第3話
第3話
砦の夜は短かった。
白い月が先に沈み、橙の月がまだ東の空に残っている時刻に、扉が三度叩かれた。眠ったつもりはなかった。寝台の縁に腰掛けたまま、私はずっと自分の右手を見つめていた。紋章は光を潜めていたけれど、指の腹で押すたび、皮膚の奥から微かな熱が返ってくる。体の中に、誰かの呼吸がひとつだけ紛れ込んでいるような——そんな感覚が、夜通し抜けなかった。
扉の向こうに立っていたのは、昨日水を注いでくれた老人だった。彼は私を見て目を伏せ、それから廊下の奥を顎で示した。支度を、という意味らしかった。言葉は通じないのに、意図だけが骨を伝うように届く。私は毛布を畳み、乾いた布で顔を拭き、靴紐を結び直した。それだけの手順が、この世界で生き延びるために私に許された、最初の作法だった。
中庭に出ると、幌のついた四輪の荷馬車がもう用意されていた。二頭の芦毛が鼻息を白く吐き、御者台の下で蹄鉄がこつこつと石を叩いている。馬車の傍らに、黒鎧の騎士が立っていた。兜を外した彼の横顔が、朝の色に薄く濡れていた。昨日よりも、影の薄い横顔だった。
——レオンハルト。
心のなかで音をなぞって、私はそれを声には出さなかった。呼ぶ資格が、まだ自分にあるとは思えなかった。
彼は私を見ると、短く頷いた。御者台ではなく、荷台に乗れ、という仕草。籠手を外した左手が差し伸べられて、私はそれを取った。鎧越しでない手は、思っていたよりも冷たかった。冷たいのに、皮膚が覚えるほど、確かに温度があった。荷台に上がると、膝の上に毛布が一枚、落とされた。誰がそれを置いたのか、顔を上げる前に気配は消えていた。
馬車が動き出す。砦の見張り台から兵士たちが頭を下げたまま見送る姿が、幌の隙間に一瞬だけ流れた。彼らが見送っていたのは、私ではない。それでも、私はこの世界に来て初めて、誰かに背中を見送られた。その事実だけが、昨夜の涙とはまったく違う温度で、喉の奥に残った。
草原の丘を越え、二つの太陽が中天に昇る前に、街道の先に都市が見えた。
遠くから見る王都は、石で編まれた大きな貝殻のようだった。幾重もの白い城壁が丘の稜線に沿ってうねり、中央に尖塔の束が立っている。近づくにつれて、その石の白は単なる白ではなく、朝の光を吸って薄い金色を含んでいることに気づいた。道の両脇に市場が開き始め、焼きたてのパンの匂いと、どこかで誰かが吹く木笛の音が、幌の隙間から入ってくる。ここにも、生活がある。当たり前のことだった。けれどその当たり前が、昨日までの草原の静寂と対比されて、胸の内側を一度だけ叩いた。
王宮の門で、馬車は止まらなかった。衛兵たちが騎士の姿を認めると槍を引き、通路を空ける。石畳の上を蹄鉄が打つ音だけが、壁に跳ね返って奇妙な高さで響いた。
降ろされた中庭は、砦のそれとは何もかもが違った。磨かれた白い石畳。水を湛えた大理石の噴水。柱廊の奥に続く扉は蔓草の彫りを施された木で、取っ手は磨かれた真鍮だった。中庭を横切るあいだ、侍女や衛兵たちの視線が束になって私を追った。彼らの目に映っているのは、泥の染みたスカートと、擦れた膝と、何処から来たのかも知れない娘だった。恥ずかしい、とは思わなかった。ただ、見られている、という事実だけが、薄い膜一枚を挟んで皮膚の上を滑っていた。
案内されたのは、半球の天井を持つ広間だった。
中央に円卓、それを囲む数脚の椅子。壁の高いところに青いガラスの窓がはめ込まれ、光が柱の束のように床へ落ちている。円卓の奥に、紫紺のローブをまとった痩せた男が一人立っていた。首元まで覆う銀の鎖、薄い灰色の目。若くも老いても見える、年齢の読めない顔だった。彼が宮廷魔術師なのだと、誰かに教わるよりも先に、私の直感がそう告げた。
魔術師が私に短く何かを告げ、片手を差し出す仕草を見せた。それが命令ではなく、求めであることは、彼の目の温度から理解できた。私は円卓に歩み寄り、右手を卓の上に載せた。
掌の紋章は、卓に近づけた瞬間、薄く光を取り戻した。
魔術師が、息を呑んだ。
ローブの袖をまくり、彼は長い指で宙に小さな印を描いた。指先から薄青の光が糸のように伸び、紋章の輪郭をなぞる。糸は皮膚に触れる寸前で止まり、そこで分岐し、円を作り、また束になった。光の密度が増すにつれ、部屋全体の空気がわずかに冷えていくのが分かった。冷房の冷えではない、もっと別の種類の冷たさ。皮膚の下まで入り込んでくる、「測られている」温度だった。
魔術師の眉が何度も動いた。驚きを押し殺そうとして、失敗した顔だった。やがて、彼の唇から低い言葉がひとつ、こぼれた。
周囲に控えていた文官たちが、その一語を聞いて一斉に顔色を変えた。椅子を立つ者、帳面を開き直す者。「契約の刻印」——そう聞こえた。意味を理解したわけではない。ただ、その三音の連なりだけが、皮膚の紋章と共鳴するように胸の奥で鳴った。それから続いて、「百年」という数字の欠片。そこから先は、私には拾えない速度で議論が転がり始めた。
