の雨の中に静かに聳えていた。
門前で、卿は手綱を引いた。
軍馬が、鼻を鳴らして止まる。雨粒が、鉄の門扉を叩いて、澄んだ音を立てていた。
門柱の上に、見覚えのある紋が刻まれていた。銀の鷲が、剣の柄を掴んで翼を広げている——エルラッハ伯爵家、騎士団長アレクシス卿その人の、家紋であった。
「お帰りなさいませ、旦那さま」
門の内側から、低く抑えた声がひとつ。
返答の声もなく、ただ、軋む音さえなく、重い鉄の門扉が、ゆっくりと、内へ向かって開いていった。雨に磨かれた鉄の表面が、わたくしの背後の雨夜を映したまま、静かに、音もなく——。
わたくしを腕に抱えた冷徹の男は、その開かれた闇の中へ、無言で馬を進めた。
門扉が、わたくしたちを内へ入れて、ふたたび、音もなく閉じていく。
背後で、雨と街道の闇とが、ひとつの黒い帳となって、断ち切られた。