第1話
第1話
シャンデリアの灯が揺れた瞬間、大広間の空気が凍りついたのを、私は背中で感じ取った。
「クレア・ヴァンフィールド。お前との婚約を、この場をもって破棄する」
王太子ラウル殿下の声は、祝宴の奏楽を断ち切るに十分な重みを持っていた。弦楽器の旋律が途中で絶え、ダンスの輪がほどけ、金糸銀糸の夜会服がざわめきながら、私を囲む円を作る。扇で口元を隠した令嬢たちの視線が、一斉にこちらへ向けられた。
香水と蝋燭の煙が混ざり合った大広間の空気は、喉の奥にざらりと苦い。十月の夜だというのに、襟元の金刺繍が肌に張り付くように重く感じられた。背後で誰かが息を呑み、小さな嘲笑が扇の裏で押し殺される——私はその一音一音を、まるで楽譜の休符を数えるように、正確に拾い上げていた。
私は殿下の前で、静かに顔を上げた。
十二の齢から六年、私は王太子妃教育を受けてきた。歩幅も、瞬きの回数も、喉の震わせ方も、すべて教本の通りに整えられている。感情を殺すことこそ気品である——老いた女官たちが幾度も繰り返したあの声が、今も耳の奥で鳴っている。
だから私は、泣かない。
「殿下。理由を伺ってもよろしゅうございますか」
声は掠れなかった。掠れるような訓練はされていない。
殿下の隣には、薔薇色のドレスに身を包んだマリエル・ド・ロワ男爵令嬢が寄り添っていた。幼くあどけない瞳を殿下に向けて、勝ち誇るでもなく、ただ無垢に微笑んでいる。その肩を抱くラウル殿下の手つきの慣れたさまで、私はこの宣告が今夜決まったものではないことを悟った。
「理由はひとつだ。お前には、心がない」
心がない。
そう聞こえた瞬間、頬の内側の肉を、わずかに噛みしめた。痛みは、外には出さない。
「なるほど」
口角の角度を変えぬまま、私は繰り返した。 「心がない、と」
殿下は頷かれた。その頷きに、迷いはなかった。六年の教育を通じて、私は殿下の指先の癖を、呼吸の深さを、退屈されているときの立ち姿を、誰よりもよく知っている。いま殿下の指先は、マリエル嬢の細い腰に安らかに置かれていた。あれは、退屈しているときの指ではない。六年のうちに、私の隣でついぞ見ることのなかった、安らぎの手つきだった。
「公務の席で、お前はいつも氷のようだった。民の泣き声にも、孤児院の子らにも、ただ型通りの言葉をかけるだけだった。マリエルは違う。民の痛みを我が痛みとして、泣くことができる。妃に必要なのは、完璧な礼儀よりも、温かな人間らしさなのだ」
温かな人間らしさ。
胸の奥のどこかが、小さく軋んだ。それでも、顔には出さない。
十の冬、私は王妃殿下の御前で、民を想って涙を流す稽古をした。流してはならぬ、と叱られた。公爵令嬢が人前で頬を濡らせば、それは政治である、と。十四の春、流行病の孤児院を見舞ったとき、抱き上げた赤子はすでに息をしていなかった。それでも私は、教本通りに慈しみの言葉を申し述べた。私の代わりに、後ろの侍女が、声を殺して泣いていた。
十六の夏には、舞踏会で足を踏まれても微笑めと命じられ、十七の秋には、陰口が耳に届こうと睫毛一本揺らさぬ術を学んだ。感情は喉の奥で噛み砕き、胃の腑へ沈めるものだと、女官長は繰り返された。沈めすぎて、やがて味もわからなくなるものだとは、誰も教えてはくれなかった。あの孤児院の赤子の、冷えきった頬の感触だけは、いまも手のひらに残っている。私はそれを誰にも告げぬまま、六年のあいだ、王太子妃の笑みの下に封じてきたのだ。
私の心が凍ったのではない。凍るように、鍛え上げられたのだ。
「……左様でございますか」
私はゆっくりと頭を下げた。胸に当てた右手の指先が、かすかに震えているのを、白絹の手袋が隠してくれる。
「ならば殿下、謹んでお受けいたします」
どよめきが広間に走った。
「受ける、だと」
「婚約の破棄を、でございます。殿下が私を望まぬとおっしゃるなら、私は公爵令嬢として、その御意に従うまで」
マリエル嬢が、扇越しに小さく息を呑んだ。彼女は、私が泣き崩れてラウル殿下の足元に縋るさまを、見たかったのだろう。罵声のひとつでも浴びせてくれれば、物語は彼女の望む筋書きに収まったのだろう。
残念ながら、私はそのどちらも、存じ上げぬ。
