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氷の令嬢、雪国の皇帝に見初められる

第2話 第2話

第2話

第2話

馬車の窓に、夜霧が貼りついていた。

街灯の黄色い光が、霧の粒を一瞬ずつ照らしては、すぐに闇へと吸い込まれていく。車輪が石畳の継ぎ目に落ちるたび、背の革張りの座面から硬い振動が尾骨へ突き上げた。馬蹄の音が、父と私のあいだに横たわる沈黙に、冷たい釘を打ち込むように響いている。

「家名に泥を塗った娘は、もはや公爵家には要らぬ」

父のお言葉は、もう耳の奥で三度、反芻されていた。それでも、涙腺は凍りついたまま、ひとすじの湿りもこぼさない。私は膝の上で組んだ両手の、白絹の手袋越しに、自らの指の冷たさを数えていた。右の指先が、左の薬指のくぼみを、幾度も撫でている。そこにあるはずの金の環が、もう、ない。

「……はい、お父様」

返せたのは、それだけだった。

父はこちらを見ない。向かいの席に深く腰を下ろされたその横顔は、馬車の揺れに合わせて、街灯の光で一瞬ずつ切り取られる。白髪混じりの鬢、引き結ばれた口元、襟元の公爵家の徽章——すべてが、私の知るヴァンフィールド公爵その人であり、そして、もう父ではなかった。

車内には、蜜蝋の匂いと、父の外套に沁みた葉巻の残り香が充ちている。幼い日、この匂いを嗅ぐたびに、私は父の膝に駆け寄ったものだった。あれは、いつまでの話だったろう。十の冬、王妃殿下の御前で涙の稽古を強いられた日を境に、私の踵は父の書斎の扉の前で、止まるようになった。

馬車が公爵邸の門をくぐる。砂利を踏む音が、石畳の響きより、いくぶん鈍い。

屋敷の窓々は、半ばの灯りしか点っていなかった。主が婚礼の祝宴から戻られるはずの夜を、使用人たちは慎ましく待っていたのだろう。玄関の階段を昇る父の背中は、いつもより心なしか速く、私はその二歩後ろを、ドレスの裾を片手で持ち上げて従った。

父の書斎に通された。

蜜蝋と古い羊皮紙の匂いが、鼻の奥にずしりと落ちる。幼い頃、外交文書の写しを指でなぞっていた、あの黒檀の卓。六年前、ラウル殿下との婚約の誓紙に署名したときと同じ羽根ペンが、今も硝子の筆立てに挿されている。父は机の向こうに立ち、私を座らせようとはされなかった。

「クレア」

はい、と応じたとき、自分の声が思ったより乾いていることに、私自身が小さく驚いた。

「辺境のフェンリスへ、明朝発て」

フェンリス。

地図上で指を走らせたことはあった。北の国境に近い、雪深い山懐の領地。ヴァンフィールド家が名ばかりに抱え、代官に任せきりで父の足すら十年以上踏み入れぬ土地である。冬は三分の二、収穫は乏しく、寄り付く者もない。

「……承知いたしました」

私は頭を下げた。下げるほかに、答えようがなかった。

「荷は、必要最小限。供の侍女もつけぬ。公爵家の紋章のついた品は、一切、持って出てはならぬ」

「かしこまりました」

「婚約破棄の次第は、明朝には王都の端々にまで広まっていよう。ヴァンフィールドの名を名乗ることは、当分、許さぬ」

私は、なお頭を下げたままでいた。

父の指が、卓の上で小さく一度、打ち鳴らされた。私は知っている。この指の打ち方は、父が怒りと失望を同時に押し殺すときの、癖である。幼い日、外務省の使者を退けたあとに、父はいつもこの音を立てた。卓の木目を爪が叩く乾いた響きは、私の幼心に、決断の音として刻まれていた。

「……殿下に差し出した書状は、何だ」

「はい」

「王家の通商協定の写しである、と、先刻、宰相閣下の使者が参った」

父の声に、はじめて細い刃のような光が通った。書斎の燭台の炎が、その光に応じるように、ふっと一度伸び上がった。

「三年前の、ルヴェリア帝国との関税免除条項の、第七条。期限明記の欠落した、あれか」

「さようにございます」

「——あれを、なぜお前が持っていた」

「お父様の書斎で、婚約者として外交文書に目を通しておりました折、第七条の写し落ちに気づきまして、念のために写しの一葉を、手元に取っておりました」

父の沈黙が、ほんのわずか、深くなった。私は顔を上げなかった。顔を上げれば、父の目に浮かんでいるものを、見たくないものまで見てしまう気がした。卓の縁に揃えた指先が、絹の手袋のなかで、湿りはじめているのを感じる。

