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白氷公爵令嬢、脚本を書き換える

第1話 第1話

第1話

第1話

扇の骨が軋む音を、私だけが聞いていた。

握りしめた指の力で、白檀の細工が今にも砕けそうだった。シャンデリアの蝋燭は六十四本、王立学院の大広間に集った卒業生は百四十二名、その全員の視線が壇上の私に縫い止められている。塗り込めた白粉の下で、頬の血流がゆっくりと退いていくのが分かる。

「セレスティア・フォン・アルディシア。お前との婚約は、本日この場をもって破棄する」

王太子レオンハルトの声は、第三鐘の正午を告げる鐘楼よりも涼やかに響いた。傍らに寄り添う銀髪の男爵令嬢が、申し訳なさそうに俯く所作までもが、入念に練習されたものだと一目で分かる。私は無言で扇を閉じ、胸の前で交差させた。儀礼に従えば、婚約破棄の宣告に対する令嬢側の応答は、片膝を折る形式の半礼で受けねばならない。

「謹んで、承りましてございます」

声を低く、母音を長く。十二歳から十八歳まで、六年間叩き込まれた公式礼の発声を、舌が勝手に再現する。半礼から立ち上がる動作のあいだ、回廊の柱を一本ずつ数えるようにして視線を落とした。誰の顔も見ない、ということだけを決めていた。

笑い声が広間の隅から伝わってきた。最初は遠慮がちに、やがて遠慮を捨てて。「冷血の魔女」「氷の人形」——四年前、王家の宝物殿に押し入った賊を全身鎧ごと凍結し、踵で踏み砕いた一件以来、私の渾名はそう定まっていた。今、その鎧の代わりに、私自身が嘲笑の的になって砕かれている。それだけのことだ。

──ご安心を、と内心で誰にともなく呟く。

砕け散ってなお、欠片の一つひとつは、まだ私の意思で動く。

退場の足取りは、つとめて公爵令嬢らしくゆるやかに整えた。回廊の長さは三百十二歩、過去の登殿日に数えた歩数の通りだ。歩幅さえ守れば、誰にも背を向けて走り去ったとは言わせない。履きなれた絹靴の踵が大理石を打つ音は、自分の鼓動より一拍遅れて返ってくる。左手の壁龕には、聖典朗誦のための香炉がいまだ細く煙を立てており、白檀と乳香の混じった匂いが、私の白粉の匂いと競うようにして鼻腔に届いた。廊下の片側に並ぶ硝子窓から差し込む春の光が、絨毯の赤を朱に近い色まで持ち上げ、私の影だけが場違いに長く伸びている。影の輪郭は、私が一歩進むたびに少しずつ歪み、まるで本人より先に逃げ出したがっているように見えた。

途中、見知った顔の貴族令息たちが脇によけて道を空けた。視線は遠慮がちに私を盗み見るが、誰一人として声を掛けない。半月前まで、私の手の甲に額づいて挨拶していた男たちだ。婚約者の地位を失った瞬間に、人の顔の向きはこうも素直に変わる。怒りはなかった。むしろ、ある種の整合性に納得していた。乙女ゲームの予定調和に従うなら、彼らは私を断罪する側に並ぶ駒で、ここで距離を取るのは脚本通りの動きでしかない。彼らの礼装の腰には、私の家紋を象った銀の小飾りが下げられている者もまだいて、その細工が外されるのは今夜の晩餐までだろうと予想がついた。

──乙女ゲーム。

その単語を頭の内側で噛みしめると、こめかみの奥に微かな痺れが走った。私はそれを意識から押し戻し、執事のハンスが控える扉の外まで歩いた。

「お嬢様」

ハンスが帯剣の柄に手を添えたまま、低い声で呼んだ。皺の刻まれた顔の中で、灰色の瞳だけが鋭く回廊の奥へ向けられている。彼は宣告の現場には入れなかったはずだが、扉越しの空気だけで全てを察したらしい。

「殺気を抑えて、ハンス。あなたの剣が抜かれる場面ではないわ」

「……御意」

帯剣の手が静かに離れる。私はその所作だけで、彼に過剰な労いをせずに済んだことに安堵した。

「馬車を。領地まで二日で戻ります」

「夜駆けは護衛の負担が」

「構いません。先発の三騎は別動で、私はあなたと小型の二頭引きで先に発ちます。本隊は明朝に追わせて」

ハンスは一拍だけ目を伏せ、すぐに「承知いたしました」と頷いた。彼の判断の早さに救われたことは、これまで数えきれない。祖父の代から仕えるこの老執事は、私が四歳で初めて氷を出した夜、震える私の指を毛布で包んだ唯一の人間だ。問わず、評さず、ただ動く——その三つを六十年余りで一度も外したことがない。

