第1話
第1話
扇の骨が、きしりと鳴った。掌の内で握り潰しかけた象牙の骨が軋み、私は咄嗟に指の力を緩める。
「アリシア・ヴァレンフォード公爵令嬢——我が婚約を破棄する」
王太子殿下の声が、卒業記念パーティーの大広間を貫いた。頭上のシャンデリアが一瞬だけ揺れて、ガラスの触れ合う乾いた音が三度、私の項を撫でる。百人近い貴族子女の視線が、まとめて私一人の背に突き刺さった。
それがきっかけだった。頭の奥で細い糸が切れるような音がして、見たこともない景色が雪崩れ込んでくる。
——六畳間の畳、湿った畳縁の匂い。婚礼の支度が迫る夜更け、窓の外に虫の声。ベッドの縁に腰掛けた自分が、父から贈られたタブレットを抱え、眠気を堪えて画面を指でなぞっていた。液晶の向こうで、白金の髪の少女が両手を胸元で組み、睫毛を濡らしている。『アリシア様、どうかお許しくださいまし……』。——見覚えがあるどころの話ではない。今、壇上で、同じ声が、同じ台詞を、吐いている。
その先の分岐を、私は全て暗記していた。毒杯、斬首台、修道院送り——どの選択肢を引いても、公爵令嬢アリシア・ヴァレンフォードの名は血で閉じる。
息が、止まる。
「……なるほど」
声に出してしまったことに気づいて、私は小さく喉を鳴らし、笑いを押し戻した。扇を閉じる。背筋を伸ばす。十八年かけて仕込まれた所作が、意識より先に、肩と顎を整えた。
壇上、殿下の隣で、聖女ミレーヌ・ロレンが両手を胸元で組み、睫毛を濡らしている。銀糸にも見える白金の髪、薄藤の瞳。夜会服の裾が、床に咲いた桔梗のように広がっていた。液晶の向こうで見た姿と、寸分たがわない。
「アリシア様、どうかお許しくださいまし……わたくし、殿下のお心を奪うつもりなど——」
涙の粒が頬を滑り落ちる。完璧な演技だ、と前世の私が内側で呟いた。粒の大きさ、落ちる速さ、頬を伝う角度——まるで定規で測って配置したかのように整っている。
「殿下、このお方、先ほどわたくしの腕を強くお掴みになり、『聖女の座など、そなたに似合うものか』と——」
ミレーヌの声が、遠く聞こえる。私の目は、彼女の白い指先に釘付けだった。あれに触れた瞬間、何かが始まる——そう、前世の記憶とは別の直感が囁いていた。指先が、産毛までくっきりと視える。私と彼女を隔てる三歩の距離が、にわかに薄膜一枚の厚みに感じられた。
「聖女様」
私は一歩、進み出る。絹のドレスが石床を滑り、周囲の夫人方が息を呑む気配が皮膚に伝わった。罵倒する、泣きつく、醜態を晒す——脚本に書かれた悪役令嬢の振る舞いは、その三つに収束していくはずだった。ならば、全て拒めばいい。
「お顔のお涙、わたくしに拭わせていただきますわ。殿下の御前で、そのような痛ましいお姿を晒されては、殿下のお心までお痛みになりましょう」
言いながら、私は懐から絹のハンカチを取り出し、左手で彼女の肘の内側に指を添える。滑らかで、冷たい皮膚——触れた途端、視界が白く裂けた。——いや、裂けたのではない。剥がれたのだ。今の現実が薄い紙一枚のように捲られ、その裏に貼り付けられていた別の時間が、こちら側に露わになった、そんな感覚だった。
燭火が、消える。
蝋の匂いと貴族たちの香水が一瞬で遠のき、代わりに石壁の冷気と、かすかな香油の匂いが鼻腔を舐めた。耳鳴りが鐘のように鳴り、膝の裏から鳥肌が這い上がる。
代わりに、同じ大広間の別の光景が脳裏を走った。三分後、いや二分半ほど先か。断罪が終わり、貴族たちが散った後の柱陰。騎士団長の嫡男レナルトが柱にもたれ、ミレーヌが彼の胸元に白い指を這わせている。『あと一押しでございますわ、レナルト様。公爵家の領地、王家が召し上げれば、三割はあなたの家門へ。……わたくしの涙、まだ足りませんでしたかしら?』レナルトの喉仏が上下する音まで、すぐ耳元に聞こえた。彼の指がミレーヌの腰へと伸びかけ、そして躊躇うように止まる。
視界がさらに先へ滑る。四分後。別の柱の裏。フェリクス男爵家次男の蒼白な顔。『お願いでございます、ミレーヌ様、父にはどうか黙って……』『では、今月も、金貨三十枚でよろしくて?』
場面が変わる。孤児院の施しと称された銀貨の山が、聖堂裏、両替商の手で革袋に吸い込まれていく。押された印章は——見覚えのある紋。聖印の真下、わざと潰されたように重ねて捺された小さな家紋——聖女ロレン家のものでも、教会のものでもない。もう少し下位の、辺境の、いずれかの子爵家の印に見えた。私は喉の奥で息を詰める。
