第3話
第3話
扉の把手を押し引くその瞬間を、私は生涯忘れぬであろう。廊下の空気は、夜と朝のあわいに独特の、乾いて薄青い冷たさを含んでいた。息を吐けば、その白さが、燭も入らぬ闇のなかに一瞬だけ形を結び、すぐに霧散する。
「お嬢さま」
低くかすれた声が、足元に落ちた。乳母のヴェールが、廊下の奥の柱の陰から、身を縮めるようにして歩み寄ってくる。父の目を憚って、燭台も持たず、毛織のショールを頭からかぶったままの姿である。
「ヴェール」
名を呼ぶと、乳母は首を振って、指を唇に当てた。屋敷のどこかで、父が眠らず書状を繰っている気配が、壁越しに伝わってくる。紙の擦れる音か、あるいは羽根ペンの穂先が硯の縁を叩く音か——それは判らぬまま、ただ眠らぬ者の気配のみが、壁の芯を伝って足裏まで届いた。私は廊下に一歩出て、扉を後ろ手に閉めた。
乳母の手が、私の両手のあいだに、何か小さく硬いものを押し込んだ。目を落とすと、それは指ほどの長さの木彫りの護符であった。松の木の節を刻んで、北の古い信仰の文字をひとつだけ彫り込んだもの。乳母の故郷、雪深い北の漁村で編まれる、旅立つ者に握らせる古い風習の印。
「これを、肌身に」
乳母の声は、涙を噛みしめた者の、震え方をしていた。私は護符を、胸元のリネンの内側へそっと滑り込ませた。木肌のざらついた感触が、鎖骨のすぐ下で体温をひと筋吸い取る。
「ヴェール。六年のあいだ、ありがとう」
「お嬢さま、そのようなお言葉は」
「謹んで、参ります」
乳母の肩が、ひとつ揺れた。抱きしめてはならぬと、私は自分の腕に命じた。公爵令嬢の所作が、最後の骨として、まだ私の背筋を支えている。崩してしまえば、屋敷を出るまでの階段を、降りきれなくなる。
階下の玄関では、家紋を削り落とした旅馬車が、霧に濡れて黒く光っていた。御者と護衛二名、そして一名の監督らしき男——父の家臣ではない。外務省付きの下役のような、地味な紺の上衣を着ている。私が歩み寄ると、男は挨拶を省いて、顎の先で馬車の扉を示した。
荷は一つの麻袋。それを先に放り込まれ、私はドレスの裾を拾って乗り込んだ。扉が閉められる音は、鋲を打つような重さで、馬車の中に響いた。
車内の板張りは、油を引いた覚えもない荒削りのままで、尻の下で冷気が骨に上ってくる。窓の鎧戸には細い格子が嵌められていた。囚人を送るのでなければ、およそ令嬢の馬車に入れるはずのない意匠である。私は護符を胸元で確かめ、麻の外套を深く合わせた。馬車の揺れに、蹄鉄の鳴りが従いて、屋敷の車寄せを出る。
振り返らなかった。振り返ってしまえば、燭の灯った窓のひとつにでも、父の影を探してしまうであろうから。
石畳が砂利に変わり、砂利が粘土の轍に変わる。王都の外郭門を抜けるまでの一刻は、鎧戸の隙間から、まだ眠りの底にある家々の屋根瓦が、霧に湿って黒々と連なっているのが見えた。豆腐売りの籠の音、牛乳を運ぶ荷車の軋み——私が知らずに過ごしてきた、王都の未明の呼吸が、格子越しに耳に届いてくる。六年のあいだ、こんな時刻の街を、私は一度も歩いたことがなかった。
門を出て、畦道が始まる。麦の刈り入れを終えた田は、霜を吸って灰白色に凍っていた。監督の男は馬車の外を早駆けで前進し、時折、護衛と何かを確かめ合うように目配せを交わす。私はその眼差しの往復の速さを、格子の隙間から数えた。公務に同席した折に学んだ観察の癖である。——あの男の目は、護送の責任者のものではない。もっと落ち着きなく、しかし用意のある目をしている。獲物を運ぶ者の目と、獲物を待ち伏せる者の目とは、瞬きの数がちがう。男の瞬きは、後者のそれであった。
一日目の宿は、街道沿いの廃駅を改めた粗末な小屋であった。差し出された黒麦のパンと、塩漬けの豚肉のわずか。私は両手を合わせ、指先の冷たさを確かめてから、一口ずつ丁寧に噛みしめた。黒麦の粒が奥歯のあいだで弾ける。塩のからさが舌の奥を焼く。六年のあいだ、私の舌は白麦の柔らかさしか知らなかった。
