第2話
第2話
王都を出てから三時間、日輪はちょうど中天を過ぎていた。
馬車の革帯が車輪の振動を吸い損ねるたび、座席の革が私の腰骨を叩いた。卒業式典の正装のまま、まだ着替えていない。胸元の刺繍に縫い付けられた小粒の真珠が、揺れるたびに鎖骨の窪みに当たり、薄い痛みを残す。手袋の中の指先は相変わらず冷えていて、革の縫い目の感触すら遠かった。
掌をもう一度開いてみる。先ほどの霜は跡形もなく消えていたが、皮膚の表面には星の地図のような薄い線が、汗の塩のように残っていた。指の腹でなぞると、ざらりとする。
「お嬢様」
御者台側の小窓から、ハンスが声を寄越した。「ベルウィン渓谷に差し掛かります。お休みになられるなら、今のうちに」
「いえ、起きています。森に入る前に、外套を一枚」
「すぐに」
膝掛けが差し込まれる前に、私は窓の覆い布をわずかに上げた。王都を取り囲む第二街道は、春の浅い緑がようやく芽吹いた灌木に縁取られている。樹皮の匂いが土埃と混じって鼻先に届いた。例年なら巡回騎士団の旗が三本は立っているはずの分岐点が、今日は無人だった。
──脚本通りなら、ここだ。
胸の奥で、前世の記憶が静かに頷いた。原作ゲームの第二章、婚約破棄の翌日、悪役令嬢セレスティアの帰路を襲うのは「赤狼の手」と名乗る盗賊団。攻略本の地図には、森に入って二町ほど進んだ第三のカーブに「★」印が振られていた。私が生存ルート考察の表を更新するたび、何度も指でなぞった印だ。
カーブが視界に入った瞬間、左手の灌木が不自然に揺れた。
ハンスの「伏せて」の声が一拍早かった。馬の嘶きと同時に車軸が一度大きく跳ね、御者の悲鳴が短く途切れる。私は座席の縁を掴んで姿勢を保ち、膝で扉を蹴り開けた。革手袋を顎で噛んで脱ぎ捨てる。
冷えた春の空気が、剥き出しの掌に粘った。
五人——いや、六人。最初の一人は御者台の真上に飛び乗り、長刀を御者の首に当てている。残りの五人が左右の灌木から踊り出て、馬車を半円に取り囲んだ。粗末な革鎧の継ぎ目から、汗と獣脂の匂いが立ち上る。先頭の男は無精髭の下で唇を歪め、こちらに刃の腹を向けた。
「公爵令嬢のお下がりだ。命まで取りはしねえよ、お嬢様」
──口上まで原作通りか。
私は扉の縁に左足を掛け、馬車から降り立つ動作の途中で、右手の人差し指を地面に向けた。詠唱はしない。封印の劣化が始まっている血流に、薄く意思を流すだけでいい。
地面の表土が、霜柱の音を立てて持ち上がった。
馬車を中心とした半径八歩の円周に、白い網目が一瞬で描かれる。網目はそのまま膝下までの高さに伸び、盗賊たちの脛と足首を綯い合わせるように拘束した。鞘から長刀を抜きかけていた先頭の男の右肘が、関節の位置で凍りついて止まる。彼が悲鳴を上げる前に、私は人差し指を一度だけ横に薙いだ。
──音もなく、彼らの口元に薄氷の轡が掛かった。
呼吸はできる。声は出ない。前世で読んだ救急医学の入門書を、私の指は勝手に再現していた。気道は塞がず、声帯のみを冷却で麻痺させる。痛みは伴うが、肺は損なわない。
「ご静粛に」
低く、母音を長く。卒業式典で覚えたばかりの公式礼の発声で、私は六人に告げた。「私はあなた方を殺さない。理由は二つ。一つ、殺せば後始末の書類が三十二枚増える。二つ、馬車の床に血を流されると、革の張り替えに半年かかる」
冗談ではなかった。前世の事務処理感覚と、今世の家政感覚が、奇妙に一致して舌の上に並んだだけだ。
ハンスが御者台から飛び降り、御者の首から長刀を引き剥がした。盗賊の右腕は肘から先が氷塊になっており、長刀ごと地面に落ちて鈍い音を立てる。御者は喉を押さえて咳き込んでいるが、出血はない。
「お嬢様、後ろの森にあと二人」
「弓兵ね。射線を切って」
ハンスが馬車の影に御者を引き摺り込む間に、私は森の方角に向けて掌を開いた。指先から立ち上がった霧が、湿った空気を吸って一瞬で広がり、樹間に乳白色の幕を張る。視界遮断。原理は単純で、霧の粒子径を意図的に揃え、光の散乱を最大化するだけ。前世の高校化学で学んだチンダル現象の応用だった。
