第1話
第1話
「この悪役令嬢、セレスティーナ・フォン・クレーヴェルトを追放する!」
王太子エドワルドの声が大広間の天井に跳ね返り、シャンデリアの硝子飾りを微かに震わせた。その残響が消えるまでの数秒間、広間は水底に沈んだように静まり返った。やがて沈黙が解けると同時に、数百の視線が私に突き刺さる。嘲笑、安堵、好奇——それらすべてを、私は不思議なほど遠い場所から眺めていた。まるで自分だけが硝子の箱に入れられて、音も温度も一枚の膜で隔てられているかのように。
膝をついた大理石の冷たさが、薄いドレス越しに骨まで沁みる。春の夜会だというのに、この城の石床は冬の湖面のように冷え切っていた。両膝の皿が痺れ始め、太腿の筋肉が小さく痙攣する。
その冷たさが引き金だったのかもしれない。頭の奥で何かが弾け、奔流のように記憶が流れ込んできた。通学路の桜並木。スマートフォンの画面。放課後の部室で友人と遊んだ——乙女ゲーム。コントローラーを握る指の感覚。画面に流れるテキストを読み上げて笑い合った、あのぬるい放課後の空気。記憶はあまりに鮮烈で、目の前の大広間が一瞬だけ揺らいだ。
ああ、そうか。私は今、断罪されているのだ。
王太子の隣で聖女マリアベルが両手を胸の前で組み、憂いを帯びた表情で俯いている。長い睫毛が頬に影を落とし、唇は祈りの言葉を紡ぐ直前のように微かに開いている。あの仕草を、私は知っている。ゲームの断罪イベントで、ヒロインが見せる慈悲深い聖女のポーズそのものだった。CG一枚絵として何度も見た構図が、今は生身の少女として目の前にある。
けれど前世の記憶は、それだけでは終わらなかった。攻略サイトの隅に小さく記された考察ページ。当時は読み流した裏設定の数々が、今になって鮮明に蘇る。
『——聖女の加護は、器ではなく資質に宿る』
つまり、聖女の称号を与えられたから聖女なのではない。生まれ持った資質がある者だけが、真に聖女たり得る。そしてもうひとつ。マリアベルの奇跡には、いつも不自然な代償が伴っていた。浄化の儀の翌日に侍女が倒れ、聖堂の花壇が一夜にして枯れた——ゲームでは単なるフレーバーテキストとして処理されていた異変。
前世の私は、その伏線を読み飛ばした。けれど今の私は、当事者として、この場に膝をついている。
「セレスティーナ。何か申し開きはあるか」
エドワルドが見下ろしてくる。金の髪に碧い瞳。絵に描いたような王太子殿下。夜会の灯りを受けて、その金髪は磨き上げた王冠のように輝いていた。けれどその瞳には、真実を見極めようとする光は一片もなかった。隣の聖女が流した涙だけを信じた、疑うことを知らない瞳。碧い虹彩の奥にあるのは正義の確信だけで、裁く側の人間特有の、酔ったような昂揚すら滲んでいた。
「——いいえ」
私は静かに首を振った。声は思いのほか澄んでいて、自分でも驚くほどだった。膝は凍えているのに、喉だけは前世の記憶に温められていたのかもしれない。
「殿下のご判断に、異を唱えるつもりはございません」
ざわり、と広間にどよめきが走った。取り乱して泣き叫ぶと思われていたのだろう。あるいはゲームのセレスティーナならば、そうしたのかもしれない。ゲームの中の彼女は「嘘よ!」と叫び、マリアベルに掴みかかり、近衛兵に取り押さえられて引きずり出された。その醜態が、悪役令嬢の末路として語り継がれるのだ。
けれど今の私には、前世の記憶がある。この世界の裏側に隠された設定がある。感情に任せて喚いたところで、この場の誰一人として耳を貸しはしない。それならば——
『ここで騒ぐ必要はない。まだ、私には手札がある』
「潔いではないか」
エドワルドが僅かに眉を上げた。想定と異なる反応に戸惑いながらも、すぐに表情を取り繕う。唇の端を持ち上げて余裕を見せようとしていたが、視線が一瞬だけ横のマリアベルに走ったのを、私は見逃さなかった。台本にない台詞を聞いた役者が、演出家に助けを求めるような目だった。
「三日以内に王都を発ち、辺境のセルヴィエ修道院にて余生を過ごすがよい。クレーヴェルト公爵家との婚約は本日をもって破棄する」
余生、と彼は言った。まるで私の人生がここで終わるかのように。十七歳の少女に向かって「余生」と。その言葉の残酷さに、本人は気づいてすらいないのだろう。
隣でマリアベルが小さく息を呑む仕草を見せた。計算された動作だった。周囲に「聖女は追放を望んでいない」と思わせるための、完璧な演技。実際、彼女の背後にいた侯爵夫人が感極まったように目頭を押さえ、「なんとお優しい聖女様」と囁くのが聞こえた。