「……その書状を、宰相ではなく、殿下に直接、差し出したのだな」

「はい」

「わかって、やったのだな」

私は、初めて顔を上げた。父の瞳は、思っていたよりも、ずっと静かだった。怒りでも、失望でもない、何か——測るような、確かめるような、薄い灰色の光が、そこにあった。

「——わかって、いたしました」

父の眉が、ほんの一瞬、ゆるんだ気がした。しかしそれは、闇のなかで燭火が一度揺れたほどの、かすかな気配にすぎなかった。

「宰相閣下は、すでにお動きでございましょう。王家は、半年と経たぬうちに、この不備の始末をつけねばなりません。マリエル嬢を王太子妃に据えられるかどうかは、その始末の手際次第——殿下御自身のお目で、第七条を繙かれる夜が、幾晩続くことになるか」

父は椅子の背に、どすりと身を預けられた。革の擦れる音が、思いのほか大きく書斎に響き、燭台の炎が、わずかに傾いだ。

「……お前は、復讐のつもりで、あれを置いてきたのか」

「復讐、ではございません」

「では、なんだ」

蜜蝋の匂いのなかで、ろうそくが一度、芯を爆ぜさせた。火花が小さく散り、卓上の羊皮紙の縁に、橙の影をひととき投げて消えた。私はその影が消えてから、ひと呼吸置いて、口を開いた。

「——置き土産、と申し上げてはいけませぬか」

父の顔に、何かが通り過ぎた。それが憐憫であったのか、苦笑であったのか、私には判別がつかなかった。父はただ、片手をゆるく振って、私を下がらせた。書斎の扉を閉める間際、振り返ると、父はもう私のほうを見ず、机上の羊皮紙のひと束を、ゆっくりと指で繰りはじめていた。その背中が、いつもより一回り、小さく見えた。

私室に戻ると、壁面の衣装棚は、すでに侍女たちの手で、あらかた空にされていた。宝石箱も、少女時代の手紙の束も、日記帳も、床の中央に積み重ねられた麻袋の山に、整理されている。私が言いつけた覚えはなかった。屋敷の内情は、父の合図ひとつで、こうも素早く動くのだと、改めて思い知らされる。

残されたのは、旅装束が二着、実用的な毛布、銀器ひとつ、そして燭台のそばに掛けられた、家紋のない灰色の麻の外套。

いつから用意されていたのかは、わからない。父は、この夜が来ることを、どこかで予期しておられたのだろうか。それとも、娘を辺境に送るための外套は、公爵家の戸棚のどこかに、昔から常備されていたものなのだろうか。

夜会のドレスを、ゆっくりと脱ぐ。コルセットの紐を、侍女を呼ばず自分でほどいた。きつく結わえた六年の作法を、紐の一本ずつほどいていくような、奇妙な感覚があった。胸のあたりに、紐の痕が赤く残っていた。指で押すと、まだ脈打つように熱を持っている。その熱が、私のものか、それとも誰かに押しつけられていたものの残滓か、にわかには判じかねた。

鏡の前に立つ。

映っていたのは、クレア・ヴァンフィールドではなく、ただの若い女であった。夜会の化粧をぬぐい落とした顔は、頬骨がわずかに尖って、目の下に薄い隈が透けている。私はその頬に、指の腹で一度だけ触れた。冷たかった。だが、ここにちゃんと、血の通った肉がある。

——心がない、と殿下はおっしゃった。

鏡のなかの女の口角は、下がってもいなかった。眉間に皺も寄っていなかった。ただ、頬のどこかに、六年前には確かにあった丸みが、もう戻らぬほどに痩せて、削げ落ちていた。

心がないのではない。心を、隠すことを覚えすぎただけだ。

毛織の粗いドレスを身につけ、編み上げ靴の紐を結んだ。首筋を締め上げていた真珠の首飾りの重みが、消えている。指輪の環が、消えている。私を縛っていたものが、ひとつ、またひとつと、剥がれ落ちていく。

感情を凍らせて学んだ外交の知識が、あの書状の行間を拾えた。

民の涙に一度も濡れることのなかった瞼だからこそ、通商協定の写し落ちに気づけた。

温かな人間らしさを欠いた妃候補だったからこそ、冷たく正確に、王家の瑕疵を繕うための一葉を、六年のあいだ懐に温めておくことができたのだ。

——だから、私は、泣かない。

窓の外で、東の空が、わずかに白みはじめている。

階下で、馬の蹄が石畳を打つ音が聞こえた。家紋のない旅馬車。辺境フェンリスまでの、おそらくは五日の道のり。

扉の向こうから、歩幅の狭い、けれど確かな足音が、ひそやかに近づいてきた。幼い日、私を寝かしつけてくれた乳母のものだった。きっと父の目を盗んで、ここまで上がってきたのだろう。

私は旅外套の襟を立てた。麻の粗い繊維が、頬にちくりと触れる。絹ではない感触を、私はこのとき、生まれて初めて知った。

扉を開ければ、私は公爵令嬢ではなくなる。

それで、よい。

私は、扉の把手に、手をかけた。

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