第2話
第2話
風が死骸の匂いを運んできた。
鉄と、何か酸味のある生臭さ。獣の体から流れ出した血が草の根に染み、まだ温かい蒸気を立てていた。それが私の鼻先まで届いて、喉の奥が引きつる。慣れない匂いに、呑み込むのに何度か唾を飲んだ。
騎士は動かない。
抜き身の刃に血をまとわせたまま、彼は私を見下ろしていた。正確には、私の右手を、だった。紋章は、まだ薄く光を帯びている。先ほど獣たちに追われていたときよりも、光の色が濃い気がした。皮膚の下で誰かが息を潜めているような、そんな錯覚さえあった。
もう一度、低い声。
「————」
意味は、やはり分からない。けれど先ほどより言葉の数が増えていた。問い詰めるような語尾。断片を手繰り寄せて、意味を組み立てようとする音のまとまり。その声の温度が紋章の上に落ちて、皮膚に跡を残すような気がした。
私は首を横に振った。それが最も誠実な返事だった。
答えを持たない。問われていることすら分からない。ただ、草の上に座り込んだままの両膝に、先ほどから鈍い痛みが続いていた。転んだ拍子に擦れたのだろう。制服のスカートの縁が血で汚れている。それが私の血なのか、獣の血なのか——考えることを、しばらく頭が拒んだ。
騎士がふっと片膝をついた。
鎧の金属音が、草の上で湿った音を立てた。思わず身体を引いたが、彼の視線は私の顔ではなく、右手の紋章に吸い寄せられている。鋼鉄の籠手が、触れる寸前で止まった。指一本分の距離を空けて、紋章の上に影を落とす。
そのまま、長い沈黙があった。
兜ははずされたままで、私は彼の横顔を見ていた。睫毛が思いのほか長い。顎の線が硬く引き締まっていて、血の跳ねた頬の皮膚が青白かった。視線は私の掌に縫い付けられたまま、瞬きだけが、時折、思い出したように起きる。
——この人は、この紋章を、知っている。
声にならない直感が胸に降りた。私のことは何も知らない。けれど、私の手に刻まれたこれを、確かに見知っている。その確信が、ほんの少しだけ恐怖を和らげた。少なくとも、無意味ではない。この場所と私のあいだに、細い糸が一本だけ通ったような気がした。
騎士が立ち上がった。
剣の血を振り払い、鞘に納める動作は、先ほどの戦闘と同じほど無駄がなかった。彼は私の前に手を差し出した。鎧に覆われていない、左手だけ。指の長い、骨ばった手だった。
迷いがなかったわけじゃない。けれど、残された道もなかった。私はその手を取った。籠手ごしの熱でさえ、久しく誰かに触れていない私の指には眩しく感じられた。立ち上がる瞬間、膝が震えて、彼の腕に少し体重を預けてしまった。騎士は何も言わなかった。ただ、私がまっすぐ立てるまで、手を離さなかった。
歩くぞ、というような仕草。顎で示した方向に、遠く、石造りの影が見える。先ほど私が目指していた建物だった。けれど近づくにつれて、それが街ではないことに気づいた。城壁と呼ぶには控えめな、四角い石組みの砦。低い木の塀と、見張り台。風に旗が鳴っている。濃い緑と白、それから見覚えのない紋章——剣と星が組み合わさった意匠が、夕暮れの風に翻っていた。
騎士は私の半歩前を歩いた。
私の足が獣の死骸のそばを通るとき、彼は身体の向きを変えて視界を遮った。歩幅を私に合わせる気配はない。ただ、歩みは一定に保たれていた。速くも遅くもなく、草の波をかき分ける私の呼吸がぎりぎり追いつける速度。それは合わせているのか、単に彼の歩幅がそういうものなのか、私には判別がつかなかった。
砦の門は、近づく前に開いた。
見張りの兵士が、こちらを認めた瞬間にだった。木製の重い扉が軋む音を立てて開き、中から駆け出してきた兵士が、数歩のところで足を止めた。
「——」
兵士の顔から、みるみる血の気が引くのが見えた。
私を見たからではない。騎士を見たからだった。手にしていた槍の柄が、兵士の手の中で小刻みに揺れていた。目線は騎士の足先あたりに落ちて、そのまま上げられない。奥から別の兵士が数人、慌てた足取りで出てきた。やはり同じだった。皆、騎士の姿を認めると動きを止め、槍を地面に立て、こちらが通り過ぎるまで頭を下げたままでいる。
言葉の意味は分からない。けれど、囁きは耳に届いた。
「レオンハルト……」 「——副長、なぜ——」 「こんな辺境に、お一人で……」
名前、らしき音の連なり。それが彼らの口々に漏れ、砦の中へと小さな波のように伝わっていく。私の隣を歩く黒鎧の男は、その波を一切振り返らなかった。囁きも、恐れも、挨拶も、自分に向けられた全てを平然と素通りさせ、まっすぐ砦の中庭へと進んでいく。
中庭に出た瞬間、砦の中にいた兵士全員の視線が集まった。
