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飾り窓の令嬢と灰青の騎士

第3話 第3話

第3話

第3話

朝の鐘が四つ鳴った時、卓の右端にあったはずの一枚が、なくなっていた。

指先で机の木目をなぞった。昨夜、退庁の間際に最後に封印した決裁書。赤い蝋で三度押した、王印の控えが付くはずの一枚。書記室を出る前、確かに他の束の上に載せて重しを置いた。重しは同じ位置にあった。下の束も動いていない。その一枚だけが、綺麗に抜き取られていた。

喉の奥で、昨日の夕暮れの声がもう一度鳴った。借財の証文。どこに流れているか。柱の陰で聞いた声を思い出すと、指先が冷たくなった。

「……どうしました」

隣の席の文官が、ちらりとこちらを見た。昨日、カイルの名前を教えてくれた人だった。今朝はもう、昨日ほどの無関心はない。新入りが何かをやらかすのを待っている目つきだった。

「いえ。少し、確認したいことが」

声を整えた。震えを押し込めた。袖口の浮いた糸目を、膝の下に隠した。

もう一度、卓を見た。羽根ペンの軸は昨日と同じ角度で置かれている。硝子の文鎮の縁に、昨日はなかった細い埃が線を引いていた。誰かの袖が触れた跡。そう思った瞬間、胸の奥で何かが縮こまった。

エルザの卓の方角から、紙をめくる音がした。まだこちらに気づいていない。私は息を殺し、手元の台帳を開いた。昨日振った番号の一覧。決裁書の通し番号は一二九四。今朝あるべきだった一枚の番号。台帳には確かに記されていた。けれど、その番号の書類は、もうここにない。

締切は、鐘七つ。王宮南門から東州への特使が発つ刻限。それまでに王印の官房へ回さなければ、州令の改定が一日遅れる。一日でも遅れれば、私の名前が、追跡の筆頭に残る。

覚悟していたものが、昨日の夕暮れに聞いた声の形をして、確かに来た。

鐘が五つ鳴るまでの間、私は二度、書記室を出た。

一度目は、昨日使いに出された書庫の十二番棚。もしや昨夜のうちに、誰かが紛れ込ませたのではと思ったのだ。第四巻の革表紙の裏、帳面の束の間、棚の奥の暗がり。指を差し入れて探った。古い革の匂いに、昨日の震えが指先に戻ってきた。見つからなかった。

二度目は、決裁済みの書類を収める南棟の保管室。鍵番の老文官に頭を下げ、一二九四番の所在を尋ねた。老人は眼鏡をずらし、帳面の端をゆっくりと繰った。長い沈黙の後、首を振った。

「昨日の分は、まだ上がっておりませんな」

上がっていない。つまり、書記室から出ていない。書記室の誰かが持ち出した——いや、そう言い切るには、まだ根拠が弱い。薄暗い保管室の天井から、蝋の垂れた匂いが落ちてきて、鼻の奥で乾いた。

書記室に戻った時、エルザがこちらを一瞥した。

「手が止まっているようですが」

声は、昨日と同じ水の温度だった。

「申し訳ありません、一二九四番の書類を」 「一二九四。封印は済んでいたはずですね」 「はい。昨夜、最後に」 「でしたら、今朝あるはずです」

短い応答だった。事実を問うだけの声。けれど、その問いの先に、私が答えなければならないものが待っていた。

「……今、探しております」

頭を下げた。下げた時、前髪のひと房が頬に落ちて、指で払えなかった。両手は書類の端を押さえたままだった。袖口の浮いた糸目が、もう一度、視界の端で揺れた。

エルザは何も言わなかった。何も言わずに、自分の卓の書類に戻った。その無言が、叱責より重かった。叱責なら、謝罪で応じられる。けれど無言は、結果でしか埋められない。

私は書記室を出た。

回廊は朝の光で白く染まっていて、歩く足音が壁に跳ね返った。頭の中で、昨日の柱の陰の声が何度も再生された。面白いね。調べる価値はある。あの声の持ち主が、朝のうちに書記室に近づけただろうか。書記室の鍵は、筆頭の文官が管理している。けれど、決裁書の運搬は下官にも許される。卓の上に重しで押さえただけの一枚を、朝の誰かが「そちらの棚に戻しておきました」と言って持ち去ることくらい、難しくはないはずだ。

私は貴族派閥の手口を知らなかった。けれど、手口を知らなくても、筋は見えた。

没落子爵家の娘が初日から失態を起こし、翌日には重要書類を紛失する。それだけで、私の名前は王宮から消される。借財の証文を持つ誰かにとって、私がここで立ち続けることは、都合が悪い。昨日の柱の陰で、彼らは既にその算段を始めていたのだ。

廊下の突き当たりで、足が止まった。

左に曲がれば書記室。右に曲がれば、使われていない古い書庫。番号札の欠けた棚が並び、誰も近寄らない暗い場所。そこに書類を隠すのは、理にかなっている。朝のうちに運び込み、夕方に回収する。見つからなければそのまま紛失扱い。それが、いちばん筋の通った嫌がらせだった。

