第2話
第2話
馬車の取手に伸ばしかけた指を、私は止めた。
革手袋越しに、鉄の冷たさが指の腹を刺す。秋の夜気は石段の下にも降りていて、吐く息がほのかに白い。御者のクルトが腰を浮かせたまま、私の指先と顔を交互に見比べている。乗り込む合図を、私が出していない。
「クルト。お屋敷へは、いま少し後で参ります。馬を温めておいて頂戴」
「……お嬢様、お顔の色が」
「ええ、笑い過ぎましたの。少し、夜風に当たります」
返答を待たず、私は背を向けた。絹の裾が石段を滑り、桔梗色の生地が薄い闇に溶ける。指先に、聖女の肘の冷たさが、まだ残っていた。視えたものは、たった四分先の景色だ。残りは——三分。いや、二分半。
『戻れ』
胸の奥で、前世の私が短く言う。畳の匂いがした六畳間で、深夜まで攻略本のページを繰り続けた、あの私だ。『戻れ。今あの柱の裏へ踏み込めば、聖女ルートは詰む。逃げたら、お前が次の月のうちに毒杯を呷ることになる』
——その通りだ。
予定の馬車を捨てる。退場の所作で稼いだ三十秒の優越を、もう一度盤上に投げ返す。私は外周の植え込みを縫うように、宴の館の側廊へと回り込んだ。ヒールが芝の縁を踏むたび、湿った土が踵をくぐもらせる。香水の匂いはとうに薄れ、剪定されたばかりの薔薇の枝の青臭さだけが、鼻先を擦った。
側廊の硝子戸は、半開きだった。給仕たちが汗を逃がすために開け放ったまま、閉め忘れたのだろう。扇の縁で、戸の隙間をもう一指分だけ広げる。蝶番は、鳴らなかった。十八年仕込まれた所作は、こういう場面にこそ生きる。
廊下に滑り込み、すぐに柱の影に身を隠した。大広間の喧騒が遠く、ただし生々しく聞こえてくる。「公爵令嬢が自ら壇を降りた」「ヴァレンフォード家もこれで終わりね」「ねえ、本当に殿下が全部お決めになったのかしら」——浮ついた囁きの群れ。誰もが、私が消えた後の余韻を弄んでいる。彼らは、第二幕が同じ建物の中で始まりかけていることを、まだ知らない。
予知の地図が、瞼の裏に広がる。第三柱、北側。彫刻の薔薇が一輪、欠けている柱だ。私の現在地からは、回廊を二つ折れる。足音を殺しながら、絹の裾を片手で持ち上げた。歩幅は半分。呼吸は四つ吸って六つ吐く。礼法教師の杖の音が、頭の奥で拍子を取った。
近づくにつれ、男の声が、低く湿って聞こえ始めた。
「——ミレーヌ、こんな場所で。誰かに見られる」
レナルト・ザイフェルトの声だ。騎士団長の嫡男。背丈六尺、腰の鞘に父親直伝の獅子紋。十六の夜会で初めて踊って以来、私はこの声を、礼の対象として何百回と聞いてきた。
「あと一押しでございますわ、レナルト様」
聖女の声が、まろやかに笑む。たった今、大広間の壇上で涙を絞っていたとは思えないほどに、湿気が抜けていた。「公爵家の領地、王家が召し上げれば、三割はあなたの家門へ。……わたくしの涙、まだ足りませんでしたかしら?」
予知で視たままの台詞。一字も違わない。鳥肌が、脛の裏から太腿の付け根まで一気に駆け上がった。喉の奥がひと息だけ詰まる——けれども、私は息を継ぎ、扇を腰の高さまで持ち上げる。
『行け』前世の私が短く言う。『今だ。台詞を、奪え』
柱の陰から、半歩、踏み出した。
「——お孤児院の銀貨は、確か、先月で三百八十枚でございましたかしら」
声を放ったのは、ミレーヌの台詞が途切れる、まさにその拍だった。低く、澄み、しかし大広間まで届きうる声量で。
レナルトが弾かれたように振り向いた。剣の柄に手をかけかけて、相手が私だと気づき、その手が空中で凍る。
「ごきげんよう、ザイフェルト卿。それと——聖女様」
象牙の骨が、しゃ、と乾いた音を立てて開く。柱と柱の間、月明かりが薄く差し込む位置に、私はわざと立った。私の影が、二人の足元へ伸びる。
「フェリクス男爵家のご次男からは、毎月、金貨を三十枚。お孤児院への寄進と称した銀貨の山には、聖印の真下に、辺境の子爵家のご紋が、潰したように重ねて捺されておりましたわね。——両替商の革袋に吸い込まれていく場面まで、わたくし、しかと拝見いたしましたの」
