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飾り窓の令嬢と灰青の騎士

第2話 第2話

第2話

第2話

羽根ペンの軸が、指の腹に冷たかった。

第三書記室に着いてまだ四半刻も経たないというのに、私の机の右側にはすでに書類の束が三つ積まれていた。いちばん下のものは封印の蝋がわずかに欠け、縁の紙が湿気を吸って波打っている。数年、あるいは十年ほど棚の奥で眠っていたものを、今朝誰かがまとめて下ろしてきたのだろう。

窓から射す光は、まだ低かった。東棟の書記室は北向きで、朝のうちだけわずかに陽が入る。その短い光の中で、私は羽根ペンを握り直した。インクを削がないよう軸の角度を保ちながら、番号を記していく。一二七三番。一二七四番。一二七五番——。

昨日の失敗は繰り返さないと、心に決めていた。

訓練場の砂利の感触も、灰青の瞳も、朝の光に置いてきたつもりだった。けれど指先に残るインクの染みを見るたび、なぜか別の記憶が蘇る。砂の上を歩くあの男の背中。剣を鞘に収める時の、かすかな金属音。——やめなさい、と私は自分に言った。あの人は立入禁止の場所に立っていた人で、私は書類の番号を書く人間だ。それだけのこと。

扉が開いたのは、鐘が二つ鳴る少し前だった。

「——新入りね」

声が、頭の上から降ってきた。

顔を上げると、水色のドレスがすぐ目の前にあった。胸元には侯爵家の紋章。絹の手袋は指先まで汚れひとつなく、縁にはわずかな光沢のある糸が縫い込まれている。薄く香る花の匂いは、花そのものではなく、どこか遠い温室で咲いた花を蒸留したような、作為のある甘さだった。

エルザ・フォルネット侯爵令嬢。

噂は昨日のうちに耳に入っていた。王宮文官の中で、唯一貴族令嬢として正規の席を持つ人。この第三書記室の、実質上の差配役。

「リーゼ・アーレンスです。昨日付けで——」 「存じています」

言葉が、途中で断たれた。

エルザはそれ以上視線を私に向けず、机の上の書類をひらりと持ち上げ、目だけで数行を追った。紙をめくる音は、羽根が水面を掠めるように軽かった。そして、私が朝からずっと番号を振り続けていた束の、半分ほどを無造作に脇へ寄せた。紙の端が机を擦り、さらさらと乾いた音を立てた。

「この二日分は、差し戻しになりました。宛先の州名が旧表記のままです」

旧表記、という言葉が、咄嗟に飲み込めなかった。喉の奥で、朝に飲んだ薄い茶の味が、急に苦く戻ってくる気がした。

「州令の改定が先週下りています。新入りがそれを知らないのは致し方ないけれど、ここでは知らなかったでは済みません。もう一度、最初から」

声は、温度のない水のようだった。

怒りも侮蔑もなかった。ただ事実を置いていくだけの声。昨日、訓練場で聞いた声とは質が違うのに、どこかで似ている気がした。感情を削いだ人の声は、似通ってくるのかもしれない。

はい、と答えた自分の声は、少し掠れていた。喉の奥に小さな砂粒が引っかかったように、最後の音が薄く震えた。

エルザはそのまま奥の卓へ行き、自分の書類に向かった。書記室の空気が、わずかに張りつめたのが分かった。他の文官たちは皆、私と目を合わせない。誰もが忙しそうに羽根ペンを走らせ、誰もが、新入りの失敗を視界の端で確かめていた。羽根ペンの先が紙を擦る音だけが、やけにはっきりと耳に届いた。誰かが咳払いを一つした。それだけで、肩が縮まった。

——鐘三つのあいだ、私は息の仕方をほとんど忘れていた気がする。

差し戻された束を、もう一度最初から書き直した。州名は新表記で「フェルト北州」、旧表記は「ヴェルト」。一字の違いだった。一字の違いを知っていれば、朝の半日は無駄にならなかった。けれど、その一字を教えてくれる人は、ここにはいない。指先に残った古いインクを、新しいインクが上書きしていく。書き損じを恐れるあまり、一画ごとに羽根ペンを持ち上げ、息を止めた。そうするうちに、自分の筆跡がいつもより小さく、縮こまっているのが分かった。