左の薬指から、婚約指輪をそっと外す。六年のあいだ、湯浴みの折さえ外さなかった金の環だ。外した指のくぼみに夜会の冷気が触れて、はじめて私は、この環の重みを知った。
「殿下。この指輪は、謹んでお返しいたします。どうぞ、末永くお幸せに」
銀盆に指輪を置き、従僕に恭しく差し出させる。ラウル殿下は眉をひそめられたが、受け取らぬわけにもゆかぬ。マリエル嬢の細い指にその環が嵌められる日も、近いのだろう。
「それから、もうひとつ」
私は懐から、絹紐に結ばれた一葉の書状を取り出した。封蝋は、ヴァンフィールド公爵家の百合紋。王太子妃教育の合間に、父の書斎で目を通した写しのひとつである。
父の書斎は、蜜蝋と古い羊皮紙の匂いが沈殿した部屋であった。ろうそくの芯が爆ぜる音だけが夜を区切るあの場所で、私は婚約者の代わりに外交文書の行間を拾う癖を、いつしか身につけていた。六年前のあの娘は、こうして読み解いた条文が、やがて己を救う唯一の武具になろうなどとは、思いもしなかっただろう。
「こちらは、三年前に王家と隣国ルヴェリア帝国とのあいだに交わされました、国境通商協定の写しにございます」
大広間の空気が、わずかに変わった。貴族たちの幾人かが、身を乗り出した気配がある。通商協定の三文字に反応する者は、外交に関わる者だけだ。
「第七条、関税免除条項の但し書きに、期限の明記がございません。原文では本年末までとされておりましたものが、写しの段階で欠落しております。ルヴェリア側は、この不備にすでに気づいておられます。半年後、帝国側から免除継続の既成事実を突きつけられれば、王家は年間およそ国庫の一割に相当する税収を、失うこととなりましょう」
一呼吸。
「妃候補として、陛下の御代を支えるべく是正を進言するつもりでおりました。なれど、妃の任を解かれた私に、もはや進言の資格はございません。書状は殿下に託します。どうぞ御自らの御裁量で、王家の瑕疵をお繕いくださいませ」
書状を銀盆に重ねる。従僕の手が、わずかに震えていた。
ラウル殿下の顔から、血の気が引いていく。マリエル嬢の腰から指先が離れ、宙で所在なげに止まった。殿下は外交文書に目を通されぬお方である。通商協定の第七条がどのような意味を持つのか、この瞬間に理解できるかどうかは、私の知るところではない。ただ、広間の隅で壁の花となっていた老宰相の眉が、ぴくりと動いたのを、私は見逃さなかった。
「クレア嬢……それは」
「失礼いたします、殿下」
深く、けれど短く、一礼する。
「本日の祝宴、末永き繁栄を、公爵令嬢としてではなく、一人の臣民として、謹んで祈り上げます」
ドレスの裾を捌き、身を翻す。
三歩、五歩——大広間の中央を横切るあいだ、背後でざわめきが波のように広がっていく。老宰相が王のもとへ歩み寄る足音。殿下が書状を開く、紙の乾いた音。マリエル嬢が扇の陰で、はじめて不安げに殿下の袖を引く気配。
絨毯の織り目が踵の下でかすかに沈み、シャンデリアの熱が首筋を撫でる。髪に挿した真珠の揺れる音を、私は耳ではなく皮膚で感じていた。途中で、誰かが私の名を呼びかけ、そのまま口をつぐんだ気配があった。かつて共に舞踏を習った令嬢のひとりであったのかもしれぬ。振り返れば、彼女は慰めの言葉を探すのだろうか、それとも群れに後れを取らぬよう、そっと視線を逸らすのだろうか。どちらであっても、もはや私の知るべきことではなかった。
扉まで、十歩。九歩。私は、一度も振り返らなかった。
扉を開けた瞬間、大広間の燭火が風に揺れ、石の廊下に私の影が長く伸びた。拍手もない、非難もない、ただ私ひとりの靴音が、誰の耳にも届かぬほど静かに響く。馬車まで歩くあいだ、左の薬指のくぼみを、右の指でそっと撫でた。金の環がそこにない。六年のあいだ私を縛ってきた重みが、たしかに、消えていた。
なのに、なぜだろう。足元が、まだ少しだけ、冷たい。
門を出た公爵家の馬車の中で、父が私を待っていた。その顔には、笑みも怒りもなく、ただひとつ、深い失望の色だけが沈んでいた。
「家名に泥を塗った娘は、もはや公爵家には要らぬ」
父の声は、ラウル殿下のそれよりも、よほど私の胸を凍らせた。