第3話
第3話
「——お屋敷で、話す」
父の声は、ようやく言葉を呑み下した、というふうに低かった。議会で宰相と渡り合うときに刻まれる眉間の皺が、いつもより一本だけ深く落ちている。十八年、私が娘として遠くから見てきた皺だ。今夜、初めて、対面者として、その深さを受け止める。
「壇上で何があったかは、わが家令のもとへ、すでに伝令が三人走った。お前が、自ら婚約者の座を辞した、と聞いた。——本気か」
父の喉仏が、言葉と一緒に上下した。襟元の銀の留め金が、燭台の灯を弾いて、わずかに震えている。怒りではない。困惑ですらない。父が、私という生き物を、初めて測りかねている——その戸惑いの揺れが、留め金の小さな光に、すべて閃いていた。
「正気でございます、お父様。狂気と聡明の境はわたくしも判じかねますが、本日この時の判断につきましては、明朝、書斎にて帳面と地図を広げ、すべてご説明申し上げますわ」
兄エルマーが、剣の柄に添えた手を、ゆっくりと下ろした。彼の青い眼が、私の顎の線、頬の影、扇を握る指の関節を、順に確かめていく。剣の使い手は、人の重心の揺らぎを、目で測る。彼の眼は、いま、見慣れた妹の立ち姿が、夜の間に組み替えられたことを、発見していた。
「アリシア。お前、肩の落とし方が、別人だ」
兄が、ぽつりと言う。
私は微笑む。十八年の所作の貯金から、もっとも上品で、もっとも他愛のない笑みを引き出した。
「夜風に、当たりすぎましたかしら」
そのとき、大広間に通じる方角から、複数の靴音と剣帯の金具が鳴る音が、雪崩のように押し寄せた。
先頭は、王太子殿下ご自身であった。背後に近衛が二名、文官が一名——そして両手で顔を覆ったままのミレーヌが、引きずられるように従っている。袖口のレースが、殿下の歩幅に合わせて、鞭のように鳴った。
「アリシア・ヴァレンフォード」
殿下の声は、宴の最中よりも、ずっと荒れていた。
「廊下で、何を、口走った」
『口走ったのではございませんわ。目の前に並べただけでございますの』
前世の私が、内側で短く笑う。その笑いを、表情には出さない。代わりに、扇の骨を、こつりと顎に当てた。象牙の冷たさが、頬の火照りを一瞬だけ吸い取って、私の喉に、必要な静けさを下ろしてくれる。
「殿下」
私は父の隣で、再度、深く身を折った。スカートの裾が石床に波を描く。先刻、壇上では下げなかった頭を、今度はわずかに下げる。父の眼の前で、貴族の礼の最高形を完遂するために。
「壇上にて頂戴いたしました婚約破棄のご宣告——改めまして、ヴァレンフォード公爵家の家督継嗣の御前で、謹んでお受けいたしますわ」
殿下の唇が、わずかに開いた。何かを言いかけて、止まる。喉の奥で、言葉と呼吸が、ぶつかって渦を巻いた音が、私の耳にだけ届く。
「ですが」
私は頭を上げる。
「お受けいたしますのは、婚約の破棄、その一点のみでございます。聖女ロレン様が壇上にて申し述べられた——わたくしが先ほど聖女様の腕を強くお掴みになり、座を侮辱したという件。これにつきましては、本日この時をもちまして、わたくし、否認いたしますわ」
「——否認、だと」
殿下の声が、わずかに掠れた。
「ええ。柱陰にて、ザイフェルト卿のお胸元に白い指を這わせておいでであった聖女様が、ご自身のお口で、計画の進捗をお話しでございましたの。先ほど壇上で頬を伝った滴が、塩水で濡らした絹に過ぎぬ旨——殿下のお耳に直接入れる役目、僭越ながら、わたくしが担いますわ」
「アリシア——!」
ミレーヌが、咽び声を上げた。今度のは、あきらかに、技巧の枯れた声だった。喉の奥で潰れた音が、湿りも、震えも、計算しきれていない。涙の出方も、肩の揺れの周期も、舞台の振り付けが、初めて骨組みを露わにしている。私は、その崩れを、頬の片側で、確かに聴き取った。
私は彼女に視線を返さない。殿下に対しても、瞳を逸らさない。父と兄の側に立ち、扇の骨だけが、私の指の中で、静かに歌っている。