回廊を抜け、車寄せまで降りる石段の途中で、ようやく自分の指先が冷えていることに気づいた。卒業式典の広間は暖炉が四台焚かれていたはずなのに、指の節から先の感覚が遠い。氷魔法の触媒として動かしてもいない時間に、これほど末端が冷えるのは妙だった。

外気は思いのほか暖かい。三月初旬の王都は、朝霧が引いた後の石畳に、薄く湿った苔の匂いを残している。私は石段の最下段で立ち止まり、革手袋を外して掌を広げた。

掌の中央に、紙のように薄い氷の結晶が一片、勝手に立ち上がっていた。

呼吸が、止まる。

私の魔力は、意思の発露を伴って初めて発動するはずだった。学院の魔導概論で散々叩き込まれた基礎中の基礎だ。詠唱なし、術式なし、意思なしで結晶化することなど、本来あってはならない。

掌の氷片を凝視した瞬間、首の後ろから何か温いものが流れ込んできた。それは血ではなく、記憶だった。

——ぐしゃり、と肉の潰れる音。

——アスファルトの匂い、油の浮いた水溜まり、誰かの悲鳴、降り注ぐ光、自分の身体だったものが段ボールのように軽く跳ね上がる感覚。

——救急車のサイレンが遠ざかる方向、見上げた信号機の青の点滅、誰かが「動かさないで」と叫ぶ声、その声が遠ざかっていく感覚。前世の私は二十二歳、駅前の交差点を信号無視のトラックが横切った、それだけの事実が、順序を伴って戻ってきた。学費の振込用紙を握ったまま赤信号を踏み切った愚かさまで、丁寧に思い出せた。

『セレスティア・フォン・アルディシア』。攻略対象七名、悪役令嬢一名、第二章で婚約破棄、第四章までに辺境追放、最終章で凍土に沈む——画面の隅に小さく表示された立ち絵、深夜まで読み込んだ攻略wikiの考察スレッド、誰よりも早く私が立てた「セレス嬢生存ルート」のフラグ整理表。十七のときに二十四時間で書き上げて、感想欄が荒れに荒れて、結局自分でログを保存した、あの一覧表。

掌に視線を戻した。氷片はまだ溶けていない。私の体温の中で、それは形を保ったまま、薄青い光を帯びている。

「……死んだのか、私」

呟いた声は、誰にも聞かれなかった。

ハンスが車寄せから「お嬢様」と呼ぶ声が遠い。指先まで広がっていた冷えが、急に意味を持って感じられた。これは末梢の不調ではなく、血そのものが応えはじめている兆しだ。代々アルディシア家に封じられてきた古代魔法——封印の経年劣化を疑う論文を、私は学院の図書館で何本か読んだことがある。封印が緩むときの初期症状は、無詠唱での氷の自然結晶と、術者本人の末端冷却。一致している。

私は革手袋をゆっくりと嵌め直し、氷片を掌の中で握り込んだ。結晶が砕け、冷気が指先から腕の付け根まで一気に駆け上がる。痛みはなかった。むしろ、輪郭がはっきりと戻ってくる感覚があった。皮膚を通して骨に達する冷たさの中で、思考だけが奇妙に澄み渡っていく。冷却された脳のほうが、命令の組み立ては早いらしい——前世で読んだ覚えのある一節が、別人の声で頭の奥に再生された。

馬車の踏み台に足を掛けた瞬間、私は自分の唇が薄く、笑みの形にひずんでいることに気づいた。

脚本は読み終えている。第四章までに辺境追放、第七幕で凍土に沈む。それが定められた筋書きなら、追放を「敗走」ではなく「進駐」として読み替えるところから始めればいい。輪作の知識、製鉄炉の設計、瘴気に対する単純な化学的処置——前世で何の役にも立たないと思っていた読み散らかしの全てが、いま私の手札に並び替わっていく。

「ハンス、急ぎなさい。私たちに残された時間は、思っていたより少ない」

「……何か、ございましたか」

「ええ。脚本を、書き換えます」

執事は意味を問わず、御者台へ視線で合図した。扉が閉まり、車輪が石畳を噛んだ。窓の外で、卒業式典の鐘が、まだ間延びした余韻を引いている。

私は座席の革に背を預け、掌をもう一度開いた。皮膚の表面に、薄い霜が、星の地図のように広がりはじめていた。

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