第1話
第1話
「ソフィア・ヴァルトハイム。お前との婚約を、この場にて破棄する」
第二王子エドガルドの声が、大広間の空気を縦にひとつ断った。
三百を超える蝋燭の明かりが、磨き上げられた大理石の床に波のごとく揺れている。その中央で、わたくしはただ背筋を保っていた。手にした扇の要を握る指先だけが、意思を置き去りにして細かく震えている。視線を落とせば、薔薇色のドレスの裾にひと筋、自分で知らぬうちに寄せた皺があった。
──十年。
その二文字が、胸の奥で静かに鳴った。
殿下の隣で、男爵令嬢リリア嬢が白い指を唇の端に添え、ほんのわずかに笑みをこぼした。勝ち誇る、という言葉は淑女には許されていない。けれど、あれはそう呼ぶよりほかに呼び名を持たない笑みであった。
「御意を、もう一度伺ってもよろしゅうございますか、殿下」
自らの声が、どこか遠い部屋で誰かが発したものめいて聞こえた。
「聞こえなかったふりも、お前には似合うまい。ソフィア、お前は冷たすぎる。夜会で微笑むこともなく、わたしの言葉にただ頷くだけ。わたしの心を温めたのは、この者だ」
殿下の手が、リリア嬢の肩にそっと回された。指輪を持たぬ、白い肩である。
大広間に並ぶ貴族たちの視線が、いっせいにこちらへ寄せてくる。扇の影から、金の刺繍の袖の奥から、耳飾りの陰から——無数の目。わたくしは数えぬふりをして、ただ正面を見続けた。目の端で、柱の陰に控えていた年若い侍従がそっと顔を背けたのが見えた。見ぬふりをしてくれる者がいる、ということが、かえって今宵のこの場の意味を、わたくしの中で確かなものにした。
「冷たい、と」
唇の内側で、そう繰り返すだけに留めた。殿下のお言葉を声に出して復唱するは、王子妃教育の礼法に背く。
冷たい、と仰った。
わたくしが覚えているのは、初夏の家庭教師の部屋。六歳のわたくしが六カ国の王家系譜を暗唱し損ね、細い鞭で手の甲を打たれた朝。開け放たれた窓から菩提樹の甘い花の香りが流れ込んでいて、その香りと鞭の音が、今も同じひとつの記憶として残っている。殿下は、その頃まだ揺り籠の方に近い御身でいらした。
十二歳の冬。舞踏の教師が、わたくしのステップの踵を掴み、氷の張った床に幾度も立たせ直した夜。薄絹の靴の底が冷たさを透してきて、爪先の感覚が失われたまま、それでもなお拍子を数えさせられた。「王家の方の御前で、爪先が鈍るなど、死に等しきこと」——教師の声は、わたくしに向けられたというより、氷そのものに向けられているかのように平らだった。殿下は、お好みの菓子を取り寄せていらしたと、後に侍女が笑って語った。
十六歳の春。王家の財政資料に目を通すうち夜半を過ぎ、蝋燭が尽きた明け方、指先が紙の縁にわずかに血を滲ませた朝。書架の窓から差し込む薄青い光が、紙の上の数字を淡く持ち上げて見せていた。北の領地の不作と、南の港の関税と、隣国との銀の交易差——それらをひとつの均衡に保つ筋道を、わたくしはひとりで辿っていた。殿下は、初めての夜会で男爵令嬢にお声を掛けられたと聞いた。
それらを、冷たいと、仰る。
「……ソフィア嬢が、おかわいそう」
誰かが扇の内で囁いた。誰の声かは存じあげない。
「いえ、殿下のお気持ちも分かりますわ。あの方、微笑まれたところを、わたくしは一度しか見たことがなくて」
応じた声の主が握る扇は、わたくしが十四の折に刺繍の手本として一度お貸しした、ブルボン公爵家の紋の入ったものであった。貸した方は、紋のことを覚えていらっしゃらぬらしい。
「笑わぬ方が、夜ごと帳簿を抱えていらしたと聞きますわ」
「帳簿を抱える王子妃など、どこの国にございましょう」
くすり、と短い笑いが、扇の裏でつづいた。わたくしの耳は、幼い頃から人の囁きの機微を拾うように鍛えられている。誰が、どの角度の口で、どの程度の悪意を滲ませたのか——手に取るように分かる。分かるがゆえに、聞かぬふりをする技もまた身についた。
唇の内側を、わずかに噛んだ。鉄の味がする。痛みは、ひどく静かに訪れて、かえってわたくしの背筋を整えた。