右に、曲がった。

古い書庫は、地下にあった。

昨日下りた階段の、さらに一つ向こう。踏み石の縁が丸く削れ、手すりの鉄が冷え切っていた。燭台は半分が消えていて、残った火が壁に揺らぐたび、書棚の影が伸びたり縮んだりした。空気は、紙よりも石の匂いが濃かった。

私は棚の間を歩いた。

番号札の欠けた棚。背表紙の色褪せた本。指を伸ばすと、埃が小さな粒になって光の中に舞い上がった。一冊ずつ、背表紙に触れた。革の乾き、布装の毛羽、ざらつく紙の小口。触れた指先にインクが移り、また新しく黒くなった。

三つ目の棚の前で、膝をついた。

いちばん下の段。床に近い暗がり。そこだけ、革装の本が一冊だけ、他の本よりわずかに手前に出ていた。抜き取って元に戻す時、戻しきれなかった一指分の隙間。そういう違和感だった。私は本を引き抜いた。

何も、なかった。

本の背後の埃の中に、書類を差し込んだ痕跡らしきものが、あるような、ないような。光が足りなかった。指先で床を撫でると、埃の粒がまとわりついた。喉の奥が、乾いた。

膝が、だんだん冷えてきた。

石の床の冷たさが、膝蓋骨の裏まで染みていた。立ち上がる気力が、一瞬、萎えた。締切までの鐘が、頭の上を通り抜けていく。あと二つ。あと二つで、私は王宮から去らなければならないのかもしれなかった。父の借財、母の絨毯の染み、夜会の壁際——それらが、一度に胸の奥で重たくなった。

石の上を革の長靴が踏む音が聞こえたのは、その時だった。

一定の間隔で、迷いのない歩幅。燭台の炎が、一つ揺れた。影が、棚の向こうに立った。

声をかけようとした。けれど言葉が出なかった。

カイル・ヴェルナーが、そこに立っていた。

訓練着ではなく、黒の略装だった。剣は佩いていない。腕を組むでもなく、ただ立っていた。灰青の瞳が、膝をついた私を一度だけ見て、それから書棚に移った。彼は何も聞かなかった。私が誰であるか、ここで何をしているか、何を失ったか、一つも。

ただ、無言で、いちばん高い棚に手を伸ばした。

背の届かない私には触れられなかった段。彼の指が、一冊ずつ本を傾け、その後ろを確かめた。長い指だった。訓練場の朝に剣を握っていた手。その手が、今は本の背を撫でている。革の縁を、一列ずつ。

私は、自分が何をすべきかようやく思い出し、隣の棚に向き直った。

言葉は、なかった。ただ、彼の足音と私の衣擦れが、暗い書庫の中で交互に聞こえた。燭台の炎がわずかに揺れるたび、棚の影が形を変えた。彼がどの棚を終え、どの棚に移ったのか、見ずとも分かった。背後の空気の動き方で、分かった。

二つ目の棚、三つ目の棚、四つ目の棚。

見つけたのは、五つ目の棚の、いちばん下の段だった。

私が膝をつき、彼が同じ段に手を伸ばした。古い辞典の裏側。薄い紙の束が、革と石の間にきつく差し込まれていた。私の指と、彼の指が、同時にそれに触れた。

指先が、触れた。

手袋のない指だった。彼の指は乾いていて、温度が低かった。訓練の後ではない、朝のまだ冷え切っていない手。私の指は震えていて、おそらくインクで黒かった。触れ合ったのは、ほんの一瞬。けれど、その一瞬の間に、私の心拍がひとつだけ、跳ねた。

彼は紙束を引き抜き、私の手に渡した。

「時間、ないんだろう」

声は、朝の訓練場で聞いたものと同じだった。温度のない、それでいて、耳の奥に沈んでいく声。

私は封印の蝋を確かめた。三度押された赤。番号は一二九四。間違いなかった。喉の奥で息が戻ってきた。ありがとう、と言おうとして、顔を上げた。

彼はもう、棚の陰から出ていくところだった。

略装の背中。広くて、重たげな背中。朝の訓練場で見たのと、同じ角度で光を背負っていた。私が立ち上がろうとした時、彼の足音はもう階段の下で遠ざかっていた。振り返りもしなかった。礼を受け取ろうともしなかった。

残されたのは、まだ膝に染みる石の冷たさと、指先に残った彼の指の温度の低さ。それだけだった。

なぜ、助けてくれたのだろう。訓練場で一度、目が合っただけの人が。立入禁止だと告げた声の持ち主が。いや、そもそも、なぜこの書庫にいたのだろう。

問いの答えは、彼の背中と一緒に、階段の奥に消えていた。胸に押し当てた紙束の、封印の蝋が、まだかすかに温かい気がした。

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