Novelis
← 目次

刻印の騎士と、呼ばれなかった名前

第1話 第1話

第1話

第1話

誰にも手を振ってくれる人がいない——そのことに慣れたのは、たぶん八つか九つの頃だった。

孤児院の廊下はいつも薄暗くて、冬になると窓の結露が朝日を滲ませた。面会日に誰かが来る子と、誰も来ない子がいて、私はずっと後者だった。泣いたことはある。でもそれは最初の数年だけで、やがて涙は出なくなった。悲しくなくなったわけじゃない。ただ、悲しいという感情の輪郭がぼやけて、胸の奥に沈殿していっただけだった。

大学生になって孤児院を出てからも、その沈殿物は消えなかった。バイト先で「お疲れさま」と言われても、講義室で隣の席の子に教科書を見せてもらっても、どこかで薄い膜一枚を隔てているような感覚がある。私はいつも、世界のほんの少し外側に立っていた。

四月の夕暮れ、大学からの帰り道だった。

交差点の信号が青に変わって、私は横断歩道に足を踏み出した。イヤホンからは聴き慣れたピアノ曲が流れていて、春の風がコートの裾を揺らしていた。何の変哲もない、いつもの帰り道。

——光が、足元から湧いた。

白ではなかった。淡い金色の、水面に差す陽光のような光。それが横断歩道のアスファルトを突き破るように広がって、私の影を飲み込んだ。叫ぶ間もなかった。足場が消えて、体が沈んで、意識が途切れる直前に感じたのは、イヤホンから流れるピアノの最後の一音だけだった。

---

頬に触れたのは、草だった。

冷たくて、少し湿っていて、土の匂いがした。目を開けると空が見えた。夕暮れとも朝焼けともつかない、薄紫と橙が溶け合った空。見たことのない色だった。日本の空は、こんな色をしない。

体を起こすと、視界いっぱいに草原が広がっていた。うねるような丘陵が遠くまで続き、地平線の際に石造りの建物の影が見える。風が強くて、草が波のようにうねっていた。空気が違う。冷たくて澄んでいて、肺の奥まで入り込んでくるような、知らない空気。

ここは、どこだろう。

立ち上がろうとして、右手に違和感を覚えた。手のひらを返すと、そこに見覚えのない紋様が浮かんでいた。円を基調とした幾何学模様で、淡い光を放っている。指で触れても凹凸はなく、皮膚そのものが発光しているようだった。こすっても消えない。水で洗おうにも、水がない。

鞄がなかった。スマートフォンも、財布も、学生証も。コートのポケットに手を入れても、指先が触れるのは裏地だけ。私は文字どおり、手ぶらでこの場所に放り出されていた。

パニックになるべきだったのかもしれない。でも不思議と、頭の片隅は冷えていた。孤児院で身につけた癖だった。怖いときほど感情が遠のいて、代わりに観察が始まる。泣いても誰も来ないと知っている体は、泣く前に状況を把握しようとする。

石造りの影がある方へ歩こう。人がいるかもしれない。

草原を歩き始めて、すぐに気づいたことがある。太陽が二つあった。ひとつは西に沈みかけていて、もうひとつは——小さくて、赤みがかった光が——北の空の低いところに浮かんでいる。

ああ、と思った。声にはならなかった。

ここは、地球ではない。

足が止まった。止まったまま、しばらく動けなかった。風が髪を攫い、草が足首を撫でる。二つの太陽が投げかける影は薄く、重なって、私の足元で奇妙な形を作っていた。

怖い。怖いけれど、同時に、胸の底で沈殿していた感情が微かに動くのを感じた。地球では誰にも必要とされなかった。ここでは、それ以前の問題だった。私を知る人間が一人もいない。名前を呼ぶ人がいない。存在を証明するものが何もない。

けれどそれは、孤児院にいた頃と何が違うのだろう。

自嘲めいた息を吐いて、私は再び歩き出した。石造りの街並みを目指して、丘を越えようとしたときだった。

地面が震えた。

最初は地震かと思った。でも違う。振動には規則性があった。何かが地面を打つ、重く、速い連続音。足音——足音だ。それも、一つや二つではない。

丘の向こうから黒い影が溢れ出した。

四つ足の獣。ただし、私が知る獣の形をしていなかった。体表は鉱石のように硬質な鱗に覆われ、口腔は裂けるように大きく、そこから蒸気のような息が漏れている。目は赤い。赤くて、知性がなくて、ただ飢えだけが詰まっている。十を超える数の群れが、こちらに向かって駆けてくる。

