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白氷公爵令嬢、脚本を書き換える

第3話 第3話

第3話

第3話

辺境の空気は、王都のそれよりも重かった。

馬車の車輪が領境の石碑を越えた瞬間、鼻腔に粘る匂いが変わった。湿った土と若草の香りではなく、腐った卵に似た硫黄混じりの何か——瘴気、だった。前世の化学知識を総動員しても、即座に分解式を組めない類の、生理的に嫌悪を催す匂い。喉の奥が痒くなり、反射的に唾を飲み込んだ。舌の根に苦い金属味が残る。

「お嬢様、布をお口に」

御者台側の小窓から、ハンスが絹の布を差し込んだ。卵白の水で湿らせた濾過布は、領地に近付く三時間前から私が指示して準備させた備えだ。口と鼻を覆う。息のたびに布の繊維が鼻先を撫で、卵白独特の微かな甘みが、瘴気の硫黄臭を半分ほど遮ってくれる。

窓の覆い布を上げた。

アルディシア辺境領、南部の麦畑——のはずだった。

褐色に焼けた地面に、麦の株は茎の根元を残して倒伏し、葉先の緑は銅錆の色に変わっている。用水路の縁に沿って、薄紫の苔のようなものが這い広がり、光の加減で粘液質に光って見えた。畑の端には粗末な櫓が組まれ、襤褸を纏った男が一人、長い棒を手に立っていた。目深に巻いた布の下で、彼の目はこちらの馬車を追うでもなく、ただ空の一点を見ている。

春先の耕起の季節に、人が立ち尽くす理由を、私は知っている。

「……三割、駄目か」

独り言が、喉の布越しに漏れた。瘴気に晒された土壌の最初の兆候は、微生物叢の崩壊と、窒素固定菌の死滅。苔に似た粘液は、日和見的な嫌気性菌が水路の鉄分と反応した結果だろう。対処の順序は決まっている。土壌のpH測定、石灰による中和、輪作の休耕年への切り替え、そして——

そこまで組み立てた瞬間、脳裏に浮かんだ単語に、私は短く息を止めた。

予定調和。原作ゲームの第二章後半で、アルディシア領は「呪いの地」として描写されていた。セレスの追放先に用意された舞台装置、物語上の「詰み」の象徴。画面の片隅の立ち絵の背景に、褐色に焼けた畑と、櫓の上の痩せた男が確かにいた。あれは、脚本の装飾ではなかったのだ。

馬車は領都の城門をくぐった。石畳の凹凸が車軸を通して腰に響く。城門脇の衛兵は私の紋章を認めて敬礼したが、その腕の挙げ方が去年までより明らかに遅い。彼の革鎧の継ぎ目には、野営の煤がこびり付いていた。詰所に戻らず、門の警備を掛け持ちで続けている——そういう疲弊の痕跡だ。

城館の正面階段を上がる途中で、家令のグレーヴェンが駆け寄ってきた。六十に届く老人が、束ねた書類を抱えたまま小走りしている時点で、事態の質が分かる。

「お嬢様、お早いお戻りで。道中——」

「盗賊は六人、軽傷で騎士団に引き渡した。それより、状況を」

「は、はい。では執務室で」

階段を上がりながら、ハンスが背後で荷を降ろす指示を出す声を聞いた。私は卒業式典の正装のまま、革手袋も外さず、執務室の扉を押し開けた。

机の上の書類の山は、私の腰の高さまであった。

「南部の麦畑、三割が瘴気で駄目になっております。東部の牧草地も、今朝の報告で五頭の羊が突然死。北の国境詰所からは、魔物の徘徊報告が先月の倍」

グレーヴェンが一枚ずつ書類を差し出す。私は座りもせず、机の縁に腰を預けて受け取った。紙の角が、指先の冷えた皮膚に刺さる感覚が鋭い。

「徴税官は」

「再来月の初旬に。王都から、本年度分の繰り上げ徴収の通知が届いております」

「額は」

「昨年度比で、二割増」

二割。まだ畑の三割が倒伏しているのに、二割増。前世の記憶が、荘園制の崩壊パターンを即座に呼び出してきた。耕作能力を超えた年貢は領民の逃散を招き、逃散は年貢の二次的減少を招き、領主はそれを補うためにさらに搾り取る——悪循環の入り口で、今、私は立っている。