『……おい』
胸の奥、前世の私が低く呻いた。『これ、泣き落としゲーじゃない。政治工作の詰みゲーだぞ』
視界が戻る。息を一つする間もない一瞬だった。ミレーヌの腕から指を離し、私は絹のハンカチを彼女の頬へと静かに押し当てた。触れているのは布一枚。だが、今や私の方が、彼女の腕を取っているのと同じだった。
「ごきげんよう、聖女様」
囁く。私以外には届かぬ音量で、口の端だけを動かす。
「柱の陰でお済ませになるお約束は、本日、あと何件ほど控えておいでですの?」
扇の先で、ミレーヌの耳元に風を送るように、もう一度囁きを落とす。ハンカチの下、彼女の頬の筋肉が微かに引き攣ったのが、布越しに指の腹へ伝わってきた。
白金の睫毛が、微かに震えた。瞳の奥、薄藤の色が一瞬、割れるように揺れる。項で聞こえるほどに、彼女の鼓動が跳ねた。ハンカチを持つ私の指先に、その振動が小さな太鼓の連打のように伝わってくる。
扇の骨が、私の指の中で、今度は小さく歌った。
「アリシア様、何を、おっしゃって……」
震え声でミレーヌが返す。よくできている。彼女は、本当によく書かれている。だが、私はもう脚本の先を知っている。
「殿下」
私は扇の縁越しに、壇上の前婚約者を仰いだ。王太子殿下は眉をひそめ、剣の柄に添えた手が止まったままだ。十六の頃から見てきた横顔。王太子の矜持、臣下の目を意識した直立——そして、聖女の涙に対してだけ、わずかに緩む唇の端。
『殿下、お可哀想に』
前世の私が、呆れ混じりの息を吐く。
私は声を張った。落ち着いた、低く澄んだ声で、大広間の端まで届く発声で。
「婚約破棄のご宣告、謹んでお受けいたしますわ」
広間が、ざわめいた。殿下の唇が開きかけ、何かを言おうとして——止まる。
「ですがその前に、ひとつだけ。聖女様のお涙を、わたくしのハンカチで拭わせていただいたこと、どうかお許しくださいまし。わたくし、恐れ多くも、聖女様の肘に触れてしまいましたの」
私は片膝を折る仕草だけを見せ、頭は下げない。公爵家の娘が王家に示す礼の最高形——詫びでありながら、屈服ではない。所作の一つ一つに、十八年の教育が染み込んでいる。お父様、お母様、乳母、家令、ダンス教師、礼法教師——彼らの声が、今この瞬間、私の背骨を支えていた。
「——その折に」
扇の縁を、こつり、と顎に当てる。
「聖女様のお口から、柱陰でのお約束につきまして、小声のお言葉を頂戴いたしましたの。殿下のお耳に入れるべきか、それともわたくし一人の胸に秘めるべきか、判じかねておりますのよ」
ミレーヌの指先が、ドレスの胸元で白く強張った。涙は、止まっている。演技の糸が、一本、切れる音がした。
「——アリシア、何を言っている」
殿下の声が鋭く飛ぶ。私は、振り返らない。
『振り返るな』前世の私が囁いた。『振り返った女から、負けていく』
代わりに、私は壇の手前まで進み、深く身を折る。スカートの裾が石床に波を描く。作法通り、呼吸三つ分、静止する。
「——謹んでお受けいたします、殿下。アリシア・ヴァレンフォードは、本日この刻をもちまして、婚約者の座を辞しますわ」
顔を上げ、扇を閉じる。
そして、誰の返事も待たず、私は自分の足で壇上を降り始めた。絹の裾が石床を滑る音だけが、大広間にやけに大きく響いた。
人垣が、左右に割れていく。かつて私を嘲笑った伯爵夫人たちが、扇の陰で息を呑む気配を、耳ではなく皮膚で感じた。扉の手前で、私は一度だけ振り返る。
聖女ミレーヌが、両手で顔を覆っていた。指の隙間から覗く薄藤の瞳が、私を——真っ直ぐに、睨みつけている。涙は、もう一粒も残っていなかった。
『ああ、ようやく、本当のお顔を見せてくださいましたのね』
胸の奥で、私は静かに笑う。
広間の扉を押し開けた瞬間、秋の夜気が肩を打った。石段の下、待機していた馬車の影が見える。御者が驚いたように腰を浮かせた。予定より半刻、私の退場が早い。
指先に、聖女の肘の冷たさが、まだ残っている。その先に視えたもの——数秒先、数分先の、生々しい未来。
扇を閉じ、私は馬車に手を伸ばす。屋敷に帰ったら、まず、お父様にお伝えしなければならない話があった。