走った。考える前に体が動いていた。草に足を取られ、転び、起き上がり、また走る。右手の紋章がちりちりと熱を持ったが、構っている余裕はなかった。背後で獣たちの咆哮が重なる。大気を引き裂くような声に、全身の毛が逆立つ。

追いつかれる。

本能が告げていた。速さが違いすぎる。人間の足で逃げ切れる相手ではない。振り返れば、先頭の一体がもう十歩ほどの距離まで迫っていた。鱗の隙間から覗く筋肉が波打ち、口が大きく開かれる。牙の一本一本が指ほどの長さで、唾液が糸を引きながら風に散った。獣の吐く息が背中にかかる。熱く、生臭く、死の匂いがした。

足がもつれた。膝が草地に沈む。右手をついた瞬間、紋章が強く光った。私は光に目を灼かれながら、それでも顔を上げた。

——影が降ってきた。

黒い。人の形をした、黒い影。それが獣と私のあいだに、音もなく着地した。着地の衝撃で地面が陥没し、放射状に草が倒れた。土煙が舞い上がり、獣たちの足が一瞬だけ止まる。

黒鎧だった。全身を覆う漆黒の甲冑。背中から見えるのはそれだけで、顔も体格も分からない。ただ、その背中が途方もなく大きく見えた。実際の体格以上に、空間そのものを支配するような圧があった。

鎧の騎士は剣を抜かなかった。いや、抜く必要がなかったのかもしれない。先頭の獣が跳躍し、騎士の頭上を飛び越えようとした瞬間、黒い刃が一閃した。抜刀から斬撃まで、私の目では追えなかった。ただ獣の体が二つに割れて、左右に飛び散るのが見えただけだった。

血が、草を濡らした。

騎士は振り返らなかった。二体目の獣が突進してくる。横薙ぎの一撃。三体目、四体目。剣筋に迷いがない。一撃ごとに正確に急所を穿ち、獣が地に伏していく。足運びには無駄がなく、鎧の重さを感じさせない。舞うようだと思った。ただしそれは優美な舞ではなく、死を配る舞だった。

五体目を斬り伏せたとき、刃から振り払われた血が弧を描いて宙に散った。赤い飛沫が二つの太陽の光を受けて、一瞬だけ宝石のように煌めいた。それが美しいと思ってしまった自分に、背筋が冷えた。

残りの獣たちが怯み、足を止め、そして散った。

草原に静寂が戻る。風の音。血の匂い。二つの太陽の光が、倒れた獣の鱗を鈍く照らしている。

騎士が振り返った。

兜はなかった。露わになった顔は若かった。切れ長の目、高い鼻梁、頬にかかる黒髪。端正な顔立ちだったが、その瞳には感情と呼べるものが見当たらなかった。冬の湖を思わせる青灰色の目が、まっすぐに私を見下ろしている。

そして——その視線が、私の右手に移った。

紋章はまだ光っていた。薄く、けれど確かに。騎士の目がわずかに見開かれ、唇が微かに動いた。それは私が初めて見る、彼の感情の揺れだった。

低い声が落ちてきた。

聞いたことのない言語だった。意味は分からない。でも声の響きから、それが問いかけであることだけは理解できた。

私は何も答えられなかった。言葉が通じない。ここがどこかも、この紋章が何かも、なぜ自分がここにいるのかも、何ひとつ分からない。ただ草の上に座り込んだまま、目の前の騎士を見上げることしかできなかった。

風が吹いた。騎士の黒髪が揺れ、その向こうで二つの太陽が沈みかけている。

私はこの世界で、やはり一人だった。言葉も、名前も、居場所もない。でも——目の前のこの人だけは、今、確かに私を見ている。私の存在を認識している。それがどういう意味を持つのか、このときの私にはまだ分からなかった。

騎士の青灰色の瞳が、紋章と私の顔を交互に見た。そしてもう一度、今度はゆっくりと、何かを確かめるように言葉を発した。

やはり、意味は分からない。

けれどその声の底に、かすかな動揺が混じっていることだけは——なぜか、分かった。

この話はいかがでしたか?

↓ スクロールで次の話へ