夜は、土間に敷かれた藁の上で過ごした。外套を二重に巻いて横たわると、藁の隙間から這い上がってくる土の湿りが、背中の薄布越しに体温を奪っていく。隣の部屋で、監督の男と護衛が低く何ごとか話している声が、板壁越しに途切れ途切れに届いた。聞き取れたのは「峠」「合図」「日数」——その三つの言葉だけ。私は寝返りを打つふりをして、胸元の護符に手を当てた。松の節の硬さが、肋のあいだの脈動とひとつになって、規則正しく返事をする。眠れぬ夜の、ただ一つの友であった。
二日目、街道は森に入った。落葉樹の裸の梢が、灰色の空に網目を描いている。馬車が深く揺れるたび、梢の網目が格子の隙間で組み変わり、まるで誰かが頭上で網を編み直しているように見えた。森のなかは音が吸われる。蹄の音が、地面に落ちる前に苔と腐葉土に呑まれて、輪郭をなくす。鳥の声も少なく、ただ折れた小枝が車輪に踏まれて鳴る、乾いた小さな音だけが、ときおり馬車の腹の下から立ちのぼった。
三日目、山稜の肩を回り、霧の谷に差しかかる頃には、馬の息が白く長く尾を引くようになっていた。鎧戸の格子に頬を寄せると、その白い息が、私の睫毛のあたりまで漂ってきて、ふっと冷たく溶ける。寒さは、もはや外套の中にまで沁みていた。私は両のこぶしを膝の上で握り直し、爪先を何度か板の上で動かして、感覚があることを確かめた。
——音の質が、変わった。
私がそう気づいたのは、三日目の昼、霧の濃い谷合を半刻ほど下った頃である。蹄の音が、岩肌に跳ね返って耳に戻るまでの時間が、ふと、間延びして聞こえた。監督の男の馬が、二、三度、いらぬ急き立てで前に出る。御者の鞭が、いつもより短く、鋭い。鞭の音のあとに、御者が小さく咳払いをするのが聞こえた。乾いた、喉の奥のひっかかりではない。緊張を呑み下す、あの咳払いである。
「……止まって」
格子に顔を寄せ、私は低く声をかけた。監督の男が振り返る。その額に、三日目の朝から一度も拭われぬ汗が、薄く光っていた。霧の谷を下りながら、汗をかく人間はいない。
「如何なさいました、ご令嬢」
「霧が濃うございます。馬を休ませてはいかがでしょう」
「先の峠を越えれば、宿駅がございます。お気遣いは無用に」
男の唇が、わずかに吊り上がった。慇懃を装った、笑みではない笑み。目の奥には、笑みに伴うはずの温度が一度たりとも差さなかった。私は鎧戸の格子をそっと指で撫で、胸元の護符を、服の上から押さえた。木の角が、肋のあいだにかすかに刺さる。
護衛二名の背中を、目で追う。帯の剣は、二人とも同じ流派の柄巻きである。革紐の巻き方が左から三度、右から二度——王都の兵がまず採らぬ、北の山岳隊に伝わる古い結び。公爵家の兵はこのような揃いの仕立てを好まぬ。外務省付きにも、この意匠は見覚えがない。鞘の尻金の形も、王都の鍛冶場から出るものではない。あれは山ひとつ越えた、旧い国境の炉で打たれる、渡り鴉の嘴を象った意匠である。——誰が、この馬車を、どこへ運ばせているのか。
胸の奥で、何かが音もなく凍っていく。あれはおそらく、心臓ではなく、思考である。父は本当に、私をフェンリスへ送るために、この一隊を雇われたのだろうか。それとも——父もまた、この一隊が何者であるかを、知らされぬまま署名を入れさせられたのだろうか。あるいは、父こそが、この道筋の終わりに私を消すよう命じた当人なのか。三つの可能性が、霧の中の三本の道のように、頭の中で枝分かれしていく。どれを選んでも、生きて辿り着く先は見えなかった。私は膝の上で、指を一本ずつ折っては伸ばし、折っては伸ばした。指の関節の音が、ことりと鳴るたびに、恐怖の位置を一段ずつ、体の奥へと押し下げていく。
馬車が、谷の底の古い石橋に差しかかった。霧の壁の向こうで、川音がこもっている。橋の手前で、監督の男が片手を挙げ、何かの合図を、霧の奥へと送った。指を二本立てて、ゆっくりと下ろす。応える鳥の鳴き真似が、橋の向こうから一度、確かに返ってきた。鳥の声にしては、音程の運びが正確すぎた。本物の鳥は、鳴きおえの尾を、もう少し頼りなく震わせる。
そのときであった。
ひゅ、と、乾いた空気を裂く音が、右の鎧戸のすぐ横を通り過ぎた。続いて二度、三度。御者の首のあたりで、湿った音が鈍く鳴る。御者の体が、手綱を握ったまま、ゆっくりと前のめりに崩れていくのが、格子の隙間から見えた。馬が甲高く嘶いて、前脚を跳ね上げた。
私は護符の上に、手のひらをきつく重ねた。