殿下の眉が、苦悶するように寄せられた。剣の柄を握っては離し、握っては離し——彼の指が、判断の重さに耐えかねて、無意味な動作を繰り返している。私は、その指の動きを、十六の春から、ずっと見てきた。観劇のたび、舞踏会のたび、彼が答えに窮するたび、剣の柄を撫でる癖。『——攻略本の三十二頁に、確か、そう書かれていた』前世の私が、唇の裏で笑う。
「殿下」
割って入ったのは、父の声だった。
「娘の発言につきましては、わが家にて改めて吟味いたします。証拠の収集も、わたくしの責にて」
父が、私と殿下の間に、半歩、踏み出した。背中越しに、父の肩の温かさが、私の二の腕へ伝わってくる。今夜の燕尾の生地越しでも、その熱は、確かに父の体温だった。十八年、遠くから仰いできた背中が、いま、私を庇うために、私と殿下の視線の間に、壁として立っている。
「本日のご宣告は、確かに承りましたゆえ、ヴァレンフォードの娘、これより一人の女として、屋敷へ連れ帰りまする。——殿下、ご了承いただけますな」
殿下は、しばし、応えなかった。瞳の奥に、迷いと、苛立ちと、そして——ほんの僅かな、私には判じきれぬ別の色が、揺らぐ。
「——許す」
絞り出すように、殿下が言った。
「だが、ロレン嬢の名誉につきましては、後日、王宮にて改めて——」
「お待ちくださいまし」
私は、扇を一度、閉じた。象牙の骨が、こつり、と鳴る。
「聖女様の名誉につきましては、本夜の柱陰の会話を耳にされた給仕の少年、第二回廊にてお茶を召し上がっておられたご令嬢方三名、奥のサロンにてブランデーを傾けておいでであったオストハイム伯爵閣下——少なくとも五名の証人が、明朝までに殿下の御許へお話を持ち上がりますわ。それまでに、聖女様御自身が、殿下に何を申し上げるか——わたくし、それを楽しみにしておきますわ」
ミレーヌの背が、見えない手で殴られたように、震えた。指の隙間から覗いた瞳が、初めて、技巧を脱ぎ落として私を見た。憎悪でも、恐怖でもない——ただ、今夜まで一度も使ったことのない種類の、剥き出しの驚愕。私が、彼女の知らない言葉で、彼女の台本を読み上げたことへの、純粋な驚き。私は、その瞳に、わずかに頷きを返した。挨拶のつもりだった。
兄が、私の肘の内側に、そっと手を添えた。剣の使い手の手は、温度が低い。そのひんやりとした感触が、ようやく、夜会の昂りに浮かされた私の血を、地に落ち着かせた。
「行こう、アリシア」
兄の声は、初めて私に、対等な人間として向けられたものだった。
私はもう一度、殿下に礼を取った。深く、けれど、頭は半ばまで。父と兄の歩調に合わせ、絹の裾を石床に滑らせ、廊下を踏み始める。背後で、ミレーヌの嗚咽が、長く尾を引いた。
廊下の角を曲がる直前、私は一度だけ、肩越しに振り返った。殿下が、私を、見つめていた。怒りでも、軽蔑でもない。ただ——困惑、と呼ぶにはあまりに静かな眼差しで。
『ご覧になったのは、初めて、でございましょう?』
胸の奥で、私は囁く。
『十八年お側にいて、初めて、わたくしの瞳を、ご覧になったのですわね』
側廊の硝子戸が、ようやく目の前に来た。秋の夜気が、もう一度、肩を打つ。父が先に戸を押し、兄が私の腕を支え、私たち三人は石段を下りた。
馬車の前で、御者のクルトが、目を丸くして三人を迎えた。父と兄が同乗するため、座席の配置を急ぎ整えている。私は扇を腰に戻し、馬車の取手に、もう一度、指を伸ばした。
革手袋越しに、鉄の冷たさが、宴の前と、まったく同じ温度で、指の腹を刺す。だが、その冷たさを受け止める指は、もはや、別の指だった。
馬車に乗り込む直前、父が、低く言った。
「アリシア。屋敷で、すべて聞こう」
「はい、お父様」
「——その帳面、夜更かしして、わたくしと、共に書こうな」
父の声に、わずかに、震えがあった。私は俯いて、扇の縁を、唇に当てる。返事の代わりに、二度、深く頷いた。
馬車の扉が閉まった。蹄鉄が石畳を打ち、車輪が、王宮の門を、ゆっくりと離れ始める。窓の外を流れる燭火を眺めながら、私は瞼の裏に、明朝の書斎の景色を、もう一度、描いた。
地図の上に、置くべき駒が、いくつあるのか——夜が明ける前に、数えなければならなかった。