レオンハルトは、入口のそばで壁に寄って立っていた。
広間の他の誰とも違う立ち方だった。驚きも、納得も、彼の青灰色の瞳にはなかった。ただ、知っていたことが確かになった——それだけの静かな何かが、うすく影を落としていた。
白い石の階段を踏む足音は、先触れの鐘よりも早く私の耳に届いた。
扉が開いた。衛兵が両脇に開き姿勢を正す、その間を男が一人、歩いてきた。中年の、胸の厚い男だった。白銀混じりの髪、狭まりつつある額、濃紺のマントを肩から流し、首元に金と紫の刺繍。目が、重かった。国の重さを背負った人間の目。国王、という肩書が自然に頭の中で結ばれた。
広間にいた誰もが膝を折って頭を下げた。魔術師も、文官たちも、衛兵たちも。レオンハルトですら、片膝を床につけ、拳を胸に当てていた。私だけが、どうしていいか分からず、ただ椅子の縁を握って立ち竦んでいた。爪が木の縁に食い込んで、指先が白くなった。
国王は私の正面まで歩み寄り、掌の紋章を見下ろした。
目が細められた。それから、魔術師を短く促す。魔術師が深く息を吸い、先ほどよりも長い言葉で説明を始めた。幾度も繰り返される「契約の刻印」という三音。百年——もうひとつの拾えた言葉。百年のあいだ、誰の皮膚にも現れなかったもの。私の右手に、なぜ、それが宿ったのか。問いかけは私ではなく、虚空に向かって投げられ、そして、誰も答えを持たなかった。
「……レオンハルト」
国王が、ただ一人、静かな声で彼の名を呼んだ。
片膝をついたままの騎士が、わずかに顔を上げた。国王が短く問う。紋章を最初に見たときの状況、魔獣を斬った瞬間のこと——仕草と視線の動きで、私にも問いの中身はおおよそ分かった。レオンハルトは迷いなく答えた。声は硬く、低かった。けれど答えの途中で、彼の視線がほんの一瞬だけ、私を掠めた。
青灰色の目の底に、微かな揺らぎを見た。
あのとき。草原で獣が私に迫ったとき。彼はなぜ、あの場に降りてきたのか。私の目の前に立ち、剣を抜く前に、体が先に動いたのではなかったか——。
その事実を、今、彼自身が確かめているような目だった。意志よりも先に、手足が私を庇うように動いた。それを、彼は口に出して誰かに語りはしないだろう。けれど国王の問いに答える声の端に、ほんの少しだけ、その事実が混じっていた。私はそれを、彼の声の温度の低さで察した。
議論が再び熱を帯びた頃、扉の奥から衣擦れの音が近づいた。
現れたのは、若い女性だった。私より少しだけ年上に見える。薄い金の髪を結い上げ、薄青のドレスの胸元に、銀の百合があしらわれている。肌は透けそうなほど白く、目は春の氷の色をしていた。彼女が入ってきた瞬間、その場の空気が——ほんの少しだけ、違う方向へ傾いた。
誰かが小さく、彼女の名を呼んだ。
「シルヴィア様」
国王がわずかに眉を動かし、娘を見た。第一王女、という言葉を、もちろんこのときの私はまだ知りようがない。けれど、その入り方と、周囲の視線の集まり方だけで、彼女がこの広間で特別な位置にいる女性だと分かった。
彼女は微笑んでいた。柔らかな、人を油断させる微笑だった。その微笑のまま、まっすぐ私の掌を見た。視線はあくまで優しかった。けれど、その奥に刃のような温度があった。刃そのものというよりも、刃の鞘を見せられているような——いつでも抜ける、とだけ伝えるための、静かな圧。
彼女は次に、レオンハルトを見た。レオンハルトは顔を上げなかった。片膝をついたまま、床の一点に視線を落としている。それでも、シルヴィアの唇の端が、さらにわずかに上がった。何かを確かめて、何かに満足したような、そんな微笑の形だった。
国王が、手を挙げて議論を制した。短い宣告がなされ、魔術師が頭を下げ、文官たちが帳面を閉じた。処遇が下ったのだ、と気配だけで分かった。何を決められたのか、私には一語も分からない。ただ、ひとつだけ、はっきり聞き取れた音があった。
「レオンハルト」
国王は、もう一度、その名を口にした。
騎士が立ち上がった。鎧の音が、高い天井の内側に跳ねた。彼は国王に向かって深く頭を下げ、それから、私の方へ身体を向けた。青灰色の瞳が、今度は、まっすぐに私を射抜いた。
広間の空気が、ひとつに結ばれた。
何がどう決まったのか、私は一語も理解していない。けれど——彼の目の温度が、砦で見たそれと、少しだけ違っていた。感情のないはずの瞳の奥に、細い紐のような線が一筋、通っていた。それは命令ではなかった。誰かに頭を下げられて受けた役目でもない、もっと、彼自身の意志に近い何かだった。
シルヴィアが、衣擦れの音を立てて近づいてきた。
彼女は私の右手を見下ろし、それから私の耳元に唇を寄せて、ただ一言だけ、柔らかな音を落とした。意味は分からない。けれど、その音の芯に混じった温度は、魔術師の鑑定よりもずっと冷たく、ずっと鋭かった。彼女は一歩下がり、今度はレオンハルトを見上げ、花のように微笑んだ。
右手の紋章が、皮膚の下で、ひときわ熱くなった。