ミレーヌの薄藤の瞳が、見開かれた。瞳孔が、針の先ほどに縮む。化粧の下で頬の血の気が引いていくのが、月明かりの下でもはっきりと見えた。
「アリシア様、なん、何の、ことを——」
「お声を、低くなさいませ」
私は扇の縁を、唇に当てる。
「廊下の角に、給仕の少年がおりますの。第二回廊にも、ご令嬢方が三名。父の旧友である伯爵閣下も、奥のサロンでブランデーを傾けておいででしてよ。——お聞きになる方は、いくらでも」
レナルトが、一歩、後退った。彼の喉仏が、上下する。
「ザイフェルト卿」
私は視線をレナルトに移した。彼は剣の柄から手を離し、両手を体の脇に下ろしている。騎士の作法どおり、敵意のないことを示す形——けれど、その指先が、微かに震えていた。
「貴方様のお家門が、わが領地の三割を分割相続なさるという計画書、お父様の机上に、いつ届く手筈でございましたかしら」
「……俺は、何も……」
「お聞き及びでない、と仰る?」
私は扇を一度、閉じる。象牙の骨が、こつり、と鳴った。
「ならば、ご結構ですわ。お聞き及びでなかった、ということに、本日はしておきましょう。明日の朝、わが家の家令を伴って、わたくしから貴方様のお父上にご挨拶へ参ります。その折、貴方様が、夜会の柱陰で、伯爵令嬢ヘルミーネ様の評判に瑕がつく場面にご同席であった旨、お伝え申し上げますわ。お話は、それからで」
レナルトの顔から、血が引いた。
ヘルミーネ——彼が幼少より想いを寄せ、誰にも口にしてこなかった、伯爵家の娘の名。『攻略本では三行の脇役だったな』前世の私が、内側で呟く。彼の弱点が家門ではなく、その娘の評判の方にあることまで、私は十八年眠らせていた知識の底から、たった今、引き上げてきた。
「アリシア様」
ミレーヌが、震え声で一歩進み出る。両手を胸元で組む、いつもの所作。だが、私の前で、それはもう武器ではない。
「お聞き入れくださいまし。先ほどのお話は、わたくし、ザイフェルト卿に脅されて——」
「脅された方が、笑いながら金貨の枚数をお口になさいまして?」
私は扇の先で、彼女の頬の輪郭を、空中でなぞる。触れない。触れる必要は、もう、ない。
「ミレーヌ・ロレン様。本日この時より、わたくし、貴女様のお涙を、塩水と心得ますわ。——殿下にも、王妃陛下にも、教会の枢機卿様にも、塩水であるとお伝えする所存でございます」
廊下の角で、はっ、と息を呑む音がした。給仕の少年だろう。二回廊からも、靴音と衣擦れの音が立て続けに二つ、三つ。誰かが踵を返し、大広間の方へ走り出した。
『広がる』
前世の私が、短く笑った。『今夜中に、王宮の隅まで届くぞ』
私はミレーヌに背を向けた。レナルトに対しても、振り返らない。振り返った女から、負けていく——もう一度、自分に言い聞かせる。絹の裾が、石床を、長く引いていった。
側廊の硝子戸まで、私はゆっくりと歩いた。後ろから、ミレーヌの嗚咽——とも呻きともつかぬ低い音が、追いすがるように聞こえてくる。今度のは、演技ではないかもしれない。けれども、それを判じるのは、もはや私の仕事ではなかった。
戸の手前で、足が、止まる。
正面の硝子に、こちらへ歩み来る長身の影が、二つ、映っていた。一つは、私の父——ヴァレンフォード公爵。もう一つは、剣を佩いた兄エルマー。二人とも、廊下の喧騒に気づき、奥のサロンから足を運んできたのだろう。
父の眼が、私を捉える。十八年、私を娘として見てきた眼が、今夜、初めて——別のものを見るように、ほんの僅かに、瞠られた。
「——アリシア。お前、今、何を、した」
低く、押し殺した声。
私は扇を腰に戻し、父の前で深く身を折る。頭は、下げない。スカートの裾が石床に波を描く。
「お父様」
呼吸を一つ、整えてから、私は顔を上げた。
「お屋敷で、お話し申し上げたきことが、ございますの」