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代償の聖女——静かなる逆転の譜

第2話 第2話

第2話

第2話

辺境へ向かう街道は、王都を離れるほどに荒れていった。

 石畳はいつしか途切れ、馬車の車輪は土と砂利の轍を踏むようになった。がたがたと容赦のない振動が腰骨を叩くたび、王都の滑らかな石畳が別世界のことのように感じられる。もっとも、あの磨き上げられた石畳の上で膝をつかされたのだから、懐かしむ義理もない。窓の外を流れる景色も、手入れされた並木から背の低い雑木林へ、やがて風に傾いだ痩せた灌木ばかりへと移り変わっていった。王都の威光は、街道の舗装と同じ速さで剥がれ落ちるらしい。

 出発して三日目の昼を過ぎた頃、御者が手綱を引いて馬車を止めた。

「お嬢さん、この先は峠道に入ります。日が暮れる前に越えたいところですが——」

 御者の声には、言いよどむような間があった。王都から雇われた初老の男で、事情は知らされていないようだったが、紋章を剥がされた馬車に護衛もなく乗る若い娘が何者か、察しはついているのだろう。道中ずっと余計なことは聞かず、ただ淡々と馬を走らせてくれた。その距離感がありがたかった。

「峠道に何か?」

「ここ数月、野盗が出るとの話がありましてね。街道の整備も行き届いておりませんで」

 野盗。なるほど、とこれはゲームの知識ではなく、公爵令嬢としてのセレスティーナの教養が反応した。辺境の治安維持は領主の責務だが、王都の関心が薄い地域では慢性的に手が回らない。とりわけ冬の終わりから春にかけて、食い詰めた者たちが街道沿いに流れてくる。

 私は手帳に目を落とした。王都を発つ前に書き写した辺境の地理。この先の峠には、古い石橋を渡る手前に見通しの悪い岩場がある。

「峠の石橋の手前——岩が道を狭めている箇所がありましょう?」

 御者が驚いた顔で振り返った。

「ええ、ございます。ご存知で?」

「父の書斎で地図を見たことがあるだけです。あの岩場を避けて、東側の旧道を回ることはできますか。遠回りにはなりますが、見通しが利く分、不意を突かれる心配は減るかと」

 御者はしばらく黙って考え込み、日に焼けた指で手綱を繰りながら、やがて小さく頷いた。

「旧道は荒れておりますが、通れなくはないでしょう。お嬢さん、よくご存知ですな」

 旧道は確かに荒れていた。馬車が揺れるたびに荷台の革鞄が跳ね、何度も手で押さえなければならなかった。けれど道は尾根筋に沿って緩やかに曲がり、右手には谷間の集落が小さく見え、左手には新緑の木立が続いていた。時折吹き上がる山風が草の匂いを運び、馬車の幌布をばたばたと鳴らした。見通しは良い。少なくとも岩陰から飛び出してくる類の危険はない。

 峠を越えた先の下り道で、御者が短く声を上げた。

「——あれを」

 街道の本道と旧道が合流する地点に、荷馬車が一台横転していた。荷が散乱し、近くの茂みには争った形跡がある。人の姿はない。

「石橋の手前でやられたんでしょうな。旧道を選んで正解でした」

 御者の声が低く震えた。私は窓から身を乗り出し、横転した荷馬車の周囲を注意深く見渡したが、血痕はない。荷物だけを奪われて、持ち主は逃がされたのだろう。命まで取る類の野盗ではないらしい。それでも背筋に冷たいものが走った。もし本道を選んでいたら、紋章のない馬車は格好の標的だった。

 公爵令嬢の知識が、こんな形で役に立つとは。

 日が傾き始めた頃、街道沿いの小さな村に差し掛かった。峠を越えたことで御者の緊張も解け、馬に水を飲ませるために村の井戸の前で馬車を止めた。

 井戸端で水を汲んでいた村の女たちが、紋章のない馬車を怪訝そうに見ていた。私が降り立つと、その視線は若い娘の身なりをまじまじと観察するものに変わった。質素とはいえ仕立ての良い旅装は、この辺境の村では目立つのだろう。