昼の鐘が鳴るころ、エルザから新しい使いを言いつけられた。

「書庫の十二番棚から、第四巻を持ってきて。出納簿の控えです」

ありがとうございます、と言いかけて、飲み込んだ。礼を言う場面ではないのだと、空気が教えてくれた。

書庫は、書記室から回廊を三つ隔てた地下にあった。

階段を下りるごとに、空気が変わる。紙と革と、古い埃。目が慣れるまで何秒か必要なほど、灯りは少なかった。壁の燭台はどれも蝋が低くなっていて、炎の先が時折、息を詰めたように揺れた。棚は天井まで伸び、番号札が等間隔に貼られている。背表紙の擦り切れ具合で、棚ごとに扱いが違うことが分かった。新しい棚ほど、革の縁がまだ艶を保っている。古い棚の前を通ると、革の乾いた匂いに、かすかな黴の気配が混じった。

十二番棚を見つけた時、私は立ち止まった。

棚の前に、若い男が二人、立ち話をしていた。

文官の制服。肩章の色からして、私と同じ補佐の階級だ。けれど身のこなしには、この場所に慣れた余裕があった。片方は手にした帳面を開いたまま、指でぞんざいに頁を押さえ、もう一人は棚に肩を預けて、退屈そうに足先で床を叩いていた。

「——アーレンス家ね。子爵家の」 「例の、借金が」 「どうりで。あの袖口の擦り切れ方は」

声は低かった。低かったけれど、私に聞かせる気がないわけでもなかった。言葉を止めずに、私を視界の端に収めたまま、彼らは小さく笑った。笑い方に、悪意はなかった。悪意よりも、もっと軽いものだった。噂話の愉しみ——それだけだった。その軽さが、かえって胸の奥で鈍く痛んだ。はっきりとした敵意なら、身構えようもあった。けれど、こうして笑いの肴にされる軽さに、身構える術を私は知らなかった。

袖口に、思わず指が伸びた。

確かに、昨日の夕方に縫い直した糸目が、わずかに浮いている。母の形見のレースを解いて付け替えたばかりで、針目がまだ馴染んでいなかった。その一針を、見抜いた目がある。指の腹で糸目をそっと押さえると、灯りの加減で、浮いた糸が影を作っているのが分かった。私にだけ見えていた影を、他人も見ていたのだ。

それが、この宮廷だった。

十二番棚の第四巻を、背表紙の金文字で確かめた。指先が、革の冷たさに少しだけ震えた。震えを止めるために、本をきつく抱えた。胸に押し当てた革の表紙から、古い紙の匂いが立ち上って、ほんのわずかだけ、心拍を静めた。書庫を出る時、若い文官の一人が私の顔を——いや、私の顔ではなく、私の名前の持つ意味を——見ていた気がした。

書記室に戻り、エルザの卓に本を置いた。

「ご苦労さま」

短い言葉だった。けれど、それは今日、私が受け取った最初の中立な言葉だった。私は頭を下げ、自分の席に戻った。差し戻された書類の束が、まだそこにあった。

退庁の鐘が鳴った時、指先は黒く染まり、首の後ろが凝り固まって動かなかった。肩を回そうとして、鎖骨のあたりで小さく音が鳴った。窓の外はすでに橙色に染まり、机の木目が夕陽を吸って、朝とはまったく違う顔をしていた。

回廊を戻りながら、ふと訓練場の方角に目をやった。夕暮れの光の中、今日はもう誰の姿もなかった。砂地に残る足跡も、風が一日かけて消していた。

そう思ったのに——。

柱の陰で、さっきの若い文官が別の男と話していた。今度はもう少し年嵩の、襟元に銀の線が一本入った制服。肩章の形が違う。貴族派閥の下級官吏の見本のような色だった。

「アーレンスの娘、面白いね。父親の借財の証文、どこに流れてるか知ってる?」 「さあ。——でも、調べる価値はあるかも」

声は、今度は私に聞かせるつもりで放たれていなかった。

聞こえてしまったのは、私の足音が偶然、柱の裏で止まったからだ。止めた覚えはない。けれど、足が止まった。靴底が石畳に触れたままの形で、体の重心だけが前に進めなくなっていた。

借財の証文。どこに流れているか。

指先のインクが、夕闇の中で見えなくなった。私は、自分の袖口の糸目を、もう一度そっと押さえた。押さえた指先に、昼のインクの冷たさと、朝の羽根ペンの感触が、いっぺんに戻ってきた。

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