リリア嬢の、レースのあしらわれた袖が、殿下の腕に触れている。殿下は、その袖を払おうとはなさらない。あの袖の透かし模様は、この冬に流行った意匠であった。わたくしは、流行を追うよりも、北の国境の穀物収穫量を頭に入れる方を選んだ。
選んだ。
そう、これは、わたくしが選んできた結果なのだ。
胸の中で、何かが、小さな音を立てて折れた。
それは十年間、わたくしの芯に収まっていた細く強い糸であった。切れてみると、意外にもひどく軽い。軽すぎて、かえって呆気なかった。折れたものの行方を、胸のどこに仕舞えばよいのか——わたくしはしばし分からずに、ただ、折れた、という事実だけを両手で抱えて立っていた。
わたくしは、指の震えを止めることをやめた。止めようとするから震えるのだ。ただそこに在るものとして扇を握り直し、ひと呼吸、胸の下まで空気を落とす。鼻腔の奥に、蝋燭の蜜蝋の甘い匂いと、誰かの薔薇の香水が混ざって届いた。その奥に、ごくかすかに、雨の前の夜気の湿り気が紛れている。窓の外の夜が、いつの間にか季節の一枚を裏返そうとしているのが、匂いだけで分かった。
顔を上げた。
「殿下のご決断、謹んで承りました」
自分の声が、今度は自分のものとして戻ってきた。細くはあるけれど、震えてはいない。大広間の天井の彫刻にまで、音がまっすぐ届いたのが分かる。
ドレスの裾を、両の指でごく正しい角度にまで持ち上げる。右足を半歩退き、膝をわずかに折る。その角度も、爪先の向きも、十六歳の冬の舞踏教師が氷の床の上でわたくしに覚えさせた通りであった。背骨のひとつひとつが、十年の時間をかけて「こうあれ」と矯められてきた形を、今この瞬間のためにだけ記憶していたかのようだった。
完璧な、退出の礼。
「長らくのご厚誼、まことに有難く存じます。リリア様にも——ごきげんよう」
リリア嬢の笑みが、ほんのわずかに強張った。勝ち誇る者の顔は、相手が泣き崩れるのを前提として出来ている。崩れぬ者を前にしたとき、その顔はただ据わりの悪い仮面になる。彼女の瞳の奥で、ひとつ、戸惑いの光がよぎったのを、わたくしは見逃さなかった。
殿下は、何か仰りかけて、結局、何も仰らなかった。
大広間は、水を打ったように静まっていた。蝋燭の芯が、どこかでぱちり、と短く爆ぜる音まで聞こえるほどの静けさであった。
──ようやく。
心の奥で、わたくしはそう呟いた。
ようやく、この十年が、終わる。
朝ごとに家庭教師の部屋へ通う廊下。寒い石の床に膝をついて覚えた礼法。指の血を拭いた絹の布。殿下のためと自らに言い聞かせて重ねてきた、あらゆる小さな断念——その一切が、今宵、殿下ご自身の口から、要らぬと告げられた。
要らぬのなら、捨ててよい。
そう、殿下がご自身で、仰せになったのだ。
わたくしは、もう一度、静かに頭を垂れた。
「それでは、失礼いたします」
踵を返す。
扉へ向かう一歩一歩、床の大理石が、わたくしの靴音を、二度、三度と返してきた。背後のざわめきは、波が引くように広がっていく。誰かが何かを囁いている。殿下のお声がもう一度、わたくしの名を呼びかけたような気もしたが、振り返らなかった。
振り返る権利は、もう、わたくしには無い。
扉の外へ出ると、回廊の高い窓から夜の気配が押し寄せていた。
遠くで、雨音が始まっている。石畳を打つ細い音が、王宮の深い廊下の奥まで届いていた。
馬車寄せに、父の執事ヨハンが待っていた。年老いたこの男は、わたくしが子供の頃から仕えてくれている。いつもは、わたくしと目を合わせると、無言のまま一礼をして扉を開ける——それだけの男だ。
けれど今宵、ヨハンは目を伏せたまま、なかなか扉に手を掛けようとしなかった。
「ヨハン、どうかなさいまして」
「……お嬢さま」
しわがれた声が、わたくしの名の代わりに、お嬢さまと呼んだ。その呼び方を、彼は久しく使っていなかった。
「奥様が——お帰りを、お待ちでございます」
継母の名を、彼はそう呼んだ。
雨の匂いが、いっそう濃くなった。