けれど私の目は、彼女の別のものを捉えていた。組んだ両手の指先が、微かに震えている。感情による震えではない。あれは——力を制御している時の震えだ。前世のゲームで、マリアベルが奇跡を行使する直前に見せるモーションと同じ。左手の薬指だけが不自然に白く血の気を失っている。魔力の通り道が末端に集中している証拠。
『今この瞬間にも、彼女は力を使っている? 誰に対して?』
答えを探す間もなく、近衛兵が私の腕を取った。鉄の籠手に覆われた指が二の腕に食い込み、立ち上がる暇もなく引き上げられる。大広間を横切る私の背中に、数百の視線が注がれる。嘲りの囁きが波のように追いかけてきた。
「やはり悪役令嬢の名に恥じぬ傲慢さですわ」
「涙のひとつも見せないなんて」
そうね、と心の中だけで応じる。涙は、取り戻すべきものを取り戻す時まで取っておく。
大広間の扉が閉じる直前、私は一度だけ振り返った。マリアベルが私を見ていた。慈悲深い聖女の微笑みの奥に、ほんの一瞬——安堵の色が過ぎるのを、私は見逃さなかった。あの微笑みは観客席に向けた仮面であり、その下から覗いた素顔は、厄介な駒をひとつ盤上から消した棋士の顔だった。
『覚えていなさい、マリアベル。あなたの奇跡の代償を、私は知っている』
重い扉が軋みながら閉じ、シャンデリアの灯りが細い線になり、やがて消えた。広間のざわめきが厚い樫の板に遮られ、廊下には私の足音と近衛兵の鎧が擦れる金属音だけが残った。
三日後、王都の門を出る質素な馬車の中で、私は揺れに身を委ねていた。
護衛はない。侍女もいない。クレーヴェルト家の紋章すら剥がされた馬車には、着替えの入った革鞄がひとつと、辺境修道院への紹介状だけが積まれていた。紋章を剥がした跡が日焼けの差として扉に残っており、かつてそこに何があったかを無言で語っていた。
石畳の振動が車輪を通じて腰骨に響く。窓の外では、四月の柔らかな日差しの中を王都の尖塔が遠ざかっていく。街路樹の若葉が風に揺れ、その隙間から白い塔が見え隠れするたび、少しずつ小さくなっていく。あの塔のどこかで、マリアベルは今頃、勝利の余韻に浸っているのだろうか。
私は革鞄から一冊の手帳を取り出した。表紙の革は使い古されて角が擦れており、前のセレスティーナが家庭教師の講義ノートとして使っていたものだった。最後の数ページに書かれた筆記体は几帳面で美しかったが、内容は社交辞令の定型文と刺繍の図案ばかりだった。私はその続きから、まったく異なる文字で書き始めた。
王都を発つ前の三日間で、できる限りのことはした。前世の記憶にある裏設定を、忘れないうちにすべて書き留めた。マリアベルの浄化の儀と、その前後に起きた異変の日付。侍女たちの体調不良の記録。大聖堂の花壇が枯れた時期。ゲームのフレーバーテキストに過ぎなかった情報が、今は私の唯一の武器だった。
三日間は短かったが、無駄にはしなかった。父の書斎に忍び込み、クレーヴェルト家の領地台帳の写しも数枚持ち出した。公爵家の娘としての権限はもう使えない。だが知識は、誰にも剥がせない紋章だ。
『ゲームのセレスティーナは、ここで絶望して終わった。修道院で静かに朽ちていく、悪役令嬢の末路』
だけど私は、あのセレスティーナとは違う。
馬車が街道の轍に揺られ、がたりと大きく跳ねた。手帳が膝から滑り落ちそうになり、慌てて押さえる。その拍子に指先が手帳の革表紙に触れた瞬間——指の腹に、温かい光の粒が灯った。
一瞬のことだった。蛍火よりも淡い、けれど確かな聖光。薄暗い馬車の中で、その光は指先から手帳の表紙を照らし、古い革に刻まれた細かな皺まで浮かび上がらせた。すぐに消えてしまったそれを、私は呆然と見つめた。息を吸うのも忘れて、光があった場所を凝視する。指の腹には微かな痺れが残り、それは痛みではなく、長い間眠っていた何かが目を覚ました時のような、じんわりとした温もりだった。
聖女の資質は、器ではなく生まれ持った魂に宿る。裏設定の一文が脳裏を過ぎる。
『まさか——私が?』
指先にはもう光はない。見間違いだったのかもしれない。馬車の窓から差し込む西日が手帳の金具に反射しただけかもしれない。けれど、指先に残る微かな温もりだけは、確かにそこにあった。手帳を持ち直して両手で包み込むと、革の匂いの奥に、春の野花に似た香りが一瞬だけ混じった気がした。
遠くに辺境の山並みが霞んで見える。修道院まではあと五日の道程。その向こうに何が待っているのか、今の私にはまだわからない。
けれど、手帳を握り直す指先に、震えはなかった。