「旅のお方ですか。これから先の街道は日が暮れると冷えますよ。よろしければ温かいものでも」

 年嵩の女が声をかけてくれた。素朴な親切に、胸の奥が微かに痛んだ。王都では誰もが私に背を向けたというのに。

 差し出された麦粥の椀を両手で包みながら、私は何気なく尋ねた。湯気が指を温め、粗い麦の香ばしさが鼻先をくすぐった。

「この辺りは、聖女様の浄化の儀の恩恵を受けておいでですか」

 途端に、女たちの表情が曇った。

 井戸端のざわめきが一瞬止まり、互いの顔を見合わせる沈黙が落ちた。年嵩の女が、声を落として言った。

「二月ほど前に、王都から聖女様のお使いが来て、村の外れの祠で浄化の儀をしてくださったんです。それ自体はありがたいことで——けれど」

「けれど?」

「その翌週から、家畜がおかしくなりまして。乳の出が悪くなって、牛が二頭も立てなくなった。鶏もぱたぱたと。獣医を呼んでも原因がわからないと言うばかりで」

 別の女が言葉を継いだ。声は低く、周囲を窺うようにひそめられていた。

「隣の村でも同じだそうです。浄化の儀の後に、畑の作物がいきなり萎れたって。まるで——土から力が抜けたみたいに」

 心臓が跳ねた。ゲームのフレーバーテキストと、同じだ。浄化の儀の後に侍女が倒れ、花壇が枯れる。あの裏設定が、こんな辺境の村にまで及んでいる。マリアベルの奇跡の代償は、王都の内側だけに留まるものではなかった。

『周囲の生命力を吸い上げて奇跡に変換する——略奪型の力。やはり裏設定は事実だった』

 手帳を取り出し、村の名前と日付、証言の内容を書き留める。指先が震えそうになるのを、文字を書く動作で抑え込んだ。これは感情で受け止めるべきものではない。証拠だ。

「書き物をなさるのですね」

 年嵩の女が不思議そうに私を見た。

「ええ。忘れないうちに、旅の記録を」

 それ以上は聞かなかった。村人たちの不安を掻き立てるべきではないし、今の私には聖女の奇跡の裏側を暴く力も立場もない。けれど、記録はできる。点と点を繋ぐ線を、この手帳の中に紡いでいくことはできる。

 麦粥の椀を返す時、年嵩の女が私の手をそっと握った。荒れた掌の温かさが、一瞬だけ胸に沁みた。

「道中、お気をつけなさいね」

 小さく頭を下げて村を後にした。馬車が走り出しても、あの手の温もりがしばらく掌に残っていた。

 村を発ってから二日、街道はさらに細くなり、やがて林の中に消えるような道へと変わった。

 そして五日目の午後——木立の向こうに、灰色の石造りの建物が姿を現した。蔦に覆われた外壁。苔むした石段。質素だが堅牢な鐘楼が、鈍い春の空に突き出ている。セルヴィエ修道院。ここが、私の「余生」を送る場所だという。

 馬車が門の前に止まると、御者が荷を降ろしてくれた。

「ここまでですな。お気をつけて」

 御者は短くそう言い、深く帽子を下げてから馬車を返した。車輪の音が遠ざかり、やがて林に吸い込まれて消えた。門の前に、私は一人で立ち尽くした。風が止み、自分の呼吸だけがやけに大きく聞こえた。

 石段を上り、重い扉を叩く。しばらくの沈黙の後、木の軋む音がして扉が内側から開いた。

 現れたのは、白い修道服に身を包んだ初老の女性だった。銀の髪を布で覆い、深い皺の刻まれた顔に、驚くほど明晰な目をしていた。嵐を幾つも越えた古木のような静けさを纏いながら、その瞳だけが油断なく光っている。

「セレスティーナ・フォン・クレーヴェルトと申します。王都から参りました」

「存じております」

 院長——そう呼ぶべきだろう——は短く答え、私の顔をじっと見つめた。追放された公爵令嬢を見る目ではなかった。哀れみもなく、蔑みもなく、ただ何かを確かめるような、深い注視だった。

 長い沈黙が落ちた。修道院の中庭から、鳥のさえずりが微かに聞こえる。

「不思議ですね」

 院長が口を開いた。声は穏やかだったが、言葉の芯には鋼のような硬さがあった。

「あなたの目は、追放された者の目ではありません」

 息を呑んだ。この人は何を見ている? 私の中にある前世の記憶を? それとも——。

「絶望に沈んだ少女が来ると思っておりました。けれどあなたの瞳には、これから何かを始める人の光がある」

 返す言葉を探す間に、院長は身を翻して修道院の奥へと歩き始めた。修道服の裾が石の床を静かに掃く音だけが、回廊に響いた。

「お入りなさい。あなたの部屋を用意してあります」

 私は石段を越え、修道院の門をくぐった。蔦の絡まるアーチの向こうに、薬草の青い香りが満ちた中庭が広がっていた。回廊に沿って並ぶ石柱の影が、午後の日差しに長く伸びている。

 院長の背を追いながら、手帳を胸に抱き直した。この修道院で私を待っているのが「余生」ならば、それは王太子が意図したものとはまったく違う余生になるだろう。

 指先に、あの微かな温もりがまだ残っている気がした。

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