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代償の聖女——静かなる逆転の譜

第3話 第3話

第3話

第3話

修道院での朝は、鐘の音で始まった。

 夜明け前の薄闇の中、鐘楼から落ちてくる低い響きが石壁を伝い、寝台の木枠を微かに震わせる。王都の鐘とは違う。あちらは都市の喧騒を突き抜けるために鋭く高く鳴り響いたが、この鐘は山間の静寂に溶けるように、ゆっくりと波紋を広げていく。

 与えられた部屋は、修道女たちと同じ独房だった。石壁に囲まれた四畳半ほどの空間に、木の寝台と小さな机と椅子がひとつずつ。窓は掌ほどの大きさしかなく、そこから差し込む朝の光が壁に細い四角を描いている。公爵家の寝室にあった天蓋付きの寝台も、絹のカーテンも、銀の燭台もない。けれど石壁は清潔で、寝具からは陽に干した麻の匂いがした。不思議と、不満はなかった。むしろ、余分なものを削ぎ落とされた空間は、思考を整えるのに都合が良い。

 修道院の一日は厳格に区切られていた。夜明けの祈り、朝食、労働、昼の祈り、労働、夕食、夜の祈り。修道女たちは皆寡黙で、必要以上の言葉を交わさない。最初の数日、私は彼女たちの生活の輪郭をなぞるようにして過ごした。祈りの作法を覚え、食事の配膳を手伝い、回廊の石畳を磨いた。膝をついて石を磨く姿勢は、あの大広間で膝をつかされた時と同じだったけれど、手の下の石が磨くほどに光を返してくるのは、まったく違う感触だった。

 修道女たちは私の素性を知っていたはずだが、誰も問いただしてはこなかった。ただ、時折すれ違いざまに視線が触れる。その中に蔑みはなく、かといって同情もない。観察しているのだ、と気づいた。この追放された公爵令嬢がどういう人間なのか、言葉ではなく振る舞いで見極めようとしている。修道院とは、そういう場所らしかった。

 労働の時間の多くは、薬草園に充てられた。

 修道院の裏手に広がる薬草園は、質素な建物の外見からは想像できないほど豊かだった。石垣に囲まれた段々畑に、セージ、カモミール、ラベンダー、タイム——名前を知っているものだけでも十種を超える薬草が、春の日差しを受けて青々と茂っている。辺境の厳しい気候の中でこれだけの薬草を維持するには、相当な知識と手間が要るはずだった。

 その日も私は、薬草園の端で雑草を抜いていた。土の匂いが指の間に沁み込み、爪の隙間に黒い筋が入る。公爵令嬢の手ではなくなっていく。それを眺めながら、奇妙な充足感を覚えた。

 手を止めたのは、微かな鳴き声が聞こえたからだった。

 石垣の根元に、小さな影がうずくまっていた。灰色の羽を持つ山雀が、片翼をだらりと垂らして地面にうずくまっている。近づいてみると、翼の付け根に赤い線が走っていた。猛禽に襲われたか、あるいは枝に引っ掛けたのか。傷口は浅いが出血しており、小鳥は怯えた目でこちらを見上げている。

 しゃがみ込んで、そっと両手を差し出した。小鳥は逃げなかった。逃げる力もなかったのかもしれない。掌に収まるほどの軽い体を持ち上げると、心臓が驚くほどの速さで脈打っているのが指先に伝わった。小さな命が、怯えながらも懸命に動いている。

『かわいそうに。せめて血を止めてあげなければ』

 薬草園なのだから止血に使える草はあるはずだ——そう考えて立ち上がろうとした、その時だった。

 掌が、光った。

 馬車の中で見た蛍火とは比べものにならなかった。淡い金色の光が両手を包むように広がり、小鳥の灰色の羽毛を透かして翼の傷口を照らした。温かかった。指先から掌へ、掌から手首へ、温もりが脈のように広がっていく。自分の体の奥から湧き出す熱が、掌を通じて小鳥に流れ込んでいく感覚があった。

 小鳥が鳴いた。怯えの声ではなく、短く澄んだ一声だった。

 光が薄れた時、翼の傷は——消えていた。赤い線があった場所には、新しい羽毛が薄く生え揃っている。小鳥は首を傾げるように私を見上げ、それから何事もなかったかのように翼を広げた。二、三度羽ばたいて、石垣の上に飛び移る。そこで一度だけ振り返って鳴くと、青い空に向かって飛び去っていった。

 残された私は、空になった掌をじっと見つめていた。光はもうない。けれど指先には、あの温もりが確かに残っている。馬車の中で感じたのと同じ——いや、あの時よりもずっと強く、明瞭に。

『これは見間違いなどではない。私の掌から出た光が、あの子の傷を癒した』

 背後で、枯葉を踏む音がした。

「——やはり」

 振り返ると、院長が薬草園の入口に立っていた。いつからそこにいたのか。深い皺の刻まれた顔に浮かんでいるのは驚きではなく、長い間待ち望んでいたものがようやく現れた時の、静かな確認の表情だった。