二十人ほどはいただろうか。鎧の整備をしていた者、馬の世話をしていた者、土嚢を積んでいた者。作業の途中で手が止まり、それぞれの顔に同じ表情が浮かんでいた。畏怖。それから、戸惑い。視線が私に移ると、今度は別の色が混ざる。疑惑、あるいは好奇心。黒鎧の副長が、見知らぬ少女を連れて帰還したことへの、説明を欲する目。
騎士はそれらのどれにも応じなかった。
通されたのは、砦の奥の、小さな執務室だった。
石の壁に松明が一つ、机の上に獣脂の蝋燭が三本。炎が揺れるたび、壁に私たちの影が大きく伸び縮みする。机の前には、白髪混じりの顎髭を蓄えた男がいた。騎士を見た瞬間、椅子を倒す勢いで立ち上がり、深々と頭を下げた。
騎士が短く何かを言った。
男は頭を下げたまま、幾度も頷いた。視線が一瞬だけ私に向けられ、そこで明らかに戸惑いの色が走った。騎士は私の右手を指し示した。籠手の人差し指が、紋章の方向だけを示して、それ以上は動かない。男は顎髭を撫でながら、それからようやく、私のそばへ歩み寄ってきた。
距離を保ったまま、彼は目を細めた。
私の掌を覗き込んで、息を呑む。小さな、しかし確かな動揺。彼が漏らした一言は、砦の外で兵士たちが発したものと同じ響きを持っていた。けれどもっと、信じがたい、というような色が濃かった。老人の顔がわずかに青ざめ、騎士に向き直って何かを矢継ぎ早に尋ね始めた。
騎士は、短く応じた。
聞き取ろうと思った。意味を追うのではなく、音の並びを覚えようとした。孤児院で外国の歌を覚えるときに使っていた方法だった。音を、そのまま頭に刻みつける。意味は後から、きっと、何かの拍子にはまるはずだった。
そうして私は、彼の名前を拾った。
レオンハルト。
老人が三度繰り返したその音を、私は胸の底で反芻した。レオン、ハルト。日本語の語尾で切っても、どこまでが名で、どこからが称号か分からない。けれどそれは間違いなく、今、目の前に立っている男の名だった。私がこの世界で最初に覚えた、人の名前だった。
水が運ばれてきた。
陶器のカップに、冷たい水。私は両手で受け取って、一口含んだ。水の味だった。それだけだった。けれどその「ただの水の味」に、喉の奥が痛くなった。肺がようやく、まともな形で膨らみ直すのを感じた。
カップの縁に、私の涙が一滴、落ちた。
泣いているつもりはなかった。ただ勝手に、目の奥から溢れて頬を伝っていった。手の甲で乱暴に拭って、顔を伏せた。こんなところで泣くべきじゃない。涙を見せてはいけない。孤児院で身につけた最初の作法だった。泣いても誰も来ない。泣いても、何も変わらない。だから、泣くな。
騎士の視線が、私の上に落ちていた。
感じた。見なくても分かった。先ほどまで紋章だけを追っていた視線が、初めて、私の顔の方に向けられている。それが何を意味するのか分からなかった。憐憫でも同情でもない、もっと計算された——けれど、温度のない——視線。
彼は、何も言わなかった。
ただ、私のカップに、もう少し水を注いだ。水差しの口が、陶器の縁に小さな音を立てた。それだけだった。それだけのことが、どうしてか、私の胸の内側でひどく大きく響いた。
老人が騎士に何かを進言し、騎士がそれを短く退けた。押し問答のような会話が数分続き、やがて老人は諦めたように息を吐いた。「王都」という音だけが、老人の口から三度、漏れた。騎士は頷きも否定もしなかった。ただ、扉のほうへ顎をしゃくった。
案内された部屋は、兵舎の端にある小さな客間だった。
石の壁、木の寝台、窓は細長い、矢狭間の名残のような縦長のもの。兵士が蝋燭を置き、会釈をして出ていく。扉が閉まると、私はようやく、自分ひとりになった。
崩れるように寝台に腰を下ろした。
膝ががくがくと震えていた。先ほどまで気を張っていた反動が、遅れて背骨から這い上がってくる。息をするたび、肋の奥がひりついた。右手の紋章は、もう光っていない。けれど指先で触れると、皮膚の下にわずかな温もりが残っている。誰かの体温のような、そんな錯覚さえあった。
窓の外で、二つの太陽が完全に沈んだ。
代わりに空に昇ったのは、やはり二つの月だった。片方は白く、片方は薄い橙色。月光が石の床に、ふたつの濃さの違う影を落とす。私の影も、二重だった。
扉の向こうで、鎧の金属音がひとつ響いた。動いて、そして、止まった。立ち去る音ではなかった。扉のすぐ外で、壁に背を預ける、そんな気配だった。
レオンハルト、と心の中で呼んでみた。
音だけの、意味の知れない名前。けれどそれが——この世界で私が初めて知った、誰かの輪郭だった。明日の朝には、老人が繰り返したあの「王都」へ、私は連れていかれるのだろう。寝台の縁を握る指の先が、わずかに震えた。