森の中で、矢を番える木のしなりが二度、空振りに終わる音がした。
戦闘が終わるまで、二十秒もかかっていなかった。
私は地面の網目を解き、盗賊たちの足首を解放した。氷の轡だけは残したまま、後ろ手で縛り上げる作業をハンスに任せ、先頭の男のそばに膝を折る。
男は震えていた。
凍結した右肘から先は、もう感覚が戻らないだろう。見れば、左手の指先まで紫色に変わりかけている。氷魔法の二次冷却が、想定より速く伝播していた。封印の劣化で、出力の制御が雑になっている——私は唇の内側を噛んだ。脚本通りに済ませるはずが、余剰の冷気を撒いてしまった。
革手袋の片方を地面から拾い上げ、男の左手の掌に滑り込ませた。それから胸元の懐——卒業式典の正装には、儀式用の温石が一個、忍ばせてある。母から受け継いだ習慣で、長時間の式典で末端が冷える令嬢のための小さな備えだ。私はそれを取り出し、手袋の中に押し込み、男の指を握らせた。
温石は、まだ私の体温を移し替えたまま、ほのかに温かかった。男の指の関節がわずかに緩み、握り込んだ革手袋の中で、温石の角がかすかに動く音がした。私の体温と男の体温の境界が、薄い革を一枚隔てて、互いに探り合うように溶け合っていく。男の喉仏が大きく上下し、轡の縁から漏れた呼気が、自分の指先に当たって白く曇った。
「凍傷の境目は、皮下二ミリで止まっています。これを離さなければ、指は残る」
男は目を見開いたまま、声にならない息を吐いた。轡で塞がれた口の隅から、薄い唾液が一筋垂れる。私は男の視線を真正面から受け止め、それから残りの五人にも視線を順に巡らせた。
懐炉用の灰を詰めた油紙の小袋。これも母譲りの備えで、長時間の馬車移動で足先が冷えるのを防ぐためのものだった。私は五人の足元に、それぞれ一袋ずつ、外套の裾の影に隠れる位置に放り落とした。彼らが後ろ手に縛られた姿勢のままでも、足の甲で踏みしめれば、薄い暖が沁みてくるはずだ。油紙の擦れる微かな音と、灰の中で鉄粉が酸化を始める乾いた匂いが、潰した革鎧の汗の匂いに重なった。一人の若い男——まだ少年といっていい年頃の——が、震える顎で何か言いかけ、轡に阻まれて喉の奥でくぐもらせた。礼か、呪いか、判別はつかなかった。判別する権利が私にあるのかも、わからなかった。
なぜ、こんなことをするのか。
理由は、私自身にもまだ言葉になっていなかった。脚本では、ここで盗賊は私の冷酷さを語り継ぐ証人となり、辺境追放後の「氷の人形」評をさらに固める役割を果たすはずだった。けれど、彼らの紫色の指先を見た瞬間、私の手は勝手に動いていた。前世の私が、駅前の交差点で見知らぬ老人に席を譲り損ねたまま、信号を踏み切ってトラックに潰された——あの未練の残響が、今世の指先を動かしている気がした。
償いではない。投資でもない。凍えた指を見て手を出さずにいられるほど、私は完成された悪役にはなりきれなかった。それだけのことだ。
馬車の車輪を点検していたハンスが、いつの間にか私の背後に立っていた。彼の灰色の瞳が、私の左手と、地面に転がった油紙の小袋を、順に見ていた。
私は立ち上がり、外套の裾の土を払った。
「ハンス、巡回騎士団の最寄詰所に伝令を。盗賊六名、軽傷で身柄を確保したと」
「……承知いたしました」
老執事は一拍だけ、口を閉じた。それから、本当に低い、独り言とも問いともつかない声で呟いた。
「お嬢様は——本当に、冷血なお方なのでしょうか」
私はすぐには答えなかった。喉の奥で、答えになりそうな言葉がいくつも形を結びかけては、舌の手前で凍って崩れた。
風が一陣、森の梢を渡った。私は背を向けたまま、馬車の踏み台に足を掛けた。
「ええ。私は冷血よ、ハンス。冷血でなければ、領地は守れない」
掌の温石の余熱が、まだ指の腹に残っていた。革手袋を嵌め直すと、その温もりは布越しに、ゆっくりと薄れていく。馬車が再び動き出す。窓の外を流れる森の影が、夕刻の光で長く伸び、私の白い指の輪郭を、薄く青く染めていた。
辺境までは、まだ一日半の距離があった。