「院長様。今のは——」

「中にお入りなさい、セレスティーナ。お見せしたいものがあります」

 院長の執務室は、修道院の奥まった一角にあった。小さな窓から差し込む光の中、壁一面の書架には革表紙の書物がぎっしりと並んでいる。その中の一冊を、院長は迷いなく引き抜いた。革の表紙は黒ずみ、背表紙の金箔は大半が剥がれ落ちている。百年は優に経ているだろう。

「この修道院は、かつて聖女に仕える修道女たちの修練場でした。今は忘れられておりますが」

 院長は書物を机の上に広げた。羊皮紙の頁が、乾いた音を立ててめくれる。古い教会文字で書かれた文章の中に、挿絵があった。両手から光を放つ女性の姿。その光は対象に向かって柔らかく伸び、傷を包み込むように描かれている。

「聖女の加護とは、大聖堂で授かるものではございません」

 院長の指が、頁の一節を示した。褪せた文字を、私は声に出して読んだ。

「『聖女の加護は器ではなく資質に宿る。真の聖女とは、自らの聖力をもって他者に捧げる者をいう。その光は生命を奪わず、自らを差し出すことによってのみ灯る——』」

 息が止まった。ゲームの裏設定と同じだ。攻略サイトの隅に小さく載っていた一文が、百年以上前の文献に、一字一句違わず記されている。

『あの設定は——この文献が元だったのか』

「この書を読んだことがおありですか」

 院長の声は穏やかだったが、瞳は鋭かった。私の表情の変化を、一つも見逃すまいとしている。

「いいえ。けれど——似た言葉を、どこかで読んだことがある気がするのです」

 嘘ではなかった。前世の画面越しに読んだのだから。

「先ほど薬草園で見せた光。あれは聖女の加護の兆しです。王都の聖女が行う浄化の儀とは、根本的に異なるもの」

 院長は頁をめくり、別の挿絵を示した。今度は二つの図が並んでいる。一方は光を放つ聖女。もう一方は——周囲の草花が萎れ、人々がうなだれる中で光を放つ女の姿だった。

「『自らを差し出す者』と『他者から奪う者』。古の聖典は、この二つを明確に区別しておりました。けれど王都の大聖堂は、いつの頃からかこの区別を教義から削除した」

 なぜ。その問いが喉まで出かかったが、答えは聞かずとも推測できた。聖女の称号は王家が与える。真贋を見極める基準が教義から消えれば、王家にとって都合の良い聖女を据えることができる。

「院長様は、この事実をご存知でいらっしゃったのですね。それなのに、なぜ——」

「なぜ声を上げなかったか、と?」

 院長が静かに書物を閉じた。乾いた革の音が、小さな部屋に反響する。

「辺境の老いた修道女の言葉など、王都には届きません。届いたとしても、聖女の権威を揺るがす異端の説として処理されるでしょう。必要なのは言葉ではなく、証拠と——それを示す力を持つ者」

 院長の目が、真っ直ぐに私を捉えた。

「あなたがここに送られてきた時、私は天の采配を疑いました。断罪され追放された公爵令嬢に、何を期待せよというのかと。けれど今日、あなたの掌に灯った光を見て確信しました」

 書物の表紙に、院長の手が置かれた。節くれ立った指が、剥がれかけの金箔に触れる。

「セレスティーナ。あなたには聖女の資質がある。そしてこの書に記された知識は、あなたがその資質を正しく理解するための道標になるはずです」

 差し出された書物を、両手で受け取った。ずしりとした重みが、掌に馴染むように収まる。先ほど小鳥を癒した時と同じ手が、今は百年の知識を抱えている。

 部屋に戻り、机の上に古い文献と手帳を並べて置いた。窓の外では日が傾き始め、薬草園に夕暮れの影が伸びている。

 手帳を開き、新しい頁にペンを走らせた。「マリアベルの代償」の記録の隣に、「聖女の加護——二つの型」と書き加える。ゲームの裏設定と、百年前の文献。前世の知識と、今この手に灯った光。点と点が、線になり始めている。

 古い文献の頁をめくると、挿絵の端に小さな注釈があった。褪せてほとんど読み取れないが、辛うじて判読できる文字が目に入った。

『——大聖堂の地下に封じられし瘴気の根源。その封印を維持し得るは、真の聖女の加護のみ——』

 指先が、文字の上で止まった。大聖堂の地下。ゲームの終盤で語られる、あの場所。まだ遠い話だと思っていた断片が、今の私に向かって静かに手を伸ばしている。

 窓の外で、修道院の鐘が夕暮れの祈りを告げた。その音は朝よりも低く、長く、山間の空気を震わせて消えていく。

 私は文献を閉じ、手帳を胸に抱いた。掌にはまだ、あの光の温もりが残っている。

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