「グレーヴェン。南部の倒伏した三割は、今週中に鋤き込ませて。焼き畑にはしない、浅く鋤くだけ」

「……しかし、来期の作付けが」

「来期は、あの区画は麦を蒔きません。豆科を植える。具体的には、古い文献で読んだ、窒素を土に戻す草本を」

舌が滑りかけ、私は咳払いで誤魔化して別の書類に指を移した。

「東部の羊。遺体は焼却済み?」

「これからでございます」

「待って。一頭分だけ、胃の内容物を確保して。瘴気の中身を、私が直接見ます」

家令の白い眉が、わずかに上がった。公爵令嬢が獣の胃を検分する——この世界の貴族の常識からは外れている。けれど、前世の私は微生物学の単位を二度落としたことがあった。落としたからこそ、覚えている。培地の作り方、染色の手順、倍率。城館の書庫に、先代が趣味で集めた医学書の棚があったはずだ。

指先の冷えが、ふと、集中に変わった。脳だけが奇妙に澄んでいく、あの感覚が戻ってくる。

書類の三枚目を捲ったとき、執務室の扉が叩かれた。

「失礼いたします。北部詰所より、急報」

入ってきたのは、泥だらけの伝令だった。革鎧の胸に泥が飛び散り、頬には血の跡が一筋、眉の上から顎まで走っている。私が目顔で促すと、彼は片膝を折り、書状を差し出した。

「国境線、第三砦、本日正午に——魔物の群れの接触を確認。規模、推定で百を超えます」

グレーヴェンの口から、小さな呻きが漏れた。百を超える魔物の群れは、辺境領の常備兵力では抑えきれない。王都に救援を要請する手続きがあるが、早くて十日、それまでに国境線は崩れる。

私は書状を受け取り、封蝋を爪で割った。指先がかすかに震えた——恐怖ではない、高揚だ。凍えた盗賊の指に温石を握らせたあの瞬間から、自分の身体が何かの段取りに向かって加速し続けている。その加速の正体を、私はまだ言葉にできずにいた。

書状の下に、別の封書が重ねて差し込まれていた。

王家の紋章。

──来た。

私は封書を机に置き、封を切らずに指先で表書きをなぞった。「公爵令嬢セレスティア・フォン・アルディシア殿、至急王都への帰還を命ず」——裏を見ずとも、内容の予想はついた。原作では、婚約破棄の翌週、王家は追加の召喚で悪役令嬢を呼び戻し、公衆の面前で改めて辺境追放を宣告する。その二回目の断罪が、この国の「悪役令嬢に対する正しい処理」として貴族社会の記憶に刻まれる段取りだった。

脚本通りなら、私はこの召還に応じて、王都で二度目の恥を晒すはずだ。

私は封書を、机の端まで指先で押しやった。そのまま、指の腹で一度だけ弾いた。封書は机の縁を越えて、脇の文箱の中へ、乾いた音を立てて落ちた。

「お、お嬢様……!」

グレーヴェンが目を剥いた。王家からの召還状を開きもせずに脇へ退けるのは、公爵家の家政上、極めて危険な判断だ。私はその反応を視界の隅に入れたまま、伝令の青年に向き直った。

「地図を広げて。第三砦の布陣、現在の兵力、敵影の接近速度。十分でいい、私に説明して」

伝令は一瞬、家令を見てから、慌てて腰の革袋から地図を取り出した。

「グレーヴェン。厩の早馬を二頭。私が直接、北へ出ます」

「なりません、お嬢様! 瘴気の分析と、徴税の交渉と——」

「瘴気は逃げない。徴税は十日ある。魔物は、今日来ている。優先順位は明らかよ」

私は革手袋を外し、地図の上に掌を広げた。指先から、薄い霜が地図の紙を撫でるように滲み始める。砦の位置、国境線、魔物の想定進行経路。前世で読んだ陣形論の教科書が、頭の中で自動的に頁をめくった。

召還状は、文箱の底で、封も切られぬまま冷えていた。

伝令の説明が終わる頃には、窓の外は既に藍色に沈みつつあった。

私は革手袋を嵌め直し、執務室の扉に向かって歩きかけて、一度だけ、脇の文箱を見下ろした。王家の封書は、他の事務書類の下に半ば埋もれ、白い角だけが覗いている。その白さが、さっき弾いたときと同じ角度で、動かないままだった。

「ハンス、軽装で。私も帯剣する。防寒具は北部仕様、温石は二個、絹の濾過布は全員分」

扉の向こうから「御意」の声が返る前に、私は階段を駆け降りていた。絹靴の踵が石段を打つ音は、卒業式典の回廊で数えた歩幅とは違うリズムを刻んでいる。掌の中に、卒業式典の朝に咲いたあの薄氷の結晶が、また一枚、勝手に立ち上がりはじめていた。

今度の結晶は、城門を抜けるまでに、